今回は『老子』第59章である。
この章を一言で言えば「自然に従う」だ。

老荘思想の根本である「道に従う」とは、そもそも「自然に従う」ということなのだから、やはり、この章も、ただ1つの真理を言葉を変えて言っているだけである。
そして、この章では、道に従えば・・・すなわち、自然に従えば無敵であるという、「強さ」を強調したのである。

面白いことに、この章に関しては、岩波文庫の『老子』、徳間書店の『老子・列子』、地湧社の『老子(全)』で、翻訳がまるで別物のように異なる。
さらに、その異なる翻訳に沿って、それぞれ解説しているのだから(『老子(全)』に解説はないが、本文の中に解説が入っている形である)、困ったものであるが、『老子』は、やはり字面に囚われると分からない。
そして、この章はやはり、「自然に従えば無敵である」と書かれているだけであり、些末なことは無視すべきである。
それが分かれば、それぞれの本も個性があって面白いが、私は特に、どの本が好きということもない。

未知なる惑星へ
AIアート6
「未知なる惑星へ」
Kay


そして、自然に従うには、余計な思考をしてはならず、人間の思考の全ては余計な思考であるので、思考してはならない。
思考もまた、自然に起こるものは良く、普通の人間は、その思考を追いかけて余計な思考をするから良くないのである。
自然に思考が起こる・・・それは仕方がないし、必要なことでもある。
釈迦は、自然に起こる思考を「第一の矢」と言い、それは、聖人であっても凡人同様に受けると言ったが、聖人は、それに続く余計な思考である「第二の矢」は受けない。だが、凡人は「第二の矢」を受けることで、すなわち、余計な思考をすることで傷付くと言ったのだ。
ラマナ・マハルシは、思考が起こったら、ただちに、「私は誰か?」と自分に問うて思考を消せと言った。なぜなら、思考は「私」に起こったのであり、「私は誰か?」と問うて、「私」に意識を引き戻せば、思考は消えるのである。
ただし、その場合も「私は誰か?」という思考は残る。
だが、これは良い思考である。
なぜなら、これは、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを忘れている人間が、それを思い出すための思考だからである。

まとめて言えば、こうである。
自然な思考は必ず起こる。
それは聖者も凡人も変わらない。
だが、聖者は、その思考を追いかけず、余計なことを考えない。
一方、凡人は、その思考を追いかけ、余計なことを考える。
これだけが、聖者と凡人の違いである。
ところが、凡人であっても、思考が起こるたび「私は誰か?」と問うなら、思考は消滅し、聖者と同じになる。
さらに良いことに、「私は誰か?」というのは、唯一貴い思考であり、自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出させる。
よって、「私は誰か?」と問わずにいられようか?








  
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