何歳になった人だって、夢の中で、自分が高校生や、あるいは、小学生になっていることがある。
そんな夢の中で、自分は本当はいい大人で、高校生や小学生ではないと分かっている場合もあるが、自分が本当に小学生だと思っている場合もある。
あるいは、自分がお城に住む王子様やお姫様だと思っていることもあるかもしれない。

だが、現実の自分も、これらのような夢を見ているのと全く変わらないのかもしれないのだ。
今、認識している自分は、本当の自分とは似ても似つかない。

小学生になっている夢の中で「私は誰か?」と問うと、現実世界の自分であることを思い出すかというと、そうではない。
「私は誰か?」と問うと、思考は消え、自分が小学生であるという想いがなくなるだけだ。
それは現実世界でも同じで、「私は誰か?」と問うと、現実世界での身分の認識が消え、さらに数多く「私は誰か?」と問うと、だんだんと本当の自分が誰かを思い出す。

エマーソンが好んだお話に、大きな権力も財産もある公爵が、酔っぱらうと自分が公爵であることを忘れ、貧乏な庶民であると思い込むというものがある。
このお話の真意は、我々は今現在、酔っぱらって、自分を人間だと思い込んでいるということだ。

野の花
AIアート44
「野の花」
※ゲーテの詩より
Kay


『法華経』の「長者窮子の譬え」が、これらのようなことを壮大に語ったものだ。
世界一の金持ちの息子が、子供の時に行方が分からなくなったが、その子供は貧しい庶民として50年以上過ごし、自分は貧しくて卑しい人間であると思い込んでいた。
やっと息子を発見した父親は、心がねじけた息子を、自分が父親であると告げないまま、あの手この手で導き、20年以上かけて、息子の心を真っすぐにし、死の直前、息子と主だった者達を枕元に呼び寄せ宣言する。
「これは私の実の息子である。私の全財産をこの息子に譲る」
もちろん、この大金持ちは仏の喩えで、その息子とは我々のことである。
我々は、仏(ブッダ、如来)の正当な後継者で、仏なのであり、キリスト教的に言えばキリストで、父なる神と等しい存在である。

上に挙げた、いわば「記憶喪失状態」の者・・・夢の中で小学生になった自分、酔っぱらって自分を貧しい庶民と思っている公爵、心がねじけ、自分を貧しく卑しい人間であると思っている世界一の大金持ちの息子といった者達は皆、1つの方法で、真の自分を思い出すことが出来る。
それは「私は誰か?」と自分に問うことだ。
1度や2度問うだけでは思い出すことはないだろう。
しかし、たゆまず続ければ、それで必ず思い出す。
それは、自分が正気で、現実の自分こそが自分なのだと「思い込んでいる」我々も同じなのだ。
我々は記憶喪失であり、自分を虫けらのような惨めな存在であると思い込んでいる。
だが、「私は誰か?」と問えばどうなるか、上のお話の中で最も近いのは、『法華経』の「長者窮子の譬え」である。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ