今回は『老子』第81章で、『老子』最終回である。
この章を一言で言えば「思考を捨ててこそ」である。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という有名なことわざがある。
これは、「命を捨てる覚悟があってこそ成功する」という意味で、英語にも「Fortune favours the bold.(幸運の女神は勇者を助ける)」という、似た意味のことわざがある。
この言葉も良いのかもしれないが、老子は全くレベルが違う。
世間のことわざレベルで考えるから、皆、老子を大誤解するのだ。
老子では、捨てるのは「身」ではなく「思考」である。

人間の中には、自殺をする者もいる。これも身を捨てることである。
だが、自我(エゴ)は決して自殺しない。
自我は実際は思考で、思考は記憶と欲望から出来ている。
身を捨てることは容易い・・・と言えば語弊があるかもしれないが、思考(自我)を捨てることは極めて難しい・・・実際は不可能だ。
では、どうすれば良いか?

地上に浮上した秘密施設
AIアート28
「地上に浮上した秘密施設」
Kay


少し方向を変える。
若いうちは皆、自分は天才だと思っている。
しかし、ある程度の歳になれば、そうではないことが分かって来る。
それをいつまでも分からないと、いわゆる「中二病(自分は特別だと妄想すること)」になる。
自分が天才でないと分かれば、「天才であれば、容易く称賛や栄光が得られたものを」と嘆く。
こう言われても、
「そうかもしれないが、私は違う(やはり天才だ)」
と思う期間(中二病である期間)が長いほど悲惨で、下手をすれば狂人にされてしまう。
ところが、称賛や栄光を望む思考(心、自我)が消えてしまえば、本当に天才になる。
というより、元々が、天才すらはるかに超えていたのだ。
天才をはるかに超越した者が、たかが世間の称賛や栄光を望んだりしない。
そして、『星の王子さま』を読めば、子供は皆そうである(天才をはるかに超越している)ことが分かる。
もっとも今は、お受験とかで、幼稚園とか小学校入学時点で「小さな大人」にさせられ、『星の王子さま』で語られるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの子供時代や星の王子さまのように「大人はへんてこりん」とも思わなくなる。

言ってみれば、「思考を捨てればあなたも天才」なのだが、そうはいかない。
さっきも述べた通り、思考(自我)は決して自殺しない。
だから、老子の教えは滅んでいたが、20世紀初頭にラマナ・マハルシが「私は誰か?」と問うことを教え、ようやく、老子の願いが成就した。
「私は誰か?」と自分に問えば、思考の本体である記憶と欲望は溶け去る。
そうすれば、本当の自分が全知全能の無限の魂(=神)であることが分かる。

『老子』全章は、この同じことを繰り返し語っているだけである。
ただ、実際は、誰もこれ(「私は誰か?」と自分に問うこと)をしていない。
敵の思うつぼってやつである。
今はそうである。
だが、何とか敵に嫌がらせをしたいものだ。
ただし陽気に。敵も意外に陽気だ。
敵とは、あえて繰り返さないし、喩え話と思えば良いが、太古の昔に、地球に超高度テクノロジーで作ったマインドコントロール装置を仕掛けた宇宙人である。








  
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