今回は『老子』第70章である。
この章を一言で言えば「皆、眠っている」である。

このブログで、私がずっと書いていることを老子もやっぱり言っていた。
つまり、『老子』は極めて簡単であること。
そして、だがその簡単なことが分かる人が滅多にいないのであるということだ。

ただ、『老子』には、なぜ、人々が、老子が言う簡単なことが分からないのかについて、書かれていない。
老子が言わなかったか、言っても誰も分からなかったので、後の人が『老子』から取り除いてしまったかだ。
まあ、どっちかは分からない。

なぜ人々には『老子』が分からないのかというと、頭で考えるからだ。
人々は、自分とは、心(頭と言っても良い)と身体だと思っているので、頭で分かることしか認めないのだ。
なぜ、自分を心と身体だと思っているのかというと、前世以前の記憶がないので、自分が心と身体を超えたものがあることが信じられないのだ。
だが、頭で考えず、思考を消し、自然に従えば(老子流には「道」に従えば)、本当のことは自然に分かるのである。
それなのに、老子は、思考を消す方法について教えているようには見えないが、それについても、教えが失われてしまったのかもしれない。

目を閉じた初音ミク
AIアート17
「目を閉じた初音ミク」
Kay


だが、思考を消すことについて、20世紀初頭、インドのラマナ・マハルシによって「私は誰か?」と問う方法が提示されたが、これは最も優れた方法である。
なぜなら、「私は誰か?」と問うことで、心は思考が出て来る源である「私」に引き戻されるので、思考は外に出て行くことが出来ず、その源で消える。
それを、出来るだけ多く行い、心が静かになってくれば、心の奥底から発せられる、真の自分である魂の声を感知するようになる。
インドラ神が、自分がインドラ神であることを知るために鏡を見る必要はない。
ただ、自分がインドラ神であるという確信があるだけだ。
それと同様、我々も、自分が誰かと探求することで、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることが分かるのである。
今だ、それを冗談かおとぎ話としか思えない人が多いかもしれないが、もう十分、地球人類は悲惨を味わい、今も味わっているのである。








  
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