今回は『老子』第37章である。
この章を一言で言えば「最良の指導者は空気のようなもの」である。

老子は、優れた人間が悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から脱する方法を説くと共に、それを成し遂げた者が、その他の者(人民)に対しても、その装置の影響を軽くしてやり、うまくいけば、普通の庶民の中からも、目覚めることが出来る者があるよう教えたのだと思う。

良い君主というものは、自分が成しているという想いを持たない。
そのことを、この章では「王侯は、(道のように)何事も為さずに全てを為す」と言っているのである。
自分が成しているという想いを持たないとは、早い話が、思考をしないということだ。
思考をしなければ自然になる。
なぜなら、人間の思考とは不自然なものだからだ。
老荘思想、あるいは、道教で言う「道に従う」とは、単に、「自然である」ということだ。
余計なことを考えない自然な人には、誰もが従うのである。たとえ、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に支配された者であっても。

ルドルフ・シュタイナーは教育者としても際立っていたが、「良い教師とは空気のような存在」と言ったようだ。
それが、老子の言う「見ても見えず、聞いても聞こえず、触っても指に感じない」空気のような存在で、自然な存在とはそのようなものだ。
空気、あるいは、清流と言っても良いだろう。
そして、そのような存在が最も強い力を持つことは、自然において、空気や水がそうであるのと同じである。

1959年のアメリカ映画『ベン・ハー』で、こんな印象深い話がある。
主人公の青年ユダが、罪がないのに囚人となり、他の囚人と共に鎖でつながれて灼熱の砂漠を歩いて移動させられていた。
中継地の村に着いた時には、囚人達は死ぬほどの渇きを感じていて、村の人々は、自然な慈悲心から、囚人を護送する兵達だけでなく、囚人達にも水を与えた。
ところが、ユダは護送兵の隊長に嫌われていて、村人がユダに水をやろうとするのを止める。
我々だって渇いた記憶があり、渇いた時の水がどれほどの価値があるか知っている。
しかも、ユダは、灼熱の砂漠を何十キロも歩かされた後なのだ。
ユダは悲痛な想いで水を求め、なりふり構わず、護送兵の隊長の身体についた水さえ舐めようとする。
その様子を憐れみ、村人がユダに水を与えようとすると、護送兵の隊長は、それを乱暴に蹴散らして脅し、ユダに水を与えさせない。
絶望と悲痛の中、ユダは意識を失う。当然、そのまま死に至るはずであった。
だが、そこで1人の若者が水の入った器を持ってユダの所に行き、ユダの後頭部を水で冷やし、微かに意識が戻ったユダに水を飲ませる。
それに気付き、再び蹴散らしてやろうと護送兵の隊長が若者に向かっていくが、護送兵の隊長はなぜかその若者に近付けない。
その若者は、後で分かるがイエス・キリストであった。
弱った者に慈悲を施すのは、考えてやることではなく、自然な行いである。
それを自然に行うイエスに逆らえる者はいない。
そのことを示す印象深い場面であった。
私は、元ミュージシャンで、元ホームレスの男性が、あのイエスのようになりたいと言っていたのを覚えている。
それで、この映画のその場面を意識的に見たのであった。
イエスが登場する映画には、地球人を悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配から解き放つ意思を持った善の宇宙人の介入により、隠されたメッセージが込められた作品が、他にもあるらしい。








  
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