ラマナ・マハルシが言う、思考(=心)を消すことで得られる究極の成果を、翻訳書では「真我の実現」としている。
これは、昔から翻訳者を問わず共通しており、意図的に最初の翻訳者に合わせたのかもしれない。
しかし、誰も「真我の実現」などという言葉を使うことはないので、意味が分からないのが当たり前と思う。
とはいえ、この言葉を細かく説明するメリットはない。
そこで、「真我の実現」とは、だいたい「神になる」ことと思うのが良いと思う。
よって、思考(=心)を消せばどうなるのかと言うと、「神になる」のである。
あくまで、だいたいであり、いくらでも反論出来るのは分かっているが、他に言いようがないし、これが一番分かり易い。
神とは全知全能で、出来ないことはない存在であることは、誰もがぼんやりと知っていると思うが、その認識で良い。
人間の本体は魂であり、魂は神である。
一応であるが、だいたいそう思うべきである。
そうとでもしないと話が進まない。
尚、「真我を実現する」を「解脱する」「悟りを開く」と同じ意味と思っても良いと思う。
つまり、解脱したら、あるいは、悟りを開いたら、神(あるいは仏)になるのであり、神(あるいは仏)は全知全能である。

野の花
AIアート179
「野の花」
Kay


ところで、ラマナ・マハルシは、神になる(真我を実現する。解脱する。悟りを開く)方法は2つあるとした。
1つは、ここでいつも言う「私は誰か?」と自分に問うことだ。
もう1つは、「明け渡し」といい、神様に自分の人生を全て任せきるということだ。
つまり、「明け渡し」とは「全ては神の思し召しであり、私はそれを受け入れます」ということである。
マハルシは、この2つの道を同等としたが、マハルシと同時代の聖者ニサルガダッタ・マハラジの弟子であったラメッシ・バルセカールは「明け渡し」の方を勧めていた。
なぜかというと、そっちの方がうまくいくと思ったからだろう。
しかしだね、「明け渡し」をしようとしたら、普通の人はこう考えるはずだ。
「神様に一切を明け渡したら、金持ちにしてくれるのだろうか?いい女はくれるのだろうか?みんなが私を尊敬し、優しくしてくれるのだろうか?」
「まさか極貧になったり、皆に蔑まれるようになったりしないよな?神様はそんなことはしないよな?」
だが、「明け渡す」つまり「神様に一切をまかせる」とは、後者のようにあっても、一切文句は言わず受け入れるということだ。
「そんなのまっぴらだ」と普通の人は思うだろうが、それは明け渡していないということだ。
実際は、明け渡してしまえば、良いことだらけに決まっているが、それ前提ということは、やっぱり明け渡していないのだ。
つまり、私の見解では、「明け渡し」が成功することは、まずないのだ。
いやまあ、私がそうだったのだ(笑)。
表面的には、「一切は神様が決めた通り」という風を装っていても、本音では「あれが得られるよな」「これも得られるよな」と思っていて、ちっとも明け渡していないのだ。

よって、そんな偽善者ぶったことをした挙句、うまくいかないよりは、ひたすら「私は誰か?」と問うことで、少しずつ思考(=心)を消すことを勧める。
「私は誰か?」と問うていれば金持ちになれるとか、いい女(いい男)が得られると思ったって構いはしない。実際、そうなのだから。
だが、「私は誰か?」と問うと、そんな思いも消えてしまうのである。
「私は誰か?」と問いながら、「あの子とやりたい」(昨夜のイェイツの詩『政治』を真似た)と思うことは出来ない。
ひたすら、「私は誰か?」と問うことを勧める。








  
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