今回は『老子』第71章である。
この章を一言で言えば「馬鹿を自覚する」である。
自分が馬鹿であることを理解することは、人間の一生のテーマである。
自分が馬鹿であることが理解出来れば、その人は賢者である。
愚か者ほど・・・と言っても良いが、世の中の人間は皆、自分は賢いと思っている。
言い換えれば、自分が賢いとか、頭が良いと思っているのが凡人であり、凡人は愚か者だ。
こう言うと、道徳的な意味に捉えて「その通りである」と言う者は多い。
そんな者もまた馬鹿なのである。
馬鹿とは何であろうか?
それは、記憶喪失であるということだ。
ただし、世間でいう、せいぜいが数十年分の記憶がないことを言うのではない。

AIアート18
「接近するUFO」
Kay
何度も取り上げるが、エマーソンの公爵と与太者の喩えをもう一度述べる。
酔っぱらって道で寝ている与太者が、公爵の豪壮な屋敷に運ばれ、眠っている間に身体を洗われ、立派な下着と寝巻を着せられ、豪華なベッドに入れられて眠った。
与太者が目を覚ますと、執事がうやうやしく仕えた。
この与太者は、自分が公爵であることを忘れていたのだ。
そして、この与太者とは、我々のことだ。
我々も、自分が本当は誰なのか忘れている。
正確には、忘れさせられたのだ。
自分が誰かを思い出せば、この与太者が、実は公爵であったなどというレベルの話ではない。
真の自分とは、全知全能の無限の魂(=神)なのであるから。
ここまでは、過去の真の聖者が皆言っていたことだ。
しかし、我々がなぜ真実を忘れているのかは、聖者は言わなかったか、言っていても、伝えられてこなかった。
なぜ、我々が真理を知らないのかというと、ある超テクノロジーで作られたマインドコントロール装置のためだ。
しかし、それを気にしても仕方がない。
大切なことは思い出すことだ。
そのために、ラマナ・マハルシが教えたことが「私は誰か?」と自分に問うことである。
それをするためには、自分は自分が誰かを知らないことを知らなければならない。
だから老子は「知らないことを知らないことが病である」と言ったのだ。
この病は、欠点とか迷妄と訳されることが多い。
だが、この病は欠点とか迷妄よりずっと深い。
「知らないことを知っているのが聖人」
「知らないことを知らないのが愚かな凡人」
である。
「私は誰か?」と問う者が聖人である。
この章を一言で言えば「馬鹿を自覚する」である。
自分が馬鹿であることを理解することは、人間の一生のテーマである。
自分が馬鹿であることが理解出来れば、その人は賢者である。
愚か者ほど・・・と言っても良いが、世の中の人間は皆、自分は賢いと思っている。
言い換えれば、自分が賢いとか、頭が良いと思っているのが凡人であり、凡人は愚か者だ。
こう言うと、道徳的な意味に捉えて「その通りである」と言う者は多い。
そんな者もまた馬鹿なのである。
馬鹿とは何であろうか?
それは、記憶喪失であるということだ。
ただし、世間でいう、せいぜいが数十年分の記憶がないことを言うのではない。

AIアート18
「接近するUFO」
Kay
何度も取り上げるが、エマーソンの公爵と与太者の喩えをもう一度述べる。
酔っぱらって道で寝ている与太者が、公爵の豪壮な屋敷に運ばれ、眠っている間に身体を洗われ、立派な下着と寝巻を着せられ、豪華なベッドに入れられて眠った。
与太者が目を覚ますと、執事がうやうやしく仕えた。
この与太者は、自分が公爵であることを忘れていたのだ。
そして、この与太者とは、我々のことだ。
我々も、自分が本当は誰なのか忘れている。
正確には、忘れさせられたのだ。
自分が誰かを思い出せば、この与太者が、実は公爵であったなどというレベルの話ではない。
真の自分とは、全知全能の無限の魂(=神)なのであるから。
ここまでは、過去の真の聖者が皆言っていたことだ。
しかし、我々がなぜ真実を忘れているのかは、聖者は言わなかったか、言っていても、伝えられてこなかった。
なぜ、我々が真理を知らないのかというと、ある超テクノロジーで作られたマインドコントロール装置のためだ。
しかし、それを気にしても仕方がない。
大切なことは思い出すことだ。
そのために、ラマナ・マハルシが教えたことが「私は誰か?」と自分に問うことである。
それをするためには、自分は自分が誰かを知らないことを知らなければならない。
だから老子は「知らないことを知らないことが病である」と言ったのだ。
この病は、欠点とか迷妄と訳されることが多い。
だが、この病は欠点とか迷妄よりずっと深い。
「知らないことを知っているのが聖人」
「知らないことを知らないのが愚かな凡人」
である。
「私は誰か?」と問う者が聖人である。
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