では、『老子』第16章に入る。
この章を一言で言えば「心を静かにせよ」だ。

心を静かにするとは、想念を起こさないことであり、それは、無我、忘我、没我になるということで、それを「無になる」ことと言って良いと思う。
そして、老子は、無になれば真理が見え、真理が見えれば一切を公平に見ることが出来、一切を公平に見る者は真の王であり、真の王であれば万物が従うので無敵であると言う。
これは、老子、荘子、列子などの道教の根本的な思想でもある。

ラマナ・マハルシも言っている。
「全ての聖典には、つまるところ、心を静かにせよと書かれている。それが分かれば、もう聖典を読む必要はない」

ただ、問題は、「では、どうすれば、心を静かに出来るのか」ということであることが分かると思う。
もちろん、老子は『老子』の全章に渡って、それを教えようとしたが、教えを抽象的に感じ、無になる方法が理解出来ない人が多い。
荘子は、もう少し、初心者向けに易しく語ったが、やはり、「思慮分別を離れ、是非好悪を捨て・・・」といった、掴みどころのない教えが多いように思う。

そこで、私は、ラマナ・マハルシの方法と、ニサルガダッタ・マハラジの方法をミックスすれば良いのだと思う。
ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問えと言った。
しかし、それは少しの間は誰でも出来るが、長く続けることが出来ない。
「私は誰か?」と問う意義が分からず、そして、続けていても何も起こらなければ、モチベーションが続かないからだ。
一方、ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在だ」と言われたことを憶えているだけで解脱が出来た・・・つまり、究極的に心を静かにし、無になったと言っているのである。
だが、「私は至高の実在だ」ということの意味が分からず、憶えていられる人は少ない。
また、「至高の実在だ」という言葉は、宗教的で馴染みが薄く、ピンと来ない。
だから、もっと単純に「私は神だ」で良い。
それを信じられるかどうかはどうでも良い。
「私は神である」という言葉だけを憶えていれば良いのである。
そして、時間があれば、常に「私は誰か?」と問うのであるが、その答は「神である」だと、思わなくていいから意識する。
すると、ある時、突然、自分が神であるという実感が起こり、その時は、あなたは神のようになっている。
そうなれば、老子が言うように無敵である。
神であるのだから当然だが。








  
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