このブログのメインテーマの1つになったが、この世界で真の力を得る手段は「自主的な反復」のみである。
これは、誰にでも出来、得られる力を決めるのは「回数」だけである。
よって、1回1回は楽でなければ無理であるが、楽ではあってもチャランポランでは駄目で、真面目というか真剣でなければならない。
また、数多くやるのは大変そうに見えることを楽にやることに秘儀めいたものを感じるのである。
ところで、反復と言ったら、一頃ブームになった「ルーチン」のことを思い出したり、「ああ、ルーチンですね」と安易に納得する者もいると思うが、ルーチンとは違う。
ルーチンは、形式化、無意識化、習慣化しているが、力の反復はそうではない。
野球の素振りはルーチンではなく、もし、素振りをルーチン化しても力は得られない。
楽ではあっても、自主的、意識的に振るはずで、やはり「真剣」なのであるが、真剣が度を過ぎてもいけない。
とはいえ、別に難しいことではない。
一言で言えば「丁寧」にやれば良い。
「丁寧」は、いつも、自主的、意識的であるのだから。
そして、「丁寧」こそ人間最大の美徳であり、万物の霊長たる人間と、獣と変わらないレベルの人間を分けるポイントは「丁寧」である。

偉大なセールスマンであった夏目史郎に関する、こんな話がある。
彼が一時、19歳の女子大生をセールスの助手にしていたことがあったらしいが(今の時代ならちょっと問題視されるかもしれないが)、その女子大生が、夏目さんに、「あなたはかわいそうだ」と言って泣き出したという。
その理由は、夏目が、朝から晩まで、セールス先で同じことを言うからだ。
これについて、夏目は述べている。
「セールストークは同じでないといけない。繰り返してこそ、そのセールストークに力が生じる」
私が知る限り、全ての一流セールスマンは同じことを言っている。
これは、セールスの著書を出すほどの超一流もだが、私が直接会ったトップセールスマンも、間違いなく同じであった。
彼らは、同じセールストークを自主的、意識的に、つまり、「丁寧」に繰り返すのである。

生命の輝き
AIアート160
「生命の輝き」
Kay


笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯らし紋次郎』で、32歳の主人公、紋次郎は、我流の喧嘩剣法ながら、滅法腕が立った。
道場で剣を習ったこともない紋次郎が、なぜそんなに強いのか?
明らかにされたのは、この作品の第2シリーズである『帰って来た木枯らし紋次郎』シリーズだった。
38歳になり、体力が衰えた紋次郎は、体調が悪い時に、大したことのないヤクザ者達に負けて刺されるが、運よく急所は外れていて、昔、たまたまた命を助けた大商人に発見され、義理堅いその大商人に屋敷をあてがわれて、客人扱いされる。
普段ならそんなことは受け入れない紋次郎も、満足に動けないことや、義理に厚い大商人の気持ちに逆らえず厄介になっていた。
しかし、体調が回復しても、「その歳で旅は無理。ここでずっと安楽に暮らして欲しい」という大商人の要請のまま過ごしていると、紋次郎は耐えられなくなり、せめてということで牧割りをやらせてもらう。大商人は、しぶしぶ了承した。
ところが、紋次郎の薪割の腕前が凄かった。
実は紋次郎は若い頃、木こりをしており、毎日、山から木を倒してはふもとまで運び、そこで朝から晩まで薪を割っていた。当時は大量の薪の需要があったのである。
紋次郎の剣の腕の基礎は薪割で作られたのだ。
書かれてはいなかったが、それほどの腕の薪割が出来る紋次郎は、長時間、真面目に、自主的に、意識的に・・・つまり、丁寧に薪割をしていたに違いない。

重要なので繰り返すが、「丁寧」こそ人間最大の美徳であり、人間を高いものにするか劣ったものにするかを分けるのは「丁寧」である。
人間が真の意味で成功するか・・・たとえば、優れたスポーツ選手や芸術家や職人になれるかどうかを決めるのは、「丁寧」を伴った反復である。
腕振り運動や足踏み四股といった楽な運動でも、丁寧に繰り返せば人間を超え、「私は誰か?」と丁寧に自分に繰り返し問えば神になるのである。








  
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