今回は『老子』第24章だ。
この章を一言で言えば「何も要らない」だ。

昔、『フルーツバスケット』という漫画で、こんな話をする可愛い高校1年生男子がいた。
ある優しい人がいて、欲しいと言われたら、相手が誰であっても、自分のものであれば、何でも即座にあげた。
それで、最後は、自分の手足や目玉も全部上げて、頭だけになったという話だ。
この話し手の男子高校生は、その優しい人を褒めたが、その優しい人は、ただの馬鹿である。
『老子』第24章を一言で言えば「何も要らない」だと述べたが、それは「不要なものは何も要らない」という意味で、必要なものは持っていなければならない。
なぜなら、必要なものは、魂(=神)が与えたものだからだ。
そして、イエスも言ったのだ。
「父(神)は、お前達が必要なものなど、とっくにご存じで、それは必ず与えられる」
とね。

グリム童話の中に『星の銀貨』という、元のお話は数行という短いものがあったが、グリム兄弟は、かなり加筆した。
それで、こんな感じの話になった。
ある、貧しいが信仰深い女の子がいて、やはり、乞われると、何でもすぐに与えた。
それで、夜になる頃には下着だけになってしまったが、それも欲しいと言われる。
女の子は、「夜だから見られることはない」と、下着も与え、丸裸になる。
やはり、この女の子もやり過ぎだが、このやり過ぎの部分はグリム兄弟が書き加えた馬鹿話だ。
それを真に受けてはいけない。ものには限度がある。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングは、援助を乞われたら、必ず全財産を与えたと言う。
彼の場合はどうかというと、彼がそれをするのは、相手が本当に困っていた場合だけであったし、彼は、すぐにまた得られることをよく知っていたので問題はないのである。

まず、嫌々与える必要はない。
それで言えば、『星の銀貨』の女の子も、馬鹿ではあったが、自分が楽しいのであれば、何をどれだけ与えても別に構わない。
だから、下着をあげた後、神様が大量の銀貨と、新しい服をくれたのである。
『フルーツバスケット』の方の、あの優しい人も、頭だけになった後、すぐに復活したかもしれないが、やはり、ものには限度がある。
ましてや、したくない寄付はしなくて良い。
もちろん、本当にしたければすれば良いが。
とはいえ、あのエマーソンだって、「いつか断ろう」と思いつつ、寄付をしていた。
だが、本来は寄付は不要だとエマーソンは言う。
『フルーツバスケット』のあの優しい人も、『星の銀貨』の女の子も、本来は与える必要はなかった。
なぜなら、人は誰でも、神のようなものである全知全能の魂なのであり、下手にものを与えたら、ますます、それを思い出せなくなるからだ。
とはいえ、不幸にも、本当の自分を思い出すにはあまりにも無知蒙昧な場合は、とりあえず助けるのも良いが、好ましくない場合も多いのである。
まあ、こう言うと、世界に沢山いる、明日の命も知れない貧困国の困窮した人々の話をしたがる人がいるが、まずは自分を救えば、それらの人々を救うことも出来るかもしれない。
しかし、今の我々が何をしても同じだ。

だから、まずは、自分が本当の自分に戻らなければならない。
そのためには、失われた記憶を取り戻さなければならない。
そのために、出来るだけ多く「私は誰か?」と自分に問うのである。








  
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