今回は『老子』第43章である。
この章を一言で言えば「何もせずに全てをなす」だ。

本当に、老子は、『老子』全81章を通し、同じことを、微妙に言い方を変えて語っている。
つまり、どの章も、本質的には違うことを言っているのではない。
そのことが分かれば、もう老子は分かったことになる。
一方、世の中の『老子』の解説者が、『老子』各章を違ったもののように言うなら、それは『老子』を全く誤解しているのである。

この章は、特に、真理をストレートに語っている。
「最も柔らかいものが、最も堅いものを突き動かす」
「形のないものが、隙間のないところに入って行く」
こんなものを見て老子は覚醒したという。
この「最も柔らかいもの」「形のないもの」を水のことだと言う者がいるが、それは、喩えとしても最悪である。
「最も柔らかいもの」「形のないもの」とは「無思考」であり、「最も堅いもの」「隙間のないところ」とは「思考」である。
そして、老子は、最上のものとは、「不言の教え」と「無為の益」だと言う。
「不言の教え」とは「無思考で教える」ことであり、「無為の益」とは、「無思考で行う行為こそ有益」という意味だ。

つまり、何にしても、考えないことが最強であると言うことは、『老子』の中で、常に述べられていることである。                                   
だが、世の中では、考えないことが悪いことのように言われる。
「自分の頭で考える俺は偉い」
「この思考停止の馬鹿者どもめ」
といった感じだ。
考えないことが愚かなのではない。
愚かなことを考えるから愚かなのである。
本当に考えなければ、人間は正しく答え、正しい行為をし、真に有能である。
逆に、考えていれば、どんな簡単なことも間違う。
ヴァーノン・ハワードのどれかの本に、「世間の人は、お腹が空いた時に、リンゴでなくリンゴの絵を求める」と書かれていたと思う。
これは、もっと親切に言えば、「お腹が空いた時、考えなければリンゴを求めるが、考えればリンゴの絵を求める」である。世間の人は、いつも考えている。愚かなことをね。

だが、世の中では、思考を消す方法を教えない。
誰も知らないからだ。
そこで、時々、無心にマントラや念仏を唱えることを教える者がいた。
それは、続きさえすれば有益で、覚醒に導くが、続けられる人が滅多にいない。
それで言えば、身体を動かす腕振り運動(スワイショウ)や足踏み四股(佐川流四股)のように、身体を動かすものの方が、気持ちが良く、肉体強化や美容につながる分、ずっと続きやすい。
だが、最上の方法は、いつも言う通り、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
真の自分は、全知全能の無限の魂(=神)である。
それを思い出すためにも、問うのである。
そして、そう問うている間は、思考は消える。
考える主体である「私」を探求し、「私」に引き戻されるのであるから当然である。








  
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