今回は『老子』第45章である。
この章を一言で言えば「本物はもの足りない」である。
教訓としては最上の章かもしれないと思う。

「本物はもの足りない」
言い換えれば、
「もの足りなくてこそ本物」
である。

最高のプレゼントは、もらった者はどこかもの足りなさを感じるものだ。
最高の親切は、どこか不親切を感じるものだ。

こういったことを、この章では、やや小難しく、たとえば、岩波文庫版では、
「大いなる完成は欠けているように見えるが、その働きは衰えない」
「大いなる充実は空虚のように見えるが、その働きは窮’(きわま)らない(尽きない)」
「大いなる直線は屈折しているように見え」
「大いなる技巧は稚拙なように見え」
「大いなる弁舌は口下手のように見え」
と書いている。
だが、上の、私が上げたものの方が具体的で分かり易いかもしれない。

最高の恋人には、どこか不満を感じるものだ。
こう言われて、ピンとくるようでなくてはならない。
重要なことだ。

「あの人は最高の人でした」と言われる者は、見栄っ張りの偽物である。
本当に偉大な人は、偉大さが分かり難いものなのだ。

リア王は、3人の娘に、自分をどれだけ愛しているか問うたが、上の姉2人は、文句のない答をし、リア王を喜ばせた。
そんな答は嘘に決まっている。
対して、末娘は、
「当たり前にお父様を愛しています」
と答え、リア王は、もの足りなさに怒った。
80もとおに超えながら、リア王の愚かさは嘆かわしい。

「私は誰か?」と自分に問う探求も、もの足りなさを感じるはずだ。
他の「ついに発見した究極のメソッド」みたいなもののような迫力や煌(きら)びやかさがない。
また、そんなメソッドは、光が見えたり、天から声が聴こえたり、身体の中心が熱くなったり、心がぱーっと広がるみたいなエキサイティングな体験も売りだが、「私は誰か?」と問うても、特に何も起こらない。
だが、当たり前の自然の貴さがある。
リア王の末娘の本物の慈愛を忘れないことだ。








  
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