人間が嫌いなものは不安である。
なぜ人間は不安が嫌いなのかというと、人間が本質的に不安の対局である安らぎを求めているからだ。
人間は、富や名誉や酒池肉林(しゅちにくりん)のようなものを求めているのではなく、ぐっすりと眠れることを求めているのである。
そして、不安を消し安らぎを得るには、心を消せば良いというか、心を消す以外の方法はない。
心を消すこととは思考を消すことと同じである。
考えている限り、不安があり、安らぎはない。

そして、心(=思考)を消す最上の方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
だが、真面目に「私は誰か?」と自分に問うている者が、こんな状況に陥ることが、おそらく必ずある。
それは、「私は誰か?」と問うているのに不安だらけで苦しいということだ。
それで、「私は誰か?」と問うことに効果はないのではと思うだろう。
それなら、世間で人気がある「大丈夫」という言葉の方が良いと思い、試しに唱えてみると、確かに気楽になる気がする。
実際、「大丈夫」は慰めになるが、言ってみれば慰めにしかならない。

一人の道
AIアート163
「一人の道」
Kay


なぜ、「私は誰か?」と唱えていても効果がないのかというと、数が足りないだけである。
「大丈夫」も、唱え続けている限り心が落ち着く感じがする。
しかし、やはり、唱えている間だけである。
だが、「私は誰か?」は、心を消していくので、やがては問うていない時でも、そして、心が消えれば、常時、平安でいられる。
もっとも、心が消えたとは言っても、うまい譬えかどうかは分からないが、ニサルガダッタ・マハラジが言ったように「ハチミツのような心」は残る。
つまり、水が、かき混ぜると、かき混ぜるのをやめても長い間動いているのとは違い、ハチミツは、かき混ぜるのを止めると直ちに停止するようなものである。
これを釈迦は「聖者は第二の矢を受けず」と言い、聖者だって怒ったり「美しいなあ」と思うのは凡人と同じだが、凡人は、怒ったら仕返しをしたくなり、美しいなあと思ったらそれを手に入れたいと思うが、聖者にはそれがない。
これを、「聖者は心が魂に従っている」と言い、「凡人は心が玉座に座っている」と言うこともある。
そこでイエスは、「汝(=心)破れたり。私(=魂)の後方に退けサタン(=心)」と言ったのである。

素振りの足りないバッターが打てないように、「私は誰か?」と問う数が少ない人間は、心が玉座から降りないのである。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ