では、『老子』第38章である。
この章を一言で言えば「認められようなどど思うな」である。

自分を身体や心だと思っているほとんどの人間は、承認欲求が恐ろしく強いので、世間の評判を重要視する。つまり、他者に認められたくて仕方がない。
だが、自分は全知全能の無限の魂だと知っている者は、承認欲求など全くないので、世間の評判など全く気にしない。
ところが、真の自分を知り、他者の承認を求めない者が、自然に誰からも認められるのである。

今も、巷では「自己肯定感を高める」なんて話や本が評判になっていたりする。
愚かしく、嘆かわしいことだ。
なんだかんだ言って、他者の承認がない限り、自己肯定感は得られない。
したがって、そんなものを求める限り、世間の、あるいは、支配者の奴隷になる。

全知全能なら、いったい誰の承認が必要だろうか?
全知全能なら、いったいどうやって自分を否定出来るだろうか?
「私は全知全能ではない」と言うなら、単に、自分が全知全能であることを忘れているだけだ。

なぜ、承認欲求が必要なのかというと、不安だからである。
そして、なぜ不安なのかというと、自分が無力だからと思っているからだ。
では、なぜ自分が無力であると思っているのかというと、肝心なことを忘れているからだ。
その肝心なことを忘れさせたのは、悪の宇宙人が設置したマインドコントロール装置のためである。
よく、庶民は支配者に洗脳されて、自分は無力だと思っているのだと言われる。
だが、支配者だって、自分は無力だと思っているから、強引なことをするのだ。
自分が全知全能だと知っていれば、良いものを庶民から取り上げ、自分が独占しようなどとは思わないものだ。
そして、自分が誰かを知っている者には、支配者だって従うのである。
だから、どれほど好戦的で野蛮な国王も、釈迦に対しては遜ったのだ。
我々も、釈迦のようでなければならない。
それには、自分が本当はブッダ・・・つまり、全知全能の無限の魂であることを思い出せば良い。

我々は既に、自分は、ブッダ(あるいはキリスト)である全知全能の無限の魂であることを知っている。
後は、それを本当に思い出すために「私は誰か?」と自分に問わねばならない。
逆に言えば、やるべきことはそれだけである。
それは刺激的でもなく、何か美しい幻が見えるわけでもないので、やり通せる者は少ない。
それで、ほとんどの死にゆく人は安らかではない。
だが、それさえやっておけば、死は恐ろしくはないのである。
なぜなら、自分は本当は死なないことが実感として分かるからだ。
アルジュナ王子は、それを分かるために、クリシュナ神が語る『バガヴァッド・ギーター』全18章を必要とした。
だが、「私は誰か?」と問う者には、理解は自然にやってくる。

後、元気が出るので、腕振り運動や、佐川流四股をやることをお奨めする。








  
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