今回は『老子』第79章である。
この章を一言で言えば「知恵がある者の行い」である。

この章は、表面的に読んでも良いことが書かれている。
だから、世の解説者は、その表面的な意味しか分からなくても、彼らの解説はそれはそれで良い解説になってしまう。
表面的な意味とはこうだ。
「人の恨みを買うな。恨みとは消えないものだ。強い立場にあっても、それを利用するな。そうすれば天が味方する」
もっとも、世の解説者は、こんな簡単なことを難しく言うのだが・・・。
凡人は、自分が相手に対して強い立場にあれば、相手を見下し、言いたい放題、やりたい放題で喜び満足しようとする。
だが、聖人は、そんなことは決してしない。
いや、弱い立場の者に対し、悪辣なことをしないばかりか、何の害もなさない(と言っても、決して甘やかすわけではないが)。

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問題は、なぜ、聖人が、人をそんなふうに扱うかだ。
それは、表面的な『老子』解説者が分からないだけでなく、普通の人には誰も分からない。
その(聖人が弱い者いじめをしない)理由とは、聖人は、普通の人々はマインドコントロールされている・・・簡単に言えば、脳を書き換えられていることを知っているからだ。
マインドコントロールと言っても、普通に言われる「支配者の洗脳」のことではない。
もっと強力なものだ。
事実か、1つの喩えかはともかく、太古の昔、悪の宇宙人グループが、地球に、地球人類の魂を愚鈍な状態にする、高度なテクノロジーで作ったマインドコントロール装置を設置し、それは今も稼働している。
マインドコントロール装置に支配された者は、余計な思考をすることが特徴で、恨みでも買うと、一生恨まれる。
そのようなわけで、聖人は、普通の人々が、まともな精神状態でないことをよく知っているのである。

そして、凡人に関しては、弱い立場の者が強い立場の者を恨むのと同様、強い立場の者が弱い立場の者をいじめるのも、マインドコントロール装置の影響なのである。
一方、聖人は、マインドコントロール装置の影響を受けないような態度でいるのである(恨まない、いじめない)。
しかし、自分の意思で聖人のようになることは、ほとんど不可能であり、老子は、「せめて君子は・・・」という想いで『老子』を説いたが、あまり効果はなかったかもしれない。
だが、ラマナ・マハルシが教えたように「私は誰か?」と自分に問えば、余計な思考をしなくなり、自ずと聖人のようになり、いずれは全ての思考が消え聖人を超える。
なぜなら、「私は誰か?」と問うことで魂が活性化し、本当の自分は全知全能の無限の魂(=神)であることが分かるからである。

尚、『老子』について書いてきて分かったが、『老子』の本について、読み易いのは岩波文庫版で、老子の真意にいくらかでも近いのは徳間文庫版であると思う。








  
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