今回は『老子』第69章である。
この章を一言で言えば「見えない武器で戦う」である。
この章で、老子は戦いにおける必勝法、即ち、兵法の極意を説いている。
では、この究極の兵法を、現在のウクライナ紛争(事実上のロシア-ウクライナ戦争)でも適用出来るのかというと、出来るとも言えるし、出来ないとも言える。
なぜかというと、ウクライナ紛争は表向きで言われているより、はるかに複雑で醜いものであるからだ。
そして、この扮装だって、やはり、根本的には、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の影響によるものだ。
この章の中に「敵をあなどるほど大きな災いはない」ということが書かれている。
これを、現代人は、「敵をナメてはいけない」、つまり、「油断をするな」と受け取り、やっぱり戦うことを考える。
だが、老子は、「敵を本当にあなどらないなら戦わない」と言っているのである。

AIアート16
「火星テラホーミング都市」
Kay
しかし、こう言うと、一見賢そうな人達は、「中国やロシアが攻めて来た時、やり返せる態勢がないと占領されるのですよ」と言い、だから、軍備拡張せよと主張する。
これが正しいかというと、現在の、双方とも、マインドコントロール装置に支配されている状況ではその通りだ。
つまり、真の知恵がないのだから、それ(来たら叩く)しか方法が分からないだろう。
ところで、戦争は全て、さきほども少し述べた通り、表だって知られているよりずっと複雑で汚いものだから、簡単に考えることは出来ない。
しかし、個人の戦いのようなものであれば、戦わずに勝つことを考えた方が賢い。
勝つためには、マインドコントロール装置の支配を脱すれば良いのだからだ。
それを成し、真の知恵と真の力がある者に勝てるはずがない。
そのためには、いつも言う通り、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
「私は誰か?」と自分に問うことで、まず思考を消した者には真の知恵がある。
真の知恵とは、考えて浮かぶ知恵ではない。考えないことで起こる知恵である。
そして、「私は誰か?」と問うことで、真の自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出した者に物質的な力は及ばない。
このことは、実際にやってみないと、妄想にしか聞こえないのは仕方がないだろう。
だが、まずは、個人的にやってみると分かることである。
この章を一言で言えば「見えない武器で戦う」である。
この章で、老子は戦いにおける必勝法、即ち、兵法の極意を説いている。
では、この究極の兵法を、現在のウクライナ紛争(事実上のロシア-ウクライナ戦争)でも適用出来るのかというと、出来るとも言えるし、出来ないとも言える。
なぜかというと、ウクライナ紛争は表向きで言われているより、はるかに複雑で醜いものであるからだ。
そして、この扮装だって、やはり、根本的には、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の影響によるものだ。
この章の中に「敵をあなどるほど大きな災いはない」ということが書かれている。
これを、現代人は、「敵をナメてはいけない」、つまり、「油断をするな」と受け取り、やっぱり戦うことを考える。
だが、老子は、「敵を本当にあなどらないなら戦わない」と言っているのである。

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「火星テラホーミング都市」
Kay
しかし、こう言うと、一見賢そうな人達は、「中国やロシアが攻めて来た時、やり返せる態勢がないと占領されるのですよ」と言い、だから、軍備拡張せよと主張する。
これが正しいかというと、現在の、双方とも、マインドコントロール装置に支配されている状況ではその通りだ。
つまり、真の知恵がないのだから、それ(来たら叩く)しか方法が分からないだろう。
ところで、戦争は全て、さきほども少し述べた通り、表だって知られているよりずっと複雑で汚いものだから、簡単に考えることは出来ない。
しかし、個人の戦いのようなものであれば、戦わずに勝つことを考えた方が賢い。
勝つためには、マインドコントロール装置の支配を脱すれば良いのだからだ。
それを成し、真の知恵と真の力がある者に勝てるはずがない。
そのためには、いつも言う通り、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
「私は誰か?」と自分に問うことで、まず思考を消した者には真の知恵がある。
真の知恵とは、考えて浮かぶ知恵ではない。考えないことで起こる知恵である。
そして、「私は誰か?」と問うことで、真の自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出した者に物質的な力は及ばない。
このことは、実際にやってみないと、妄想にしか聞こえないのは仕方がないだろう。
だが、まずは、個人的にやってみると分かることである。
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