今回は『老子』第67章である。
この章を一言で言えば「目を覚ませ」である。

一般的に、この章は味わい深いと言われ、「さすが老子!」と称賛されることが多い。
こんなことが書かれている。
「大きいものは足りないところがあるように見える」
「慈(いつく)しむから勇敢である」
「控え目だから影響力が大きい」
「人に仕えるから人が従う」
イエスも、「偉くなりたかったら仕えよ」「私は仕えさせるためでなく、仕えるために来た」と言った。
これらを見て、「分かったような顔をした者」が、
「これは素晴らしい!これこそが真理だ!我々はこんな重要なことを知らなかった!」
と称賛して見せる。

しかし、待っていただきたい。
上にあげたようなことなど、本当に知恵がある人からすれば、「当たり前やん」である。
本当に知恵があるとは、天才とか賢人と評判のある人のことではない。
田舎の普通のオジサン、オバサンなどには、上に挙げた一見「知恵の言葉」など、当たり前過ぎて意識もしない。

ある惑星
AIアート14
「ある惑星」
Kay


そんな当たり前のことが分からないのは、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に支配されているからである。
それなら、田舎のオジサン、オバサンのようであれば、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配を逃れることが出来るということが分かる。
つまり、自然と共にいて、人知をあまり働かせなければ、それほどマインドコントロール装置の支配は受けない。
『エイリアンインタビュー』でも、マインドコントロール装置は、思考に反応して支配力を発揮すると書かれている。
我々がかくも愚かなのは、人類固有の性質ではなく、悪の宇宙人のマインドコントロール装置のためだと考えると、つじつまが合い、納得出来るのである。
ゲーテのファウストでも、天上の神が、人間の愚かな性質を指摘するが、なぜ愚かなのであるかは語られていなかった。
ゲーテも、何かおかしいとは思っていたが、さすがに宇宙人のことまでは思いつかなかったのだろう。
(支配者の洗脳のために庶民が愚かになっているという説は、まことしやかに感じるが、支配者だって愚かなのである)

そして、我々が、真の知恵が当たり前になるよう自然に従うには、思考を消すしかないが、その簡単な方法は、もう飽きるほど言ったが「私は誰か?」と自分に問うことである。
飽きるほど言ったが、実際にやる者は少ないし、続けられる者は滅多にいない。
従って、マインドコントロール装置から逃れられる人はほとんどいないのである。
善の宇宙人によれば、老子は、釈迦などと共に、装置の影響を逃れることが出来た者で、だから、『老子』は本来、真理の書である。
ただし、『老子』も、後世の改ざんや書き加えが多く、おかしな部分もあるが、おかしな部分も捨てずに細かく解釈しようとするから、本当に肝心なことが分からない。
『老子』は、本当に重要なところだけ取り、後は捨てれば良い。
そもそも、聖典というものは、分かったら捨てるものである。








  
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