頭の良さとは、抽象化能力だと言う人も多く、あながち間違ってはいないと思うが、抽象化能力とは、簡単に言えば分類する能力だ。
たとえば人間を、男か女か、若いか年寄りか、賢いか馬鹿か、イケメンか不細工な顔か・・・といった感じだ。
じゃあ、どんなふうに分類能力に差があるかというと、ちょっと面白い。

たとえば、「魚とカラスの違いは?」と聞かれたら、普通は、まず鳥類か魚類かで分けるが、頭が悪い者は「食えるか食えないか」などと答える。
また、馬鹿に「女性」を分類させると、たとえば、「若いかオバサンか」とか言い、実際、それ以外の分類はほとんどしないが、少しは賢ければ、もっと複雑高度な分類をするだろう。
「世代が新しいほどIQが高い」と言った哲学者のジェームズ・フリンはこれを、「IQが低い者は自分の経験の中でしか考えない」と言った。
たとえば、自分は魚は食べてきたが、カラスは食べてこなかったという感じだ。
また、女性を見ると「若いか年寄りか」にしか興味が湧かないのも、若いと性的欲望を感じるが、年寄りだとそうではないという経験から分類しているのである。

しかし、いくら経験からとはいえ、女性を若いか年寄りかでしか分類しないのは、あまりに範囲が狭いが、こういうのを「視野が狭い」と言い、それはまさに馬鹿を指す。
実際は、いくら馬鹿でも、女性を若いか年寄りかだけで分類するわけではないが、それに近いことをするのであり、そういうことを「分類能力が低い」、つまり、「抽象化能力が低い」と言うのである。

ところが、抽象化能力が高く、多様な分類が出来る賢い人は、女性を見ても、多様な分類をするので、若いか年寄りかにこだわらない。
だから、恋愛視点という部分でも、若くなくても良いところが分かるのである。
馬鹿ほど、女性が若いこと、男がイケメンだったり金持ちだったりすることを絶対視するが、賢い人はそうではないわけだ。
優等生が、試験問題のパターン分類のみ出来るのも、馬鹿な男が女性を若いか年寄りか、美人かブスかで分類するのと近く、よって、お勉強しか出来ない者は馬鹿なのである。

人魚のおひいさま
AIアート281
「人魚のおひいさま」
Kay


ところが、超面白いことに、『荘子』の『斉物論』を見ると、神的賢者は、いっさい分類をしないと書かれている。
馬鹿は女性を若いか年寄りかくらいの分類しかしないが、超賢者は、「若いか年寄りかすら分類しない」のである。
馬鹿は、魚とカラスを「食えるか食えないか」で分類し、少し賢ければ、魚は魚類、鳥は鳥類と分類するが、超賢者は、いっさい分類せず、いわば、魚もカラスも同じと見る。
ここに、「本当の賢さ」の鍵がある。
つまり、「分類しないからこそ、無限の分類が出来る」のである。
荘子の「無為の為」「無知の知」とは、「何もしないことで全てを為す」「何も知らないから全て知っている」ということである。

これが、ここでいつも言っている「思考を消せば全知全能」という意味である。
何も考えなければ・・・下らない考えを取り込まなければ、元々天才なのである。
だから、岡本太郎は、授業中、両耳を固く手で塞いで、教師の愚かな考えが自分の聖なる脳に侵入してくるのを禁じたのである。








  
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