老子や荘子、あるいは、列子の思想を道教、道(タオ)、タオイズム、老荘思想などと言うが、これらを難しく言う者が多い。
難しく言うことで商売をしたり、自我を満足させているのだろう。
彼らは、この道教における「道(タオ)」を、ことさらに難解に語る。
だが、「道」とは、単に、「自然」ということだ。
それなら、老子らが言う「道に従う」というのも、ただ「自然に従う」「自然に逆らわない」というだけのことだ。
こんな簡単なこと、そして、重要なことを難しく言ってはならない。

そして、人間の思考は、自然に何の影響も与えないことに気がつかないといけない。
人間がどれほど考え、その考えによって何をしようが、星の動きに何の影響も与えない。
「いや、飛行機は自然に逆らって鉄の塊が空を飛んでいる。人間の思考は自然に勝つのだ」という考えもあるが、それもただの考えである。
なぜなら、人間の思考は、「落下する」という自然の法則、つまり、重力に何の影響も与えないからである。
つまり、限定された小さな範囲で見れば、人間の思考が自然に影響を与えているように見えることもあるが、上で述べた通り、星の動きといった大きなこと、さらには、宇宙という大きさで見れば、人間の思考は無いに等しい。

百合の道
AIアート66
「百合の道」
Kay


自然に従う限り、自然は味方になってくれる。
このことは、思考では分からないので、納得が出来ないと感じるかもしれない・・・というより、考える限り納得が出来ない。つまり、その理屈が分からないと思うのである。
これはただ、思考を消すことでしか納得出来ない。
自然は宇宙を支配する無限の力だ。
それを味方にするのは、「世界中を味方につける」などとは比較にならない。
喩えは悪いが、数人のグループで戦うのと、アメリカ軍全部の指揮権を与えられて戦うよりもはるかに大きな差がある。

自然に従う限り、そんな力の支援を得る。
そして、自然に従うには、思考を消せば良い。
なぜなら、自然に逆らうのが思考だからだ。
思考を消すために、老子は『老子』81章を説き、クリシュナ神は『バガヴァッド・ギーター』18章を説いた。
だが、今は、思考を消すスイッチがある。
これは、ある意味、悪いことである。
例えば、不登校の子供がいるとして、その子を学校に行かせるスイッチはない。
その子供が学校に行くようにするには、その子と向き合い、その子を不登校にさせている問題を解決しないといけない。
あるいは、素晴らしい女の子を恋人にするスイッチはない。
その女の子を恋人にするには、彼女のことをよく知り、彼女が気に入る方法で彼女に親切にしたりと、四苦八苦しなくてはならない。
しかし、不登校の子供を学校に行かせるスイッチ、素晴らしい女の子を恋人にするスイッチが出来てしまった。
同じように、思考を消すスイッチが出来てしまった。
それが「私は誰か?」と自分に問うことである。
だが、実を言えば、このスイッチは単に、自然に不登校の子供と向き合うようにさせるスイッチであり、自然に素晴らしい女の子に正しい方法で接することが出来るようになるスイッチである。
よって、大いに活用すべきである。








  
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