今回は『老子』第48章である。
この章を一言で言えば「絶対的に止まれ」である。

この章は短いが、恐ろしいことが書かれている。

徳川家康は、天下取りの秘訣は、「上を見るな」「身の程を知れ」だと言ったらしい。
そして、老子は、同じことの秘訣を「常に何もするな」だと言った。
「何もするな」ではない。
「常に何もするな」である。
いつも何かするのは、身の程を知らないからである。
つまり、自分は有能だと己惚れている馬鹿が、いつも余計なことをするのだ。
たまにでも何かするのは、上を見るからである。
せっかく身を慎んでいても、弱いところを突かれると誘惑に負けて、つい上を見てしまい、身の程を知らずに動く。
だから、老子は「絶対的に止まれ」と言ったのである。

アメリカでは、銃で脅す時「フリーズ(凍れ=動くな)」と命じるらしい。
だが、銃を向けられても、自分には、それを跳ね返す機知(とっさの鋭い判断)があると己惚れて動けば撃たれて死ぬ。
だが、身体も心も止まっていれば、意思を働かせなくても、知らないうちに攻守逆転する。
さらに、絶対的に止まっている者に銃を向けた時点で、銃を向けた者は滅びる。

絶対的に止まる者には、それほどの力があり、無敵なのであるが、世の中の人は誰もそれを知らない。
だが、どうすれば絶対的に止まれるかなどと考えてはいけない。
そんなことが分かると思うことこそが、救い様のない己惚れである。
絶対的に止まるには、「私は誰か?」と自分に問えば良い。
問い続ければ、無為の世界に招待され、その世界の神秘なる住民となる。
そうなると、自分が動くのではなく、神に動かされ、神の技を為すのである。








  
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