今回は『老子』第80章である。
いよいよ、残り2章だ。
この章を一言で言えば「内なる静寂」である。

この章は、表向きは、文明や進歩を否定し、昔のままの生活をしろと書かれている。
老人であれば、これを喜んで肯定する者が多いだろうが、若者は、こんな論を馬鹿にするだろう。
しかし、老子は、これを物質世界のこととして言ったのではない。

あのH.G.ウェルズ(イギリスの作家。『宇宙戦争』の作者)の原作で、ウェルズ自ら脚本を書いた映画『来るべき世界』で、テクノロジーが高度に発達した未来社会で、世界のリーダーの男がこう言う。
「このまま進むか?戻るか?」
答は出ていないが、現実世界でも、やがてこのことを考えなければならなくなる。

桃の節句
AIアート27
「桃の節句の初音ミク」
Kay


そして、老子の後継者とも考えられる荘子は、こう述べている。
「本当の知恵者は太古の人であった。彼らは一切の区別をしなかった。やがて、人々は区別はするようにはなったが、まだ、優劣はつけなかった。だが、優劣をつけるようになってから、世界はおかしくなった」
外的なことで区別や優劣があるのは当然だ。
しかし、内面においては、そうであってはならない。
例えば、こんな感じだ。
大谷翔平は優れた選手だ。
しかし、内的には、どの選手も同じなのだ。
そのことを一番分かっているのが大谷翔平であろう。

優劣をつけるのは思考である。
そして、優劣をつける思考が、あらゆる不幸や災難を生む。
だが、思考を消し、余計なことを考えず、つけるべきでない優劣をつけないようになれば、魂は蘇り、あらゆる障害を克服する。

『世界に一つだけの花』というヒット曲があったが、これも同じで、外的にはナンバー1はやっぱり存在する。
しかし、内的には、そんなものはないのだ。
もし、この歌の作者に善意や知恵があるなら、「外的な価値を内的な価値より上位に置くな」と言ったのだ。

外的には、何をしても構わない。
テクノロジーが進歩するならさせれば良い。
しかし、内的には変わってはならない。
なぜなら、内なる真の自分は、全知全能の無限の魂(=神)なのだからだ。
ところが、地球上の人間は、外的な進歩ばかり重要視し、内的には低下する一方・・・そしてついに、神から虫けらになってしまった。
だが、今こそ、「私は誰か?」と自分に問い、自分が本当は何であるか思い出せば、我々は再び太古の知恵者のようになる。
そうなれば、不可能はない。








  
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