今回は『老子』第42章である。
この章を一言で言えば「無の力こそ最強」である。
余計なことかもしれないが、私が好きな章である。

無が最強無敵の力であることは、『老子』の中で何度も何度も繰り返し説かれていることである。
そして、無の力とは何かというと、「私がない」ことであり、「私がない」とは、簡単に言えば、「考えないこと」である。
つまり、思考を捨てた者が一番強い。
だが、このことは、世間の人には最も理解されないことだ。
ならば、それを知っている我々に敵はいないということである。

この章では、どうすれば思考を捨てられるかを、ささやかに語っている。
要は、徹底的に遜(へりくだ)ることだ。
ところが、世の人は、承認欲求の満足を求めて、徹底的に自分を持ち上げるのだから、全く恐れるに足りない。
恐るべき敵がいるとすれば、遜り、低いところで満足する者、すなわち、思考を捨て、無になった者だ。

古の大王がそうであったように、自分を「孤児」「独り者」「善くない者」と言え。それを自称とせよ。
世間の人が、自分を、良い出身の者、誉れあるグループに属する者、善い者と言うのを憐れんで見るだけである。

だが、それよりも、「私は誰か?」と自分に問い続けることだ。
そうすれば、自分は、孤児とはいえ宇宙全体である孤児、唯一の存在である独り者、善悪を超越した者であることが分かってくる。
そうであってこそ、真に安心であり、敵する者など存在しないのである。

尚、やはり、腕振り運動や佐川流四股を行うことをお奨めする。
なぜなら、これらの運動を淡々とやることで澄み切った心にとって「私は誰か?」と問うことは容易いからだ。
尚、佐川流四股とは、音を立てずに行う足踏み程度のものと思う。ただし、多少、両足を開き、いくらか身体を左右に振ることに意味がある。








  
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