ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

念仏ロマン~中将姫~

念仏は、法然、親鸞といった仏教関係とは別のお話があり、それらがロマンに溢れ興味深い。

『方丈記』の作者として知られる鴨長明という平安時代の貴族は、都での出世争いに敗れたりで宮勤めが嫌になり、『方丈記』にあるように自然の中で生活して聖人を目指すが、何年もそのような生活を送っても、自分が全くの俗物であることを自覚し愕然とした時、自然に「南無阿弥陀仏」という念仏が口から出たという。
ちなみに、鴨長明は1155年生まれで、法然が1133年生まれ。法然が念仏に開眼したのが1175年生まれというから、鴨長明は法然の影響を受けたことが考えられるが、そのあたりの情報を私は知らない。
鴨長明は、自然に念仏が出た時がさとりを開いたと言えるかもしれない。

また、興味深いのが、中将姫のお話だ。
中将姫は奈良時代の伝説上のお姫様で747年生まれとされる。
折口信夫(おりぐちしのぶ)の傑作小説『死者の書』の主人公は、中将姫という名では呼ばれないが、中将姫だと言って間違いないだろう。
この書の中で、彼女は郎女(いらつめ。若い女性のこと)と呼ばれるが、中将姫と呼ぼう。
中将姫は、高位の貴族であった父親が中国から取り寄せた『阿弥陀経』を千回写経して覚醒したと思われる。
中将姫の時代に念仏はないが、『死者の書』の中で、彼女は、
「なも 阿弥陀(あみだ)ほとけ。あなたふと(あな尊し) 阿弥陀ほとけ」
と唱えていた。
あくまで伝説上の人物ではあるが、このお話では、わが国の念仏の元祖は中将姫ということになるかもしれない。
中将姫のお話は、有名な世阿弥の作品とされる『当麻(たえま)』や、近松門左衛門の浄瑠璃『当麻中将姫』その他で語られる。
小林秀雄がエッセイの中で能の『当麻』を取り上げていたが、『当麻』では、中将姫が当麻寺で念仏を唱えると阿弥陀如来が多くの菩薩と共に來迎し、中将姫は西方極楽浄土に行ったらしい。

法然、親鸞の系統以外に、念仏に関し、鴨長明、折口信夫、小林秀雄といった知の巨人達によって語られていることは興味深いと思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)方丈記(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)
(2)死者の書(折口信夫)
(3)モオツァルト・無常という事(小林秀雄)

死者の国
AIアート1656
「死者の国」
Kay

  
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権威は権力に優る

引き寄せがうまくいかない最も根本的な理由は、引き寄せの命令に権威がないことだ。
引き寄せに限らず、成るか成らないかは権威の問題だ。
たとえば、子供が十分に信頼している親の言葉は、子供にとって権威がある。
その親が、「スプーンは曲がる」と言えば、子供はスプーンを簡単に曲げる。
新約聖書の福音書の中で、湖の上を歩くイエスを見て、ペテロが、
「主よ、私に来いと命じて下さい。あなたが命じれば私にも出来ます」
とイエスに乞うと、イエスは、
「私は命じる。来い」
と命じ、ペテロは自分も湖の上を歩いた。

「ノストラダムスの預言」で有名なミシェル・ノストラダムスは医師で、ペスト治療の名医として有名だったが、何より大預言者として権威があった。
だから、ノストラダムスの治療を受けたペスト患者は、実際には何もしなくても治った。そもそも、当時、ペストを治す方法などなかったはずであるが、患者はノストラダムスの権威で治ってしまったのだ。

政木和三さんも、医学部にいた時、癌患者に「癌は消えました」と言うと、治癒してしまうのを何度も確認したと言われていた。
政木さんのオーラ(雰囲気)に権威があったからである。
有名なイエスの病気治しも、イエスの権威によって行われたのであるはずだ。

物質主義の世の中になると、権力というものは存在しても権威はなくなる。
庶民は、権力者を見ても権威は感じない。だから、権力者を馬鹿にする。馬鹿にされている権力者が何を言っても庶民は信じない。
トランプ大統領は、物質的なことは当然するが、それよりも権威の復活を狙っているように思う。
彼は世界一の権力者でありながら、馬鹿にされていないので、彼がアメリカは再び偉大になると言えばそうなるだろう。
ただ、昔から、権力者は権威を恐れる。
だからイエスは処刑されたし、トランプ大統領にも暗殺の危険は付き纏う。

物質主義に犯された現代人は、聖書にも、仏教経典にも、コーランにも、ヴェーダ聖典にも、古事記にも権威を感じない。
だから、自分で病気を治せないし、奇跡も起こせない。
とはいえ、無理矢理権威を叩き込まれた者は、本当の権威が分からない。つまり、洗脳された信者は何も出来ないのだ。
どうすれば良いかというと簡単で、聖書でも『バガヴァッド・ギーター』でも『古事記』でも、読めと言われて読むのではなく、自主的に読めば権威を感じるようになる。
よって、やはり、大人になっても熱心に聖典を読む者は引き寄せが上手いのである。
大人は「読め」と言われない。だから、「子供の時は読んだなあ」と、実は読まされただけの者は引き寄せが出来ない者が多いのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(2)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)
(3)現代語訳 古事記(福永武彦)
(4)浄土三部経(現代語版)
(5)サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳 (角川ソフィア文庫)

風の通り道
AIアート1655
「風の通り道」
Kay

  
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本物の感謝

インドには、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』という2大長編叙事詩・・・つまり、詩で書かれた長編物語が存在し、共に、国内では聖典として尊重されているのだと思う。
ちなみに、『バガヴァッド・ギーター』は、『マハーバーラタ』の6巻に含まれるものである。

このうち、『ラーマーヤナ』は、ラーマと魔王ラーヴァナ(正確には羅刹という鬼神の王)の戦いをメインテーマとした物語で、ラーマーヤナの意味は「ラーマ王行状記」らしいが、もっと簡単に言えば「ラーマの物語」で、私はこっちの言い方が好きだ。
『ラーマーヤナ』が編纂されたのは紀元前3世紀と言われるが、核心部分は紀元前4~5世紀にはあったと言われている。
5千年以上も前の物語にネタバレもないが、ラーマとラーヴァナの戦いの決着がついた時の話が非常に素晴らしい。
美しい伝統に則り、勝者は敗者の教えを敬って受けるのである。
この時、ラーヴァナがラーマに授けた教えは、「何かをしようとした時、私心がなければすぐにやるのが良いが、私心があるうちはやってはならない」というものだ。
稲森和夫の有名な「動機善なりや、私心なかりしか」は、ここから来ているような気がするが、そんな証拠は見たことがない。

「勝った方が負けた方の教えを受ける」といった伝統が重視されれば、愚かな戦いは少なくなると思われるが、おそらく、インドでもそんな伝統は今はないと思う。
この世に戦いはなくならないかもしれないが、せめて戦いの中に、このような規律があれば、戦いの意味も変わってくると思う。

ところで、私が好きな作品(小説、漫画、アニメ)の『俺だけレベルアップな件』で、アニメでは完全に削られたことがある。
水篠旬が、悪魔王バランを倒した後、小説では、旬はバランに「ありがとう」と言うのである。
別にバランは喜びもしなければ、感謝される筋合いもないと思うだろう。
だが、旬は、バランにたどり着くまでの戦いの中でも、ずっと自然に起こる感謝を感じていた。
これが、アニメでは全くなくなっている。
旬は、戦いの相手に対し、自分を強くしてくれたことに感謝の気持ちが溢れてならなかったのだ。
戦いは命がけで、旬の方が死ぬ可能性も十分あったが、だからこそ大きな力を得られたのである。それに対して、感謝しかない。
世の中では、感謝、「ありがとう」の大安売りが横行している。
「ありがとう」を1万回だか10万回だか言ったら良いことが起こるといったことがよく言われている。
また、偉い人がインタビューで、誰かや何かに対し「感謝しかありません」とよく言うが、本当にそう思っているのか怪しいこともある。
だが、上の話を読むと、感謝とは、意図的に行うものではなく、自然に湧き出るものでしかないのだと思う。
ラーマも、敵であったが、教えを授けてくれたラーヴァナに、自然に感謝したのだと思う。

ある成功した経営者が、「あの時、あの人がいじめてくれたおかげで私は強くなった。あの人には本当に感謝している」と言った話を憶えているが、これは嘘ではないのだと思う。
まあ、そんな人(いじめられた相手)に対しては、いつまでも恨みを持つ場合が多いだろう。
そこが、強い者と平凡な者の違いだろう。
そんなことも感じさせる、『俺だけレベルアップな件』の小説の、その部分が省かれたことは残念である。
また、『俺だけレベルアップな件』の小説は、今(2025年5月)のところ、スマートフォンのぴっこまアプリでしか読めないのも残念だ。
ただし、あまり一度に沢山は読めないが無料で読むことが出来る。
漫画もぴっこまアプリで無料で読めるが、個人的に絵柄が好きではない。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)ラーマーヤナ(上) (レグルス文庫)
(2)俺だけレベルアップな件 ※Amazon dアニメストア for Prime Video

森の声
AIアート1654
「森の声」
Kay

  
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自分を見限ることは悪いことか?

「自分を見限る」という言葉は、非常に否定的に捉えられていると思う。
それは最悪のことだと言う者も多いだろう。
自分を見限った者は最低の人間であると言わんばかりだ。

平原綾香さんのヒット曲『ジュピター』の中で、
「夢を失うよりも悲しいことは 自分を信じてあげられないこと」
という歌詞があるが、私はこれが悪い意味で印象に残っている。

念仏というのは、自分を見限った者、自分を信じてあげることが絶対に出来ない者の最後の望みである。
親鸞自体が、「私は全く駄目で、どんな行も満足に出来ないので念仏をしている」と言ったのである。

馬鹿ほど、馬鹿と言われることに敏感で、言われたら怒りが沸き上がる。
なぜかと言うと、馬鹿ほど自分が馬鹿だと思わず、自分は賢いと思っているからだ。
その馬鹿が、自分を馬鹿だと見限る、自分は賢いと信じなくなるとしたら・・・。
なんと素晴らしいことか?
馬鹿に対し、唯一理解して欲しいことは、自分が馬鹿だということなのだ。
自分が馬鹿だと理解したら、その者は、その瞬間、馬鹿ではなくなる。それどころか賢者である。

自分を見限ったら、自分を信じることを諦めたら・・・
その瞬間、高次の力(神や仏)の加護を得る。
だが、「自分を見限った」だの「自分が信じられない」だのと言う者は、まだまだ「自分はやっぱり大したやつだ」「俺には尊厳、権利がある」と思っているのだ。
きっと、「俺は駄目だ」とか「私はどうしようもない」と言うことで、構ってもらおうとか、優しくしてもらおうと思っているのだろう。

念仏というのは、高次の存在に対する「私は全く駄目なので、一切合切おまかせします」という宣言で、それを繰り返すことで、自分の駄目さを心底から納得するのである。
「俺は駄目だから勉強しない、仕事しない」って?
だから、駄目なやつに権利はないのだ。
勉強する運命なら勉強するしかないし、仕事をする運命なら仕事をするしかない。
勉強も仕事もせず、家族に疎まれる運命なら疎まれるしかない。
逆に、立派な人間として振る舞う運命なら、そうするしかない。
それが本当に納得出来たら、大変なことが起こるだろう。

『バガヴァッド・ギーター』は、神クリシュナが、戦いたくないアルジュナに「戦う運命なら戦うしかない」ことを説いたものだ。
本質的には、クリシュナの教えも念仏と同じと思う。

念仏とは、「南無阿弥陀仏を唱えることだ」と言う者もいるし、「いや、仏を念じる、つまり、イメージすることだ」と言う者もいる。
元々は、イメージ説が有力だったと思うが、法然は唱えることだけを教えた。
まあ、それは単に、馬鹿な庶民に分かり易いという程度の意味で、どちらでも良いと思う。
私は、京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)の、あのアルカイックスマイルを思い浮かべ、「アンタにまかせる」と思うと、かなり落ち着くのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)浄土三部経(現代語版)(浄土真宗本願寺派総合研究所)
(3)バガヴァッド・ギーター(日本ヴェーダーンタ協会)

花の時
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「花の時」
Kay

  
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善いことをするなという教え

念仏は、実際は夢の世界であるこの世に最も適合するための優秀なシステムであると思う。
夢の世界と言っても、実体は、コンピューターゲームのような仮想世界、あるいは、シミュレーション世界だ。
念仏のシステムのマニュアルの1つである『観無量寿経』を読むと、仏国土というのは高度に機械化された世界と言うよりは、どう見てもシミュレーション世界である。
イギリスの数理哲学者ニック・ボストロムや、近年何かと話題のイーロン・マスクは、この世界がシミュレーション世界であるとほぼ断定しているが、彼らも思いつきでそう言ったのではなく、否定し難いというところまで突き詰めてそう言うのであり、それは難しいことなのかと言うと、誰でもそう結論付けるしかないと思う。

念仏システムと近いのが、荘子の手法で、それは「なりゆきにまかせ、何もしない」というものだ。
現代でもよく言われる「あるがままに(Let it be)」「なんとかなる」「なるようになる」という言葉も、根は同じなのかもしれないが、荘子と似ている。
しかし、荘子以外は、「何もしない」が強調されておらず、人間は、つい何かしてしまう。
いくら「あるがままに」と思っても、何かして、あるがままに出来ないのが人間だ。
また、荘子以外は、「善いことをしろ。悪いことをするな」ということをを否定しない。
すると、人間は善いことをしようとすると同時に、同じくらい、悪いこともしようとするのだ。
荘子が言う通り、善いと悪いに違いはないからだ。
「善いと悪いの区別がつくのが大人だ」と言う者ほど、悪いことをするかもしれない。

だが、念仏システムは荘子を超える。
なぜなら、「善いことをしてはならない」「悪いことをしても構わない」と言うからである。
こう言うと、「平気で悪いことをやり放題のやつらが正しいのか?」と言いたい者がいるだろうが、この考えには誤解がある。
悪いことをする連中は、やりたくて悪いことをしているのではない。やらされているだけなのだ。
そして、悪いことをしようとしても悪いことが出来るわけではない。
思う通りに善いことも悪いことも出来ないことは『荘子』にだって書かれている。全てやらされているということも。
さらに、荘子は、善いことをする者を馬鹿にしている。
ここらを見ると、荘子もかなりのものなのである。
言ってみれば、機能的には同じだが、念仏は愚民にも親切な分かり易い製品のようなものだ。

善いことをしてはならないというのを納得しない人が多い。
しかしさあ(笑)、善いことをする者って、「自分が好きな善いことしかしない」のである。
だから、荘子は善いことをする者を馬鹿にするのである。
念仏システムを理解していた親鸞は、善いことをする者を馬鹿にしたわけではないが、困ったものだとは思っていたと思う。
親切の押し売りをする者を荘子は馬鹿にし、親鸞は、一応は褒めるが、ため息をつくのであると思う。
その対策として、荘子は、大きな善いことをした者を、善いことをしない神仙に合わせたらどうなるかを描いて見せた。
だが、親鸞はあえて「善いことをするな」「悪いことをしても構わない」と、誤解はされそうだが、当たり前のことを言ったのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)新釈 荘子 (PHP文庫)
(3)浄土三部経(現代語版)(浄土真宗本願寺派総合研究所)

蜃気楼
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「蜃気楼」
Kay

  
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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