今回は『老子』第23章である。
この章を一言で言えば「自然に」である。
「自然な」・・・これほど美しいものはない。
『老子』の、特にこの第23章は難しく感じるかもしれないが、老子は難しいことなど言わない。
この章も、最も大切な「自然であれ」ということを書いているだけである。

昔、有名な007俳優であったショーン・コネリーがテレビCMの中で、
「美しいか。美しくないか。それが行動の基準だ」
と言うものがあったが、本当に美しいものは「自然さ」が備わっている。
だが、現代人はそれを忘れている。
現代人そのものが不自然になっているのだ。

たとえば、筋肉がついた逞しい男性の身体は美しい。
しかし、過度に筋肉がついた身体を見たことがあると思うが、あれが美しいことはない。
不自然な筋肉だからだ。
また、女性の大きな胸を美しいと感じる人は多いが、最近のアニメやゲームで、ヒロインの若い女性が異常に大きな胸をしていることがよくあるが、あれも、どう見ても、少しも美しくない。
だが、これらのものがもてはやされるのは、現代人の感覚が不自然になっているのである。
不自然になることを、老子は「道から外れる」という言い方をする。それは、荘子や列子でも同じだ。
現代人は、そして、現代の社会は、かなり道から外れてしまっている。

いくつかの『老子』の翻訳・・・たとえば岩波文庫では、この章の最後は、
「支配者に誠実さが足らなければ、人民から信用されないものだ」
とあるが、この文章は、それまでの文章の続きとしては唐突感が大きく、後世に付け加えられたとする説がある。
あるいは、この一文について、全く別の言葉による意訳をした翻訳もある。
だが、この「誠実」についても、本当の誠実とは自然なものだということを理解しておくと良い。
不自然な誠実は少しも美しくはなく、災難の元にもなりかねない。
それを表現したのが、シェイクスピアの『リア王』だ。
この作品(戯曲)で、長女と次女は、父のリア王をどれほど深く愛しているか美辞麗句を並べ、それを聞き愚かなリア王は喜んだ。
だが、三女は「私は当たり前に父上を愛しています。それ以上でも以下でもありません」と言い、リア王を怒らせた。
「当たり前に愛する」という自然さを、リア王が分からなくなっていたことが不幸の原因である。

自然さは、過激でも極端でもない。
仏教では、極端を排することを「中道」と言うらしい。
仏教だって、本来は自然さを尊ぶものなのに、形骸化、権威化した仏教は不自然さが多い。
だから、賢い人は極端を避ける。
過度なマッチョ、過度な巨乳も、避けるべき極端だ。
『バガヴァッド・ギーター』にも、「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎるのもよくない」とあるように、極端を避け、自然であることが良い。
頑張り過ぎるのもよくないが、怠け過ぎるのも当然よくない。
子供やペットを甘やかすのは、決して悪いことではないが、それにも限度があるということだ。
「徹底的にやる」ことが悪くないこともある。
しかし、それすら、限度を守って「徹底的にやる」ものである。
限度を超えた「徹底的」は災禍を起こすのである。

自然さ・・・この最も貴いことを忘れてはならない。








  
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