潜在意識の活用による成功法則(現代の引き寄せの法則と同じ)で世界的に有名なジョセフ・マーフィーは、本来は「単語法」とも言うべき、特定の1つか数個の単語を繰り返し唱える方法を勧めていた。
だが、自身が牧師であることや、キリスト教徒である人々に受け入れられやすいことから祈りの言葉の形式を使ったり、時々の流行を取り入れたりして、単語法が目立たなくなったと思う。
マーフィーがよく勧めていたのは「成功」「富」、あるいはそれらを組み合わせ、「成功、富」という言葉を出来るだけ多く唱えることだった。
ただ、よく誤解されるように、これらの言葉を繰り返し唱えることで、心の中に成功や富のイメージを作るのではない。
そうではなく、ただ、淡々と唱え、それらの言葉を潜在意識に送り込む・・・というのは、実践的には良いが、実際は、これらの言葉を唱えることで、これらの言葉以外の思考を消すためであった。
もっと詳しく言えば、「成功」とか「富」という言葉は快の言葉なので唱え易く、初めはイメージを伴うが、長く唱えているうちに思考が消えるのである。
そして、思考が消えれば、マーフィーが潜在意識と呼ぶ魂の全知全能の力が現れるのである。
本当のカラクリはこの通りである。
だが、ラマナ・マハルシは、思考する主体である「私」に心を向ければ思考が消え易いことを発見し、「私は誰か?」と問うことを勧めたのである。
だが、後には、「私は誰か?」ではなく「私」とだけ唱えることも教えるようになった。
ひょっとしたら「私」の方が「私は誰か?」より効果的かもしれないし、いずれにしても効果があるのだから、好みで「私」と唱えても良い。
ただし、いずれにしろ、出来るだけ多く唱える必要がある。
ところで、日本人は「私」という呼称をあまり使わない。使うとしたら、ビジネスや学校といった改まった場で、普段は、「僕」「俺」「あたし」などと言う場合が多い。
だが、「僕、僕、僕、・・・」では、どうも感じが悪い。
それで、日本人には「南無阿弥陀仏」「アジマリカン」「トホカミエミタメ」といった言葉が好まれる傾向がある。
これらの言葉に優劣などあるはずがなく、自分が勧める言葉が最も優れているなどと言う者は相手にしない方が良い。
単に、これらの言葉を唱えることで思考を消すという以外の意味はないのだから。
AIアート189
「百合が香る庭」
Kay
ところで私は「われなし」「私はない」「私は存在しない」という、まさに聖者の教えと真逆の言葉を唱えるようになった。
すると、怪我や病気が急速に治っていくような感覚があるのは、それほど速やかに心が消えるからだろう。
ただし、これはやはり聖者の教えに反するので、お薦めする気は全くない。
ラマナ・マハルシが生きていた時の時代背景や、教えた相手が無知な人々であったことで「私は誰か?」が最適であったかもしれないし、今でも高い効果を示す。
まあ、私は勝手に「われなし」と唱えることとする。
これは、ニサルガダッタ・マハラジの至高のマントラ「私は在る」を否定し、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」も否定する。なぜなら、「われ思う」と言う時点で思っているのだから、われはあるということになる。
だが、ルドルフ・シュタイナーが「われ思うゆえにわれなし、われ思わずゆえにわれあり」を言ったのをヒントに、これを修正した。
コリン・ウィルソンが、「思おうが思うまいがわれはある」とデカルトを批判したように、私は、「思おうが思うまいがわれはない」とシュタイナーを批判・・・というのではないが修正したのだ。
シュタイナーは「われ思う」「われ思わず」の「われ」を自我の意味で言い、「われあり」「われなし」の「われ」を真の自分である魂の意味で使っているのだから混乱するのである。
言葉にする限り、「われ」「私」は自我であり、心であり、思考である。
よって、「われなし」「私はない」が正解であることは間違いないと思える。
だが、自身が牧師であることや、キリスト教徒である人々に受け入れられやすいことから祈りの言葉の形式を使ったり、時々の流行を取り入れたりして、単語法が目立たなくなったと思う。
マーフィーがよく勧めていたのは「成功」「富」、あるいはそれらを組み合わせ、「成功、富」という言葉を出来るだけ多く唱えることだった。
ただ、よく誤解されるように、これらの言葉を繰り返し唱えることで、心の中に成功や富のイメージを作るのではない。
そうではなく、ただ、淡々と唱え、それらの言葉を潜在意識に送り込む・・・というのは、実践的には良いが、実際は、これらの言葉を唱えることで、これらの言葉以外の思考を消すためであった。
もっと詳しく言えば、「成功」とか「富」という言葉は快の言葉なので唱え易く、初めはイメージを伴うが、長く唱えているうちに思考が消えるのである。
そして、思考が消えれば、マーフィーが潜在意識と呼ぶ魂の全知全能の力が現れるのである。
本当のカラクリはこの通りである。
だが、ラマナ・マハルシは、思考する主体である「私」に心を向ければ思考が消え易いことを発見し、「私は誰か?」と問うことを勧めたのである。
だが、後には、「私は誰か?」ではなく「私」とだけ唱えることも教えるようになった。
ひょっとしたら「私」の方が「私は誰か?」より効果的かもしれないし、いずれにしても効果があるのだから、好みで「私」と唱えても良い。
ただし、いずれにしろ、出来るだけ多く唱える必要がある。
ところで、日本人は「私」という呼称をあまり使わない。使うとしたら、ビジネスや学校といった改まった場で、普段は、「僕」「俺」「あたし」などと言う場合が多い。
だが、「僕、僕、僕、・・・」では、どうも感じが悪い。
それで、日本人には「南無阿弥陀仏」「アジマリカン」「トホカミエミタメ」といった言葉が好まれる傾向がある。
これらの言葉に優劣などあるはずがなく、自分が勧める言葉が最も優れているなどと言う者は相手にしない方が良い。
単に、これらの言葉を唱えることで思考を消すという以外の意味はないのだから。
AIアート189
「百合が香る庭」
Kay
ところで私は「われなし」「私はない」「私は存在しない」という、まさに聖者の教えと真逆の言葉を唱えるようになった。
すると、怪我や病気が急速に治っていくような感覚があるのは、それほど速やかに心が消えるからだろう。
ただし、これはやはり聖者の教えに反するので、お薦めする気は全くない。
ラマナ・マハルシが生きていた時の時代背景や、教えた相手が無知な人々であったことで「私は誰か?」が最適であったかもしれないし、今でも高い効果を示す。
まあ、私は勝手に「われなし」と唱えることとする。
これは、ニサルガダッタ・マハラジの至高のマントラ「私は在る」を否定し、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」も否定する。なぜなら、「われ思う」と言う時点で思っているのだから、われはあるということになる。
だが、ルドルフ・シュタイナーが「われ思うゆえにわれなし、われ思わずゆえにわれあり」を言ったのをヒントに、これを修正した。
コリン・ウィルソンが、「思おうが思うまいがわれはある」とデカルトを批判したように、私は、「思おうが思うまいがわれはない」とシュタイナーを批判・・・というのではないが修正したのだ。
シュタイナーは「われ思う」「われ思わず」の「われ」を自我の意味で言い、「われあり」「われなし」の「われ」を真の自分である魂の意味で使っているのだから混乱するのである。
言葉にする限り、「われ」「私」は自我であり、心であり、思考である。
よって、「われなし」「私はない」が正解であることは間違いないと思える。
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