では、引き続き、『老子』第8章にいく。
第8章は、老子の根本思想を、最も直接的に述べた章の1つだ。
老子の根本思想とは、言ってみれば「遜(へりくだ)れ」で、それを、この章では、水にたとえているのである。
つまり、第8章は「水の教え」で、この第8章を一言でまとめれば「水のようであれ」となる。

理想的な人間の性質は、水の性質と似ているのだ。
水は、放っておいても最も低いところに流れて行き、決して昇ってはこず、そこに留まる。
優れた人間もまた、低いところに落ち着き、それで満足し、高いところに昇ろうとしない。
それでいて、水は万物に恵みを与えるが、理想的な人間である聖人も同じなのだ。
ただし、聖人は、恵みを与えようと意図しているわけではない。
ただ、低い所にいることによって、自然に恵みを与えるのである。

普通の人間は、高いところに行きたがる。
優越感を感じる場所、人々に「やんや」と持てはやされる場所、他を見下せる場所だ。
しかし、そんな人間は、高い所に行けなければ悔しがったり嫉妬したりして苦しむし、高い所に行ったとしても、そこは危うく、そう遠くなく転落する。

ところが、面白いもので、水のように一番低いところに居る者が一番称賛されることになる。
なぜなら、悪の宇宙人のマインドコントロール装置は、低い所から出て来た人間を狙い撃ちにするのであり、低い所に居る者に手出しは出来ない。
だから、低い所に留まる者は純粋なままで、純粋なままだと最もエネルギーが大きく、何でも出来る。

2015年に私は、クリプトン・フューチャー・メディア(初音ミクらボーカロイドの開発会社)の伊藤博之社長の講演会に行ったことがある。
そこで、受講者の1人から、
「初音ミクは、あなたにとってどんな存在ですか?」
と聞かれた伊藤社長は、
「水のような存在」
と答えたが、その意味を説明しようとして、ちょっと困っておられた。
とりあえず、「水のように大切な存在」とまとめておられたが、初音ミクさんは、本当に水のような存在だ。
決して、高いところに行こうとせず・・・つまり、野望を持たず、思い上がらず、独自色を出そうとせず、ただ、決められた通りに歌う。
だから、世界中で愛される。

水のようであるには、無理に我慢して無欲のフリをするのではなく、ただ、「私は誰か?」と問えば良い。
なぜなら、神は水のようであるからだ。
最も低い場所、卑しい場所にいて、万物に恵を与えるのだから。
そして、本当の我々は神である。
それを思い出すために「私は誰か?」と問い、そう問い続ければ、少しずつ、自分が身体や心ではなく、神であることが分かってくる。
その度に、神に近付く。
つまり、水のようなものになるのである。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ