昨夕、このブログで書いた「吾神なり(我神なり)」という言葉を、私は大変に気に入ってしまった。
この言葉がまさに、「この世界、あるいは、私の人生を創っているのは私である」という真実を表しているからだ。
つまり、これほどの真実の言葉はない。
合氣道家の藤平光一が、「真理を口にすれば氣が出る」、すなわち何ごとも思い通りになると書かれていたが、藤平氏が出した1つの真理の言葉が「重みは下にある」だった。もちろん、地球上においては正しく、この言葉を口に出せば氣が出るだろう。
ニサルガダッタ・マハラジは、最高の真理は「私は存在する」であり、これが最高の真言(マントラ)であると言った。
しかし、「吾神なり」「私は神である」は、最もストレートでシンプルな真理で、それらの言葉に優る。
なぜなら、「重みは下にある」や「私は存在する」の認識は、心や感覚器官に依存するが、「吾神なり」にはそれがない。

「吾神なり」は、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の文語的翻訳でもそう書かれていたが、どうも私は、この言葉の読みで「われ雷(かみなり)」という言葉が浮かんでしまう。
だから、素直に「私は神である」とか、「われは神」と言うことが多いが、ここらはこだわる必要はなかろう。自分が好きな言葉を使えば良い。学校なら、どれか1つに強制されるのだが。それも下らない理由で(笑)。

では、私は神であるのに、その割には人生がぱっとしないのはなぜだろう?(笑)。
それは、ラマナ・マハルシが説明している通り、簡単に言えば、神は心の潜在的傾向性を、そのまま外界に投影してしまう・・・つまり、心の深いところにある想いのまま世界を作るのである。
それで、その心の深いところの想いを好ましいもの(大金持ちや美男美女になるなど)にするというのが引き寄せのテクニックだが、それはほとんどうまくいかない。
なぜなら、それ(心の潜在的傾向性)は幼い時から、親や学校、そしてテレビによって繰り返し叩き込まれたもので、非常に強固であるからだ。
だが、「われは神」と言って、心の奥にあるものを外界に投影させているのが自分であると宣言することで、それ(心の潜在的傾向性)は消えていく。
魔物は正体を見破られると消えるというのは、世界中のおとぎ話のパターンである。

20世紀最大の詩人と言われたノーベル賞作家W.B.イェイツのお気に入りの話に、アラブの賢者の話がある。
この賢者は、家族を賊に殺された時、家を奪われた時、そして、自分の死期を悟った時という、普通なら最大の悲劇と思われる出来事が起こった時、最大の歓喜を感じた。
この賢者は、世界で起こること全てを自分の意思と見なしていて、それによって神に近付くと理解していたからだ。
だが、この話は複雑過ぎるし暗過ぎる。
全く、根暗なイェイツの好きそうな話だが(笑)、我々はもっとシンプルで明るいハッピーな形で理解すべきだ。
まあ、根暗な人はイェイツ式で行けば良い。実は、ニーチェもイェイツと同じ考え方だった(ニーチェの方は今回は省く)。

澄んだ空気
AIアート522
「澄んだ空気」
Kay


心の潜在的傾向性を自分で作る必要はない。
引き寄せのテクニックでは「私は金持ちだ」とか延々と唱えて、それを心の潜在的傾向性にしようというのだが、それはあまりうまくいかない。
なぜなら、本気で金持ちになりたいと思っている人でなければ、それを唱えることは長続きせず、無理にやればストレスでさらに悪い心の潜在的傾向性を作る危険があるからだ。
そんなことは何もしなくても、余計な心の潜在的傾向性が消えれば、神である私が心の奥にある良いものを取り上げ、外界に創造し、いずれ心が完全に消えれば、天国が現れるのである。それを悟りと言う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)アイ・アム・ザット 私は在る
(4)氣の威力
(5)イェイツ
(6)ケルトの薄明(W.B.イェイツ)
(7)ツァラトゥストラ(上)
  
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