今回は、『老子』第12章である。
『老子』第12章を一言で言うと「身の程を知れ」だ。
贅沢や享楽(快楽に耽ること)が人を駄目にすることは、経験的に知られている。
しかし、贅沢や享楽が人を駄目にする理由は、案外に知られていない。
「そんなの、当たり前じゃないか?」
と言いたい人もいると思うが、「どう当たり前だ?」と聞き返されたら答に困るのである。

我々は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置によって、贅沢や享楽を求める性質を与えられている。
そして、悪の宇宙人の狙い通りに、我々が贅沢や享楽を求めれば求めるほど、我々の魂の波動が低下し、力を失うのである。
では、贅沢や享楽を徹底的に拒否すれば良いのかというと、それは(贅沢や享楽を求めるのと)同じ効果を持つ。
過ぎた禁欲者って、生気がなく、性格も悪い場合が多いと思う。
要は、贅沢や享楽を求め過ぎても、拒み過ぎても、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に捕まり易いのである。
だから、贅沢や享楽は楽しい面があることを認めつつ、そこそこに求めると、脳から妙な電波を出さず、よって、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に捕まることはない。

だが、今回も同じで、いつも「私は誰か?」と自分に問うていると、贅沢や享楽への欲望が燃え上がることはなく、贅沢や享楽が「来れば来るで良し、来なければ来ないで良し」となる。

禅の公案に「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という、なかなか色っぽい話がある。
あるおばあさんが、1人の修行に励む青年僧に庵(修行小屋)を作ってやって援助していた。
だいぶ青年僧の修行が進んだと思われた頃、おばあさんは15歳(一説に20代)の素晴らしい美少女に青年僧を誘惑させる。
だが、青年僧は「無駄じゃ。私は欲望を滅しておる」と言ったのだが、それを聞いたお婆さんは青年僧を追い出し、庵を燃やした。
もうお分かりだろう。
普段、この青年僧が美女を求めないのは立派だ。
しかし、来たものは有難く喜べば良いのだ。
だが、普段から「私は誰か?」と問うている者なら、美少女と楽しくお喋りし、美少女の機嫌を取って返すだろう。
一休さんも、この公案について、
「そんなことはない方が良いと思うが、あったらあったで元気になろう」
と言っていたと思う。
この時、一休さん70歳。
身の程を知っていたのである。








  
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