「私は誰か?」の問い方を改めて説明する。

「私は誰か?」と問うとして、答はあるのかというと、ある。
その答とは、「全知全能の無限の魂」である。
この魂とは、我々の知る観念で、唯一近いものは「神」である。
その神は、一神教で言う神がより近いが、多神教の場合はトップの神である・・・とはいえ、あくまで観念なので、いちいち神の名まで説明しない。

我々人間は、不幸な理由で、自分がそんな無限の魂であることを完全に忘れ、それと共に、全知全能の力のことも忘れてしまった。。
それで、そのことを思い出すために、「私は誰か?」と問うのである。
問い続ければ、魂の反応を得られるだろう。

春爛漫
AIアート43
「春爛漫」
Kay


だが、我々の魂は力を弱められている。
どうやって弱められているのかというと、魂の僕(しもべ)である心をコントロールすることでだ。
心に魂を支配するような力はないが、魂は、心に幻想を作らせ、それを楽しむことを利用された。
つまり、コントロールされた心が、魂を幻想で覆い、魂に、自分は身体や心であると思い込ませたのである。
だが、魂に残された力が、心に「私は誰か?」と問わせることで、心自身を消させ、それにつれ、魂は自己を取り戻すのである。

上のようなことを記憶に置きつつ、なるべく多く「私は誰か?」と自分に問えば、心が消えていくと共に、魂が力を取り戻していき、自分は、身体や心ではなく、全知全能の無限の存在であることを思い出す。
それなれば、神のごとき魂の力を取り戻すのである。

『ラーマーヤナ』の主人公ラーマが自分と思うと良いだろう。
尚、シータはラーマの半身であることから、シータだと見なしても良いのである。
また、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナでもある。








  
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