思考を消せば全知全能であると、ここで私はいつも言うが、「思考を消す」と同じことを昔から、「無になる」とか「無我になる」「忘我」「没我」という言い方をしていた。
無、無我、忘我、没我・・・どれも同じと思って良い。
そして、「無になる」とは「思考を消す」ということに他ならないのだが、「思考を消す」という言葉に皆、抵抗がある。

脳は思考をするものであり、思考をしないというなら脳の活動を止めるようで、それは異常というか恐ろしく感じる。
また、思考を止めると言っている私が、毎日考えてブログの文章を書いているように思える。
考えなければ、生活も仕事も出来ないはずだ。
そこで、ある人はこんなことを言う。
「必要最小限の思考はしても良いが、それ以上の思考をしてはいけない」
だが、ラマナ・マハルシは、「『私は誰か?』以外の一切の想念を持ってはならない」と言う。
ところが、ラメッシ・バルセカールは、
「マハルシに呼びかけると彼が応答するのは思考しているからで、彼だって思考している」
と指摘する。

この問題に、私がビシーっと答を出すことを期待している・・・つまり、納得させてくれることを期待している人もいるかもしれないが、そんなことは出来ない。なぜなら、それこそ思考の領域であり、思考なんか納得させても仕方がないからだ。


悔い改めないで
AIアート156
「悔い改めないで」
Kay


ところが、ラメッシ・バルセカールは、答を出しているのである。
そして、よくよく見れば、荘子が2400年も前に答を出している。
だが、当然ながら、この答は受け入れられない。
その答えとは、
「人間は元々考えていない。考えさせられている」
だ。
簡単に言えば、我々は、人間そっくりなロボットなのだ。
自分で考えて動いている人間に見えるが、コンピューターのプログラム通りに動いているだけだ。
あるいは、脳も外部からリモートコントロールされていると思っても良い。
だが、ここで、進歩的な脳科学者が、
「人間はクオリア(感じ)を持っており、それがロボットとの違いだ」
と言い、それに「なるほど!」と思ってしまう。
ただ、本当はクオリアというのは難しい言葉で、この概念も思考の産物であるから、学問的には意義があっても、実際は意味はない(と言ったら文句を言う連中が多いだろうが)。
で、クオリアと言わず意識と言えば良い。
意識があるのが人間、ないのがロボット。

つまり、ギリギリ言葉で言える限界の答が、「人間とは意識を持つもの」である。
まあ、そう言えば、
「じゃあ、眠っている時や気絶している時は人間じゃないのか?」
というややこしい話になるが、ここは説明しない。理由があってそうしている。
そうすると「その理由は?」と聞く者がいるが、それは馬鹿である。
それは考えずに分かることだからで、言葉で説明出来ない。
まあ、馬鹿と言っても、人類の99.9999%は馬鹿で分からないのだ。
だが、あえて言えば、眠っている時や気絶している時は人間ではない。
あえて言えばだ。

重要なことは、我々は元々、思考などしておらず、プログラムのまま、宇宙人のリモートコントロールのまま反応し、動いているだけだ。
だが、意識だけはある。
そこで重要なことは、「自分が考えている」という意識を持たないことだ。
そのために、マハルシは「私は誰か?」と問えと言い、私は世界コマンド「私は何も考えない」あるいは「われ思わず」を唱えよと言うのである。
そうしたら、全知全能とは何かが分かり、それが自分だと分かるのである。

今回の件をちょっと思考で納得したいなら、物語が良い。
漫画の『ちょびっツ』や小説の『BEATLESS』をお薦めする。








  
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