今回は『老子』第60章である。
この章を一言で言えば「なるべく何もしない」である。

この章は、私も昔から好きな章だが、とにかく、出だしがシンプルで、誰が翻訳しても同じになるが、その出だしの譬喩が抜群だ。
その出だしとは、
「大国を治めるには、小魚を煮るようにする」
である。
これこそが、万事に通じる必勝の秘訣で、これだけ憶えておけば良いくらいのものだ。
何せ、それで大国すら治められるのであるから、およそこの世のことで出来ないことは何もない。

まあ、私に言わせれば、「処女を愛でるがごとし」であるが、変なことを考える必要はない。
単に何もしないのだ。
古い歌で恐縮だが、「好きなんだけど 離れてるのさ」(西郷輝彦さんの『星のフラメンコ』)である。
それで彼女はメロメロである。
言い換えるなら、「女を落とすには、小魚を煮るようにする」である。
もう何の話か分からないが(笑)。

プシューケ―
AIアート7
「プシューケ―」
Kay
※ギリシャ神話。人間の娘だったが、愛の神エロ―スの妻になり、女神になった。


そして、老子は不意に鬼神の話をする。
鬼神とは、力のある神霊で、どちらかというと、悪い働きをする。
しかし、何ごとも小魚を煮るようにする人間に対して、鬼神は何も出来ない。
もちろん、この鬼神とは、悪の宇宙人が地球にしかけたマインドコントロール装置のことで、普通の地球人は、この装置に支配され、虫けらのような状態にされている。
しかし、小魚を煮るように、余計なことをしない者には、この装置も危害を加えることが出来ない。

だが、意思の力で何事にも手出しをしないようにすることは難しい。
我々は、ついつい余計なことをしてしまう。
余計なことを考えるからだ。
しかし、「私は誰か?」と自分に問う者は、余計なことを考えなくなり、よって、余計なことをしなくなり、何ごとも、小魚を煮るように、最小限のことだけをして、後はなりゆきにまかせるようになる。
そうであれば、無敵であり、平和であり、一切の不安がなくなるのである。
なぜなら、「私は誰か?」と問えば、本当の自分は全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出すからである。








  
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