今回は『老子』第49章である。
この章を一言で言えば「全てよし」である。

世の中には、どうしても好きになれない人や、どうしても肯定するわけにはいかない人がいると思う。
「私は嫌いな人に会ったことがない」
という名セリフを吐いた人がいたが、嘘つけである(笑)。
表面的には、この章には、どんな人も善いとせよと書かれているし、それをもって、聖人ぶって、「全ての人を公平に正しいと見ることが悟った者の態度なのじゃ」と言う「センセー」もいる。
そんなセンセーは、首根っこを捕まえて、現実に向き合わせれば、すぐに泣き出すだろう(笑)。

じゃあ、老子は嘘を言ったのかというと、もちろんそうではない。
イエスが言った通り、悪い人間というのは、自分がなぜ悪いことをするのか分からないのだ。
なぜ、邪悪なことをする悪い人間がいるのか?
それは、地球人の精神に悪い作用を及ぼす装置が活動しているからである。
(私は、この装置についてはいつも「悪の宇宙人のマインドコントロール装置」と呼んでいる)
これについては、ローレンス・スペンサーが出版した『エイリアンインタビュー』に書かれていることで概ね正しい。
概ねというのは、この本に書かれている情報を宇宙人から得た、当時(1947年)23歳だったマチルダという女性には解釈が難しかった部分もあり、ある程度の情報の齟齬(そご。くいちがい)があるのは仕方がないことだからだ。
悪の宇宙人のマインドコントロール装置については、影響を特に強く受ける者もあり、そんな者が特に邪悪なことを行うのだと思われる。
だが、いかなる人間も、本質である魂においては、善であり、また、全知全能の無限の存在で、この存在を示す、我々が持つ概念の中で最も近いのは「神」である。
重要なことは、我々が、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から脱出することで、老子はそれを成し遂げた者の1人である。
老子の他には、釈迦もそうであったが、イエスが『新約聖書』の『福音書』に書かれている通りの人物であるなら、私はイエスもそうであったのではと思う。
また、近代では、インドの聖者ラマナ・マハルシ(1879~1950)がそうであった。
そのマハルシが提示した「私は誰か?」と自分に問う探求が、その装置の支配から脱する直接的な方法である。
魂自体は不変なのであり、いわば、魂が覆われてしまっている状態なのだから、「私は誰か?」と問うことで、その覆いを壊し、自分が、その無限の魂であることを思い出せば良いのである。
その、魂を覆っているものが、その装置によって植え付けられた偽の記憶で、その偽の記憶のせいで、我々は、自分を、限定された(狭い)時間と空間の中に閉じ込められた限定された存在だと思い込んでしまっているのである。
ただ、人々が「私は誰か?」と問うてくれれば良いのであるが、それをする者は極めてわずかである。
だが、それを続けさえすれば神になる。
多少の根気は必要であるが、他に何かする必要はない。
別の方法を勧める者もおり、中には、正当性を感じられるものもあるが、他の方法は、聖者による直接的な指導が必要なのではと思う。
しかし、「私は誰か?」と問うことには、そのようなものは必要ない。
いわば、自分の魂こそが師なのである。








  
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