釈迦やイエスのような大聖人は「悟りを開いた人」と言われている。
悟りを開くことは、解脱とか、仏になるなどとも言われる。それは、人間として究極の完成に至ることと言えるのではないかと思うが、それが具体的にどういうものかは、なかなか難しい。
ただ、インドの聖者ラマナ・マハルシの話から考えるに、悟りを開いた人とは自我を消し去った人を指すようで、我々だって、優れた人物に対し、「この人には自分が全くありません」と言えば、その人物が究極的に理想の人間であることが感じられると思う。
ただ、生きている人間に自我が全くないことはあり得ないと考えられ、悟りを開いた人は、自我が完全に消えたのではなく、非常に自我が小さく(あるいは弱く)なったか、自我を自在にコントロール出来るようになったのだとも考えられる。
イエスの有名な言葉、
「汝敗れたり。わが後方(しりえ)に下がれサタン!」
のサタンが自我だとすれば、まさにこれが、悟りを開いた状態だと思えるのである。

だが、私は、先月(2023年1月)27日にローレンス・スペンサーの『エイリアンインタビュー』を読み、悟りを開くことの、もっと単純で具体的なことが分かった。
悟りを開くとは、地球に設置された、人間の魂を愚鈍にする装置の支配を脱することである。
この装置の具体的な働きを説明することは難しいが、とにかく、ある目的を持って、地球人を無能・無力な状態にする装置である。

大聖者達の悟りの状態が、装置の支配を脱した状態に等しいと考えられる。
そして、悟りを開く最も単純な方法が、ラマナ・マハルシが言った「私は誰か?」と自分に問うことである。
マハルシは、これ以外にも、人生の全てを神に明け渡す方法についても述べており、こちらの方法の方が良いと言う聖者もいるが、実際は難しいと思う。
「私は誰か?」と問う意味を、マハルシは「想念を起こさない」ためであると言ったが、それもあるが、文字通り、自分が本当は誰かを思い出す方法である。
あの装置の具体的効果は人間の記憶を消し、偽の記憶を植え付けることである。
そのため、我々は、自分が本当は誰か全く分からなくなっているが、本当の自分が誰かを思い出すことが出来れば、装置の支配を脱し、我々は全てを取り戻す。
実は、釈迦もイエスも、あるいは、老子やラマナ・マハルシも、そのことは知っていたと思う。
しかし、人々が理解出来ることを語ったのである。

マハルシは、「私は誰か?」を呪文にしてはならないと述べたと言われる。
確かに、なぜそう問うのかの意義が分からずに「私は誰か?」と繰り返すのは退屈で、長続きするとは思えない。
私もそう感じた。
しかし、『エイリアンインタビュー』を読み、記憶を取り戻す重要性が分かれば、「私は誰か?」と問うことは楽しいことであると感じる。
「私は誰か?」と問い続ければ、魂は反応し、内側から手を伸ばし、我々の手を取る。
そうすれば、我々は全てを思い出し、失われていた力を取り戻す。
そんな意義が分かって「私は誰か?」と問うなら、ある意味、呪文のように心で繰り返すと良い。
もはや、こんな話は低いレベルのことになるかもしれないが、「私は誰か?」と問うことは、引き寄せの力を高める最上のメソッドでもあると思う。








  
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