今回は『老子』第46章である。
この章を一言で言えば「自分に帰れ」である。

この章は、巷の「先生」達に言わせれば、一言で言うなら、「足るを知れ」となり、確かに、表面的には、切々と「欲望を捨て、今あるものに満足せよ」と書かれている。
それをもって、『老子』は、欲のない道徳的な人間を目指す思想であると言う者が多い。

だが、問題は、そんな道徳的に立派な解説をする人も含め、「足るを知るなんてことが出来るのか?」である。
出来るわけがない。
もちろん、見栄を張ったり人格者ぶって「私は今持っているものだけで十分です」と言う人も少なくないかもしれない。
しかし、そんな「ご立派な」人だって、心の中では、どす黒い欲望や恨みや嫉妬がないとは言えまい。

老子は、確かに、不幸の原因は、飽く事なき欲望だとは言っているが、「欲望を捨て満足しろ」なんて、聖人でもなければ出来もしないことを言ってはいない。
言うだけ無駄だからだ。
地球人が、飽く事なき欲望を持つこともまた、太古の昔に、悪の宇宙人が設置し、今も稼働しているマインドコントロール装置のせいで、それは、意思の力だけで対抗出来ないほどの性能、威力だとすれば、どうしようもない。
しかし、足るを知らないことは、やはり不幸への下りの坂道なのである。

そこで、唯一の解決策は、「余計な欲望など不要」と真に理解することだけだ。
そのためには、忘れてしまった真実・・・自分が全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出さねばならない。
釈迦や老子、あるいは、ソロアスターらが、どんな経緯で、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配を脱したのかはよく分からない。
具体的な手段は、長い時間の中で、悪の宇宙人によって隠されてしまった可能性が高い。
だが、20世紀初頭のインドの聖者ラマナ・マハルシが、やはり、どうやってそれに辿り着いたかは分からないが(偶然か、善の宇宙人の助けか)、「私は誰か?」と自分に問う方法を提示した。
他に手段がないわけではないだろうが、これが最も直接的で、安全で確実だ。
真の自分を思い出すにつれ、余計な欲望に興味がなくなり、やがては、自然に足るを知るようになる。
全知全能の神に余計な欲望は必要ないからである。

ちなみに、おそらくだが、ギリシャ神話、旧約聖書、古事記などは、宇宙人の地球関与の事件を比喩的に語ったもので、多くが、悪の宇宙人の悪行である。それを前提にすれば、これらの神話の内容に容易く説明出来ることが分かるのである。








  
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