今回は、『老子』第9章である。
いつもと同じく、『老子』第9章を一言で言えば「ほどほどに」だ。
「『老子』は難しい」などと言われるが、思想は一貫しており、少しも難しくない。
つまり、どの章も、根本的には同じことが書かれているのだ。
ただ、『老子』は、言葉の1つ1つを見れば、確かに、妙に難しい。
私の勝手な推測だが、『老子』が、そのように、言葉として難しい理由は、次のようではあるまいか。
『老子』は、老子が語ったことを、1人の老子の崇拝者が記憶し、思い出して書き留めたものだと言われる。
その、文章に書いた者が、文学的だったことや、老子への敬いもあって、深みのある表現にしたので、難しくなったのかもしれない。
だが、書かれていることの本質は、本当にシンプルである。
その本質とは、「遜(へりくだ)れ」「頑張り過ぎるな」「執着するな」みたいな、普通に大切だと言われることだ。
ただ、徹底して「遜れ」とか「欲張るな」とも言っていない。
そこらが宗教との違いかもしれない。
たとえば、やる気のある子供が、勉強も運動も1番になろうと頑張っている時に、多少やり過ぎでも、「欲張り過ぎるな」「ほどほどに」と、あまり言うのは良くない。
ただし、あまりに頑張るのはやはり良くないが、その場合も、頭ごなしに「ほどほどにやれ馬鹿」と言うより、いったん、徹底的にやらせるが、やり過ぎは良くないと、自ら悟るように導くのが最上である。
ある漫画で、こんな話があった。
1人の若い女性が、仕事を過度に頑張っていた。好きな仕事だし、一流になりたいのだ。
だが、彼女の頑張りは異常で、ストレスがたまり、なかなか良い成果が出ない。
彼女は、「私はこんなに頑張っているのに、どうしてうまくいかないのか」と嘆き、周囲に当たるようになっていた。かなりマズい状況だ。
彼女には、素晴らしい恋人がいたが、彼に対しても険しい態度で接するようになっていた。
見かねた彼は彼女に言う。
「君がうまくいかない理由は分かっている」
彼女は、イライラしていたこともあり、自分の仕事に関しては素人の彼に何が分かるものかと反発し「デタラメを言わないで!」と激しく言い返す。
すると、度量の大きな人間である彼は、微笑んで「食事くらい、ちゃんとしろ」と言う。
しばらくして彼女は、彼が正しいアドバイスをしてくれたことに気付く。

悪の宇宙人のマインドコントロール装置は、この星で強力に稼働中だ。
それに抗うには、意思の力が必要で、怠惰に流れようとする自分に打ち勝たねばならない。
しかし、それを過度にやっては、かえって駄目なのだ。
例えば、水野南北は、20日の断食をして「少食こそ成功の秘訣」と悟ったが、少食も、やり過ぎると、やっぱり悪くなるのだ。
釈迦は、さらに厳しい断食をしたが、たまたま近くに居た琵琶法師が「張り詰めた弦は切れてしまう」と歌うのを聞き、「やり過ぎは良くない」と気付き、「中道を行くのが良い」と悟った。
やり過ぎは、ストレスをため、心身に異常を起こす恐れがあるが、それよりも、やり過ぎの時の精神状態は、かえって、悪の宇宙人のマインドコントロール装置に捉えられ易いと思われるのである。
人間、多少、緩むことも必要だ。
しかし、緩み過ぎてもいけない。
何ごとも、正しく「ほどほどに」。
『老子』第9章では、「やり過ぎるな」という意味で「ほどほどに」と教えている。

「ほどほどに」ということも、自分で考えてコントロールすることも大切だが、根本的には、常に「私は誰か?」と問うていれば、自ずと行いは正しくなる。
「私は誰か?」は、このように万能の魔法であるが、軽率に使ってはうまくいかない。
ラマナ・マハルシが、「『私は誰か』を呪文にしてはならない」と言ったのは、そんな意味である。
自分は身体や心ではなく、神なのだということを思い出すために「私は誰か?」と問うていることを忘れてはならない。








  
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