今朝はソクラテスの思想を示すと言われる「無知の知」「私は自分が何も知らないということだけを知っている」という言葉に関し、決して、
「自分は無知だからもっと勉強しないといけない」
とか、
「ソクラテスでさえ何も知らないというなら、私はもっとずっと知らないのだから謙虚にならねば」
という意味に受け取ってはならないと書いた。

これらの言葉は、荘子の言う「知の限界を知る」ということで、しかも、人間の知なんて卑小で、その限界などとても低いと荘子は言っているのである。
ソクラテスもまた、いくら賢人と褒められても、たかが人間である自分の知恵など他愛ないもので、本当の知恵は内なる神の霊から来るのだと言った。
これは全く正しいと思う。

ニュートンや、あるいは、デカルトも同じ考え方だったのだ。
有名なニュートンの「浜辺の子供」の話をご存じかもしれない。
うろ憶えだが、ニュートンはこんなことを述べていた。
「私は砂浜で遊ぶ子供だった。時折、きれいな貝殻や石ころを見つけて楽しんでいたが、目の前に横たわる真理の大海には全く手をつけられなかった」
ニュートンは傲慢な人間だった。
だが、そんなニュートンすら、一番と言われる科学者の自分でも、人間の知性はせいぜい、貝殻や石ころを拾い上げる程度なのだと言う。
まさに、ソクラテスの「無知の知」「何も知らないということしか知らない」、荘子の「人間の知の限界」を痛感していたのだ。
そして、実は、ニュートンは、ほとんどの時間を聖書の研究に注ぎ、数学や物理学はついでにやっていたようなものだった。
彼は、真理の大海に挑もうとしたのかもしれない。
しかし、それはバベルの塔を建てるようなものだったのだろう。

夏の暑さにも負けぬ
AIアート240
「夏の暑さにも負けぬ」
Kay


だが、思考を消せば、誰でも、神の霊と通じ、その知恵と力を現わすことに、ほとんどの人が気付いていない。
それどころか、現代人は、思考という神を崇拝し、心(思考)を魂(神)の上位に置くという愚かなことをしている。
このままでは、この世界は持ちこたえることは出来ないだろう。
だが、そうだとしても、思考を消した者には何の関係もないのである。








  
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