人間の能力の限界は、脳の性能の限界と言うよりは、感覚器官の限界かもしれない。
デカルトは、「単に正しいと思える程度のことは全て間違いと決めた」と言ったが、この「単に正しいと思えること」とは、たとえば、太陽と月の大きさは目で見れば同じといったように、感覚器官を介した認識での正しさのことを言うのだと思う。
視力も聴力もなかったヘレン・ケラーは「五感は幻想。Ideaが真実」と書いたが、Ideaをアイデア(観念)という意味で使ったのか、プラトン哲学のイデア(純粋理性概念)のつもりで使ったのかは分からないが、とにかく、彼女は五感は信用ならないと断言している。
『バガヴァッド・ギーター』でも、クリシュナ神は、五感を外に働かせるなと教えている。

「百聞は一見にしかず」という言葉は、別に視覚が聴覚に優るという意味ではなく、「自分の目で見、自分の耳で聞いたことしか信じるな」という意味で、つまり、噂話のような信憑性のないことを信じるなという意味だ。
しかし、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことも十分に疑わしいはずである。
それで、ちょっと昔、栗山天心という事業家が、「百見は一験にしかず」と、経験の重要性を訴えたが、経験も感覚器官を通した記憶であるだけでは疑わしく、内面の閃きを伴ったものでなければ正しいとは言えない。

脳は、本来は大変な能力を持っているが、どうやら何等かの制限がかかっているようだ。
ジル・ボルト・テイラーという脳科学者は、脳梗塞を起こすことで、偶然、脳にかかった制限が消え、脳本来の素晴らしい能力を経験した。
それでテイラー博士は、誰もが正常な状態で脳の力を引き出す方法を考え、世界中に啓蒙しているが、おそらくうまくいかないだろう。
彼女は理屈で考えることで、またまた脳に制限をかけていることに気付いていない。
脳本来の性能を発揮させるには、思考を消すことが必要なのだが、テイラーという最高の脳の研究者がそれに気付かないのだ。
立ち読みした本に書いてあったのを見ただけだが、無脳症といって、脳がないに関わらず、IQ120(優秀と判定される)を示し、大学の数学科を優秀な成績で卒業した青年がいたらしいが、脳はほんの一部があれば高度な知性を示す働きが出来るのかもしれない。

これらの情報から推論すると言うよりは直観的に、脳は思考回路というよりは、我々の知る通信装置とは違う高度な感応装置であると考えられる。
脳にも、それなりの思考機能があるが、天才といったところで脳自体の能力は高くはない(アインシュタインの脳も、実際のところ、凡人との明確な差異はないらしい)。
だから、イーロン・マスクは、脳にチップを埋め込み、脳を外部装置と連携させることで、脳の機能を高めようというアイデアを思いつき、実行しようとしている。彼は、天才はチップを埋め込む必要はないとは言っていない。
だが、そんなことをすれば、歪みが生じ、狂気に陥るだけだ。
脳は感応装置としては完璧で、余計なことでその機能を邪魔しなければ良いだけである。
つまり、思考を消せば、それで十分なのだ。
そうすれば、感応装置としての脳が、どんな形で存在するのかは分からないが、恐るべき能力を持つ英知と共鳴するのである。ここらは、直観に優れた太古の賢人達が言っていることである。

視線
AIアート432
「視線」
Kay


理屈を説明すると長くなるので略すが、深呼吸をすれば思考は消え、宇宙の英知と感応する度合いが高まっていく。
宇宙の英知は、単に情報的に賢いのではなく、世界を創造し形作る力がある。
その力は無限で、完全な引き寄せの能力がある。
宇宙の英知そのもの、あるいは、宇宙の英知との感応を、昔から神と呼んできたのであり、宇宙の英知を指す時には、神、ブラフマン、大神と言い、宇宙の英知との感応を指す時、内なる神、アートマン、魂と呼ぶが、通常は区別をする必要はない。
そこで、「私は神にいっさいをゆだねる」と宣言し、自分で考えて邪魔をしなければ、自分を超えた高次の存在である宇宙の英知が一切の面倒を見てくれる。
「私は神に一切をゆだねる」の「神」の部分は、仏でもクリシュナでも阿弥陀仏でも魂でも内なる神でも良い。私は内なる神とか魂という言い方が合っているが、それは人ぞれぞれだろう。
そして、深呼吸をすれば、思考が消え、神にゆだねた状態になりやすい。特に優れた方法での深呼吸の場合は効果が高い。
深呼吸をすれば、IQも高くなり、上記の文章も楽々と理解出来るが、それよりも、神に等しい魂の力を引き出せるようになり、全知全能に近付いていくのである。








  
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