今回は『老子』第63章である。
この章を一言で言えば「何もせずに全てをなす」である。
この章には困惑させられる。
なぜなら、一般的な処世訓に見えるし、しかも、処世訓として、あまりにも優れているからだ。
しかし、老子が、そんなことを教えたりするだろうか?
それで、私は、この章は、かなり改ざんされているのではないかと疑った。
たとえば、
「難しいことは易しいことから起こり、大きな問題も些細な問題から始まる。だから、易しいうち、些細なうちに処理しろ」
「安請け合いするな。安請け合いすると(うまくいかないこともあるから)信用を失くす」
など、まるでビジネスの金言である。
いや、あらゆることに忘れてはならない戒めのようではないか?
だが、これらのことは、仕事の理念として掲げて、大きな文字で書いて壁に貼っておいたところで、やっぱり出来ない場合が多い。
後に大事になる小事を見逃し、つい気前よく安請け合いをしてしまう。
なぜだろう?
それは、愚かな思考をするからであり、人間の思考は全て愚かだからだ。
だから、思考せず、無意識であれば、いかなることも自然にうまくいく。
たとえば、他の人達が皆、見過ごしてしまう小さな異変を感じ、普通の人なら安易に引き受けることを、何か嫌な感じがしてすぐに返答をしない・・・という、真に賢いことが出来る。
だが、世の人は「分かっちゃいるけどやめられない」のである。
一方、道を究めた人・・・即ち、自然に従う者は間違いを起こさない。

AIアート10
「青く輝くUFO」
Kay
よって、やはり、『老子』全章と同じく、この章も、自然であることの重要性を説いているのであり、太陽が思考せずに昇るように、自然であるためには思考を消さないといけない。
そして、思考を消す最高の方法はやはり「私は誰か?」と自分に問うことである。
ラマナ・マハルシは、どんな思考が起こった時でも、勤勉に「私は誰か?」と問い、思考を刈り取るよう教えている。
勘違いしてはならないのは、勝手に起こる思考をどうこうしようとしてはならないことだ。
「思考するな」と言ったら、眠ることだと思う愚か者が多い。
そうではない。
思考は生きている限り、脳が働いている限り起こる。当たり前だ。
しかし、起こった思考を追いかけず、その場で撃ち殺すことが重要である。
そのためには、いつも「私は誰か?」と問い、「私は誰か?」以外の想念を持たないことが理想である。
もちろん、なかなかそうはならないが、そうなるよう努めることが大切だ。
そして、「私は誰か?」と問い続ければ、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出す。
それにつれ、自分は何もしなくても、全ては自動で成される。
この章の最初に、
「無為を為し(何もしないことをする)」
と書かれていることが、それで実現するのである。
何もしないことが、あらゆることをすることなのである。
この章は『荘子』的とも思える。
この章を一言で言えば「何もせずに全てをなす」である。
この章には困惑させられる。
なぜなら、一般的な処世訓に見えるし、しかも、処世訓として、あまりにも優れているからだ。
しかし、老子が、そんなことを教えたりするだろうか?
それで、私は、この章は、かなり改ざんされているのではないかと疑った。
たとえば、
「難しいことは易しいことから起こり、大きな問題も些細な問題から始まる。だから、易しいうち、些細なうちに処理しろ」
「安請け合いするな。安請け合いすると(うまくいかないこともあるから)信用を失くす」
など、まるでビジネスの金言である。
いや、あらゆることに忘れてはならない戒めのようではないか?
だが、これらのことは、仕事の理念として掲げて、大きな文字で書いて壁に貼っておいたところで、やっぱり出来ない場合が多い。
後に大事になる小事を見逃し、つい気前よく安請け合いをしてしまう。
なぜだろう?
それは、愚かな思考をするからであり、人間の思考は全て愚かだからだ。
だから、思考せず、無意識であれば、いかなることも自然にうまくいく。
たとえば、他の人達が皆、見過ごしてしまう小さな異変を感じ、普通の人なら安易に引き受けることを、何か嫌な感じがしてすぐに返答をしない・・・という、真に賢いことが出来る。
だが、世の人は「分かっちゃいるけどやめられない」のである。
一方、道を究めた人・・・即ち、自然に従う者は間違いを起こさない。

AIアート10
「青く輝くUFO」
Kay
よって、やはり、『老子』全章と同じく、この章も、自然であることの重要性を説いているのであり、太陽が思考せずに昇るように、自然であるためには思考を消さないといけない。
そして、思考を消す最高の方法はやはり「私は誰か?」と自分に問うことである。
ラマナ・マハルシは、どんな思考が起こった時でも、勤勉に「私は誰か?」と問い、思考を刈り取るよう教えている。
勘違いしてはならないのは、勝手に起こる思考をどうこうしようとしてはならないことだ。
「思考するな」と言ったら、眠ることだと思う愚か者が多い。
そうではない。
思考は生きている限り、脳が働いている限り起こる。当たり前だ。
しかし、起こった思考を追いかけず、その場で撃ち殺すことが重要である。
そのためには、いつも「私は誰か?」と問い、「私は誰か?」以外の想念を持たないことが理想である。
もちろん、なかなかそうはならないが、そうなるよう努めることが大切だ。
そして、「私は誰か?」と問い続ければ、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出す。
それにつれ、自分は何もしなくても、全ては自動で成される。
この章の最初に、
「無為を為し(何もしないことをする)」
と書かれていることが、それで実現するのである。
何もしないことが、あらゆることをすることなのである。
この章は『荘子』的とも思える。
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