今回は『老子』第7章である。
非常にシンプルで分かり易い章と思う。
いつも通り、一言でまとめると「無私であれ」である。
シンプルなので、書いてある通りに取れば良い。
聖人は天地の真似をして生きていると書いてある。
この「天地」は、一切のことであり、万物のことであり、つまりは神のことだ。
つまり、聖人とは神のように生きている。
我々も、聖人になるには、神の真似をすれば良い。
そこで、神の真似とはどのようなものであるかといった、実用的でありがたいことを教えてくれている章である。
我々は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置によって、自分が身体や心だと思い込まされている。
だが、我々は魂であり、魂は永遠不滅で全知全能の無限者・・・つまり、神なのだ。
だから、我々は神でないフリをやめることと共に、初めは意識的に神のフリをしなくてはならない。
それによって、悪の宇宙人の装置の影響を脱していくことが出来る。
では、神のフリとは何かと言うと「無私」である・・・「私がない」ことだ。
これに関し、老子はよく「自分を後にする」とか「前に出ない」という言い方をする。
一般的に言えば「我を引っ込める」ということで、未熟な人間には難しいこととされる。
しかし、本当は、円熟したように見える人間にも難しい。
だが、実は易しい。
ただ、「私は誰か?」と問えば、我(自我、エゴ)は引っ込み、前に出ず、後ろに下がる。
この『老子』第7章は、『ラーマーヤナ』(インドの壮大な長編叙事詩。タイトルの意味は「ラーマの物語」)全巻にも相当する。
『ラーマーヤナ』では、最後に、ラーマ王は打ち倒した魔王ラーヴァナに教えを乞う。
勝った者が負けた者に教えを乞うのが美しい伝統で、王であるラーマはそれを守らなければならない。
たとえ、相手(倒した相手)が魔王であろうとも。
そして、魔王ラーヴァナは、ラーマに教えを説く。
とてもシンプルな教えだ。
「私心なければすぐに行い、私心がある間はやってはならない」
これは、稲盛和夫が座右の銘としていた教えである。
ラーマは、本当は至高神であるが、それを忘れ、人間として生きてきた。
だが、ラーヴァナに、神のように在る秘法を教わり、神に戻った。
我々も神であり、ラーマであり、シータ(ラーマの妻で絶世の美少女)だ。
「私は誰か?」と問えば、私心はなくなるので、行いは全て正しくなる。
そもそも、行っている者がいないのだ。
それが無私である。
ラマナ・マハルシは、偉大な人物の行いについて、こう言っていたものだ。
「その事業家は大きな事業を成しつつある。しかし、彼は何もしていない」
「財務長官は最大の注意と責任感を持って仕事をしているように見える。しかし、彼は何もしていない」
闇雲に「私は誰か?」と問い続けることは難しい。
しかし、自分が神であることを思い出すという目的で「私は誰か?」と問うのは楽しく易しいことである。
非常にシンプルで分かり易い章と思う。
いつも通り、一言でまとめると「無私であれ」である。
シンプルなので、書いてある通りに取れば良い。
聖人は天地の真似をして生きていると書いてある。
この「天地」は、一切のことであり、万物のことであり、つまりは神のことだ。
つまり、聖人とは神のように生きている。
我々も、聖人になるには、神の真似をすれば良い。
そこで、神の真似とはどのようなものであるかといった、実用的でありがたいことを教えてくれている章である。
我々は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置によって、自分が身体や心だと思い込まされている。
だが、我々は魂であり、魂は永遠不滅で全知全能の無限者・・・つまり、神なのだ。
だから、我々は神でないフリをやめることと共に、初めは意識的に神のフリをしなくてはならない。
それによって、悪の宇宙人の装置の影響を脱していくことが出来る。
では、神のフリとは何かと言うと「無私」である・・・「私がない」ことだ。
これに関し、老子はよく「自分を後にする」とか「前に出ない」という言い方をする。
一般的に言えば「我を引っ込める」ということで、未熟な人間には難しいこととされる。
しかし、本当は、円熟したように見える人間にも難しい。
だが、実は易しい。
ただ、「私は誰か?」と問えば、我(自我、エゴ)は引っ込み、前に出ず、後ろに下がる。
この『老子』第7章は、『ラーマーヤナ』(インドの壮大な長編叙事詩。タイトルの意味は「ラーマの物語」)全巻にも相当する。
『ラーマーヤナ』では、最後に、ラーマ王は打ち倒した魔王ラーヴァナに教えを乞う。
勝った者が負けた者に教えを乞うのが美しい伝統で、王であるラーマはそれを守らなければならない。
たとえ、相手(倒した相手)が魔王であろうとも。
そして、魔王ラーヴァナは、ラーマに教えを説く。
とてもシンプルな教えだ。
「私心なければすぐに行い、私心がある間はやってはならない」
これは、稲盛和夫が座右の銘としていた教えである。
ラーマは、本当は至高神であるが、それを忘れ、人間として生きてきた。
だが、ラーヴァナに、神のように在る秘法を教わり、神に戻った。
我々も神であり、ラーマであり、シータ(ラーマの妻で絶世の美少女)だ。
「私は誰か?」と問えば、私心はなくなるので、行いは全て正しくなる。
そもそも、行っている者がいないのだ。
それが無私である。
ラマナ・マハルシは、偉大な人物の行いについて、こう言っていたものだ。
「その事業家は大きな事業を成しつつある。しかし、彼は何もしていない」
「財務長官は最大の注意と責任感を持って仕事をしているように見える。しかし、彼は何もしていない」
闇雲に「私は誰か?」と問い続けることは難しい。
しかし、自分が神であることを思い出すという目的で「私は誰か?」と問うのは楽しく易しいことである。
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