思考を消せば全知全能である。
どんな困難な問題を抱えている人でも、「私は誰か?」と自分に問うことで思考を消せば、問題は無かったことになる。
しかし、それを納得させることは非常に難しい。
なぜ難しいのかというと、思考をしているからだ(笑)。
だが、魂に導かれて「私は誰か?」と問うようになっても、継続が難しい。
なぜ難しいのかというと、やはり思考をするからなのである。

ところで、では、いつから思考するようになるのだろう?
正確には分からないが、私の場合は、小学3年生の途中からと分かっている。
小学2年生の時、こんなことがあったからだ。
学年の最後のあたりだったが、担任教師が、クラスメイト全員をランキング付けしたことがあった。
総合成績ということと思うが、1クラス40人なら、1番から40番まで順位をつけ、それをクラスの中で発表した。
「1番は〇〇君」
と発表されると、皆が拍手した。
2番も3番も拍手された。
私は下の方だったと思うが、やはり拍手された。
今の時代、こんなことをすれば、その教師や学校は非難されるかもしれない。
下の方の子が劣等感を感じて可哀そうだとか、順位付けの害悪が主張されるなどだろう。
ところが、私は、そんな順位に何も感じていなかったのだ。
「あいつより下とは納得がいかない」だの「あの子に勝って嬉しい」だのは全くなかった。
本当にどうでも良かったのである。

朝の挨拶
AIアート175
「朝の挨拶」
Kay


『荘子』にこう書かれている。
「真の知恵者は古代人であった。彼らは区別をしなかった。やがて区別をするようにはなったが優劣はつけなかった。だが、優劣をつけるようになると愚かになった」
思考とは、区別をすることから始まる。
そして、思考が大きくなると優劣をつけるようになる。
小学2年生の時の私は、区別はするが優劣はつけなかった。
たとえば、背が高い子と低い子がいたり、駆けっこが速い子がいれば遅い子がいることは分かったが、背が高い方が良いとか、駆けっこが速い方が偉いといった考えは全くなかった。
すでに親や教師に多くの偏見を叩きこまれてはいたが、区別はしても差別はしなかったのだ。
そんな当時の私は、大人の基準で言えば奇跡と言うしかないことを自然に起こしていた。
ただし、4歳頃には、叩き込まれた偏見のせいで自在に世界を動かすほどの力はなかったが。

「私は誰か?」と自分に問い、思考が消えていくと、優劣をつけなくなる。
そして、さらに進めば、区別をつけなくなる。
中島敦の『名人伝』で、究極の進歩を遂げた弓の名人は言う。
「我と彼の区別がつかない。鼻と口の区別がつかない。善と悪の区別がつかない」
書かれてはいないが、この名人は全知全能である。
思考を消した人間について、ここまで端的に描いた文学はそうはないと思う(ただし、このお話は中国の『列子』『戦国策』の引用である)。
この弓の名人が、どんな修行をしたかは書かれていない。
だが、「私は誰か?」と自分に問う以上の修行はない。








  
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