今回は『老子』第66章である。
この章を一言で言えば「先に思考を消した者が君子」だ。

この章も、世間で、それらしいだけの解釈が出回っている章である。
世間的な言い方では、
「あらゆる河川が大河や大海に流れ込むのは、大河や大海が一番低いところにあるからだ。だから、最も大いなる者(聖人、君子)が一番謙虚である」
となり、いかにも綺麗だ。
だが、聖人が、人民より頭を低くしてペコペコするわけではないのだ。
そして、重要なことはこうだ。
確かに、聖人は、傲慢さがなく、偉い人物に対しても庶民に対しても頭を下げているように見える。
だが、肝心なことは、聖人は、考えてそんなことをしているわけではないということだ。
一方、謙虚そうに見せようとする凡人は、頭で考えて謙虚なふりをする・・・つまり、へつらうだけだ。
そして、実際は、聖人は、頭を下げなくても、清々しい謙虚さを感じさせるのである。
そうであるからこそ、聖人には、王も愚民もひれ伏し、従うのである。

ハニ―ブロンドの乙女
AIアート13
「ハニーブロンドの乙女」
Kay


では、聖人は、どうやってそんなふうになったのか?
それは、思考を消すことによってだ。
では、どうやって思考を消したのかというと、それは分からない。
老子や、その他の古い聖人達は難しいことをしたのかもしれない。
だが、20世紀初頭に、インドの聖者ラマナ・マハルシが、思考を消すための簡単な方法を提示した。
それが「私は誰か?」と自分に問うことだ。
しかし、ほとんど誰も、この簡単なことが続けられない。
どうして続けられないのかと言うと、これをやっても、輝く光が見えるわけでも、荘厳な声が聴こえるわけでもないからだ。
つまり、自我を喜ばせることが何もないのだ。
だから、誰も続けない。
しかし、マハルシの解説者の誰も言わなかったが、問い続ければ、真の自分が全知全能の無限の魂(=神)であるということを思い出す。
それは、失われてしまっている驚くべき記憶だが、それを思い出すための、誰でも出来るほぼ唯一の方法がこれである。
それなら、続けないことは何とも惜しいことであると思う。








  
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