ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

世間の妄信を捨てることの威力

私は、人間にとって年齢というものにさしたる意味はないか、少なくとも、年齢に関して世間で言われているようなことは1つの想像でしかないと思う。

我々が、年齢に関する世間の信念を捨てれば捨てるほど、我々は老化というものと縁遠くなっていくだろう。
仮に、我々よりはるかに進歩した宇宙人がいて、肉体そのものは我々と大差ないとしても、彼らが(地球年齢で)百歳であれば現在の我々の30歳以下にしか見えなかったり、特に進歩していればさらに若く見えるかもしれない。寿命も300年とかそれ以上かもしれない。
人間世界にも、ごく稀にそのような人物がいるという話も聞くが、本当にそんな人がいたとしても、世間は、そのような人の存在が認めず、その人は最初から存在しなかったということになってしまうのだと思う。
フォード自動車創業者のヘンリー・フォードが絶賛し、親しい人達にプレゼントし続けたという、ラルフ・ウォルドー・トラインの著書“In Tune with the Infinite”(最後に2種類の翻訳を御紹介する)の中に、85歳にして25歳以下にしか見えない女性の話がある。彼女の若さの秘訣は楽天性であるとトラインは言う。

エドモンド・ハミルトンのSF小説「キャプテン・フューチャー」は、今よりもずっと未来の話であるが、「この時代(小説の舞台である遠い未来)、50歳は男盛りの絶頂である」と書かれたところがある。これが書かれた1940年(昭和15年)頃は、50歳といえば老人であったし、日本では平均寿命自体が50歳に達していなかった。しかし、現在であれば、50歳で男盛りというのは、別に違和感はない。ハミルトンはSF的空想で書いたのかもしれないが、本当になってしまったのだ。本来であれば、もうすぐそれが70歳くらいになっても良いのであるが、現在の人々は、飽食・美食にとりつかれて老化がむしろ早まってしまっているように感じる。

我々は、年齢に対する世間の信念を超えないといけない。
プロレスのジャイアント馬場さんは、「若い頃は、60歳といったら、すごいジイさんだと思っていたが、いざ自分がなってみたら・・・なんだ、まだまだやれるじゃないか」と言っていた。
彼は23歳くらいの若手の時、修行のためにアメリカに渡った。そこで、フレッド・アトキンスという強豪レスラーがコーチになった。馬場さんは、50歳をとおに超えているはずのアトキンスの体力に驚く。とにかく、全く敵わない。馬場さんが63歳で肝臓癌で亡くなるまで、引退などサラサラ考えなかったのは、アトキンスが意識改革してくれたおかげだったのではないかと私は想像している。

年齢の話ではないが、トーチェ夫妻の著書「トーチェ氏の心の法則」に興味深い話があったのを憶えている。
ある国の話だが、そこでは、脚が折れた人が元気に走り回っている。そこの人々は、脚が折れたら走れないということを知らないからだとトーチェは言う。
我々は、下らない世間の妄信という牢獄の中に閉じ込められている。
私は、「あらゆる栄養を取りながら、毎日3食しっかりと食べないといけない」という世間の妄想を捨て、1日1食で、世間的には超偏食であるが、完全に健康で強靭な身体になった。幼い頃からのアトピー性皮膚炎も、死にそうな発作に襲われたメニエール病も医療と全く関わりを持たずに完全に治った。腕立て伏せを100回以上できるのは特別な人だと思っていたが、その考えを捨て、毎日軽々と150回やっているので、200回以上は出来るはずだ。
世間の考え方を叩き壊すことが天国への道と思う。我々はそれを目指すべきではないだろうか?このブログの目的もそこにある。







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なぜ結婚しなければならないか?

いい年をして未婚のままでいると、「どうして結婚しないのですか?」と、ごく普通に聞かれることもあるかもしれない。
しかし、それはおかしな質問かもしれない。
それよりも、もっとまっとうな質問は、「なぜ結婚するのですか?」ではないだろうか?しかし、そう聞かれたら普通の人は戸惑うかもしれない。
本当は、結婚しないということに特別な意味などないし、従って理由が必要なはずもない。
では、結婚する理由について考えてみよう。

ある未開の村では、女性は皆、首が異常に長い。外から来た人は間違いなく驚くほどで、正直、気味悪く感じる場合も多いだろう。
なぜ、そんなに首が長いのかというと、女の子は生まれた時から首にリングをかけ、成長するにつれてリングの数を増やしていくのだ。この村では、女性は首が長ければ長いほど美人なのである。
昔の中国では、纏足(てんそく)といって、女性は足が小さいほど美人とされ、やはり、幼い頃から足を縛る習慣があったと聞くが、それと同じようなものだろう。

さて、この、首にリングをかける習慣のある村で、それをしない女の子がいたら、「なぜ首にリングをかけないのか?」と聞かれるに違いない。
村の外にいる者にとっては、首にリングをかけないことに理由が必要とは思えない。むしろ、「なぜ首にリングをかけるのか?」がまっとうな質問だろう。
しかし、その村の者に、「なぜ女性は首にリングをかけるのか?」と聞いても、皆、戸惑うだろう。あるいは、雄弁家であれば、首の長い女性がいかに素晴らしいかをとうとうと説くかもしれないが、もちろん、それは村の外の者にとって何の意味もない。
その村では、首の長い女性が美しいというのが、世間の信念であり教義とも言えることなのだ。
世間とは幻想であることが分かる。実際、その村の者は、首の長い女性は美しくて素晴らしいと本当に感じているのだ。

我々が、結婚するのが普通というのも、それと変わらない。
他にも、、学校の試験で良い点を取るのが良いこと、沢山お金を稼ぐのは良いこと、マイホームを持つのは良いこと、ある程度の年齢になればそれなりの値段の車に乗らないといけないこと、食事は3回食べること、宴会でノリが良くないと性格が暗い・・・などいくらでもあるが、それらも、「首の長い女性が美しく素晴らしい」という世間の信念、教義と何ら変わらない。
「そんなことはない!」と言いたい者もいるだろうが、あの首の長い女性が美しいことを主張する村でも、それが幻想で意味がないと言われると「そんなことはない!」と言うのだ。

結婚しないと子供が出来ないなんてことはもちろんない。
ヨーロッパのいくらかの国では、結婚せずに子供を持つ女性の方が多いと聞く。そんな国では、シングルマザーへの福祉が発達している。日本では、シングルマザーやその家庭は極めて苦しく惨めな状況に追い込まれ、母親も子供も不幸になる場合が多い。ヨーロッパのそんな国では、母親も子供も明るく、社会は活気があるが、我が国では、それに関する陰鬱な問題を抱えている。
また、日本では、結婚したらしたで、子供を作らないとまた、「なぜ子供を作らないの?」と聞かれる。
これも、「なぜ子供を作るのか?」という質問の方が重要かもしれない。
人口は既に十分だ。子供を作るのは良いことだが、作らなくても問題なく、無理に子供を作らなければならない理由はない。
若い生産力が必要なんて言うのは、まるで若い奴隷が必要だと言っているようなものだ。確かに奴隷は若い方が良い。
時々、「今は若者4人で65歳以上の老人1人を抱えているが、将来は若者2人で1人を抱える状況になる」などという話を聞く。65歳以上の人になんとも失礼ではないかと思う。何で抱えられないといけないのだ?人間は年を取ったからといって能力がなくなる訳ではない。問題は、年齢の高い人に向いた、本当の仕事がないだけのことだ。本来、仕事とは、年を取れば取るほど磨かれるものだ。そして、本当の仕事は楽しいもので、いやいややるものではない。本当の人間らしい仕事をして生きていける社会が幸福な社会ではないだろうか?







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人形の少女の共時性

スイスの精神科医カール・グスタフ・ユングに、彼の女性の患者が「夢の中で、聖なるカブトムシ(古代エジプトで聖甲虫とされたスカラベ)を贈られた」と言った時、窓から甲虫が飛び込んで来た。ユングが捕らえて患者に見せると、患者は夢で見たものと同じだと言った。
このような、現象をシンクロニシティ(共時性)と言う。意味のある偶然の一致という意味だ。
奇妙な偶然の一致は、気を付けていれば、日常によくあるものだ。それが、意味を持つか、ただの偶然かは、自分次第ではないかと思う。
私も、昨日、面白いシンクロニシティを経験した。
アリスというのが女性の名前であることはご存知と思うが、その別称のアリシアという言い方はあまり聞かないのではと思う。
私も、一昨日まで、アリシアという名前を聞いたことは、憶えている限り一度もなかった。
ところが、一昨日、あるアニメで、初めてこのアリシアという名前を聞いて以来、私はこの名をずっと心の中で繰り返していた。
そして、昨日の午後7時に、普段は見ないテレビを付け、何の気なしにNHKのチャンネルを選択すると、最初に飛び込んできた言葉が「アリシア」だった。海外のテレビドラマの紹介で、アリシアはその登場人物のようだ。
私が見たアニメの中で、アリシアは金髪の愛らしい、幼い少女だったが、彼女を生き写した人形(人工生命)として創られたのが、フェイトという名の少女だった。フェイトは「運命」という意味だ。

最近、私は、「人形」という言葉によく出逢う。
ドイツのホフマンという作家が、自動人形(からくり人形)をテーマにした不気味なお話をよく書いている。ホフマンは、作曲家で画家で法律家でもあるという多彩な天才だ。それでも、名前はあまり知られていないかもしれないが、「くるみ割り人形とねずみの王様」の作者だと言えば分かると思う。このお話は、「くるみ割り人形」というバレエで有名で、浅田真央さんが少女時代に使っていた、そのチャイコフスキーの曲を憶えている人も多いと思う。
ホフマン原作のバレエでは「コッペリア」もよく知られている。これは喜劇であるが、原作は「砂男」という恐ろしいホラーだ。
「砂男」の中のお話である。
ナタナエルという青年は、ずっと憧れていた絶世の美少女オリンピアをダンスに誘った。しかし、オリンピアの調子に合わせると、なぜか上手く踊れない。ダンスの名手であったはずのナタナエルは自信をなくす。
しかし、ナタナエルは相手を代える気はない。誰かがオリンピアをダンスに誘ったら決闘しかねないほどだった。
周囲の人達がクスクス笑うが、ナタナエルは気にしなかった。オリンピアに愛をささやくが、彼女は吐息をつくだけ・・・
ナタナエルだけが気付いていなかったが、オリンピアは人形だった。
バレエの「コッペリア」の中では、自動人形の少女の名はコッペリアだが、「砂男」の中では、オリンピアという名なのである。

ナタナエルにとって、オリンピアは愛する乙女であり、ただの人形ではなかった。
フェイトは、彼女を創ったプリシアにとって、自分の娘であるアリシアの身代わりの人形でしかなかった。だが、アニメ作品の中の多くの登場人物や、見ている私達にとって、フェイトは人形ではない。
人形は、神の子ではないということになろうか?
神の子でなければ、クリスマスにサンタクロースも来ないし、堅信式(キリスト教の儀式。思春期の頃に行う)に白い衣装を用意する必要もない。そもそも儀式に呼ばれることもない。
だが、我々だって人形なのだ。この身体は極めて精巧ではあるが、機械のようなものである。なぜなら、我々は身体ではないからだ。
我々は、究極のオリンピアであり、フェイトと何ら変わらない。
イエスは「身体を殺せる者を恐れるな。魂を殺せる者を恐れよ」と教えた。我々は、身体ではなく、魂であるからだ。
だが、身体は大切な道具であり、大事に扱わないといけないし、他人の道具を傷つけることは赦されない。ことに、我々は、身体と魂を混同しているので、魂を傷つけるつもりで相手の身体を傷つけることもある。
だが、魂を傷つけることが出来るのは自分だけだ。身体は、自然が創造した驚異的な機械装置だ。自然はそれをいくらでも創れ、我々はそれを失っても、また与えられる。魂は不滅だからだ。そうとなれば、死を恐れることもない。我々が恐れなければならないのは、魂の死である。今回のシンクロニシティは私にこのように語っていた。







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悟りを開くと母親は消える

悟りを開くと、母親を他人と感じることになる。

キリスト教の聖母マリアにより、母親というもののイメージが高められていることがあると思う。しかし、キリスト教でも、プロテスラント系では、マリアを重要視しないと聞くし、そうでなくても、我々の母親は聖母でない。
マリアを崇拝するとしても、それは、マリアが普通の女、普通の母親と全く異なるからである。
しかも、新約聖書の中で、イエスはマリアを特別扱いしたことは全くない。それどころか、「あなたの母上とご兄弟が会いに来られています」と言われたイエスは、「神の教えを行う者が本当の私の母であり兄弟だ」と答えただけなのである。もちろん、十字架上で死ぬ時も、母の名を呼ぶことはなかった。

精神分析学者の岸田秀さんは、ある時期までは、自分の母親を素晴らしいものと思っていたようだ。母親が死んだ時には、母親への感謝を泣いて訴えさえした。しかし、自分の精神が異常であることに気付いていた岸田さんは、フロイトを独学し、深く追求するうちに母親の正体を見破り、ある程度、精神の修復に成功する。そして、自分の母親が特別なのではなく、全ての母親が悪いと説く。
興味深いので、岸田さんが母親の影響で持つことになった精神異常を、思いつくままに上げてみる。
まず、歩き始めると、よほどの決意を起こさないと、引き返すことが出来ず、そのまま歩き続ける。これは、母親が全て自分の意志で岸田さんを動かそうとし、岸田さんが自分の意志で何かをすることを禁じた母親の影響だろう。
また、岸田さんは子供の頃から、女の子を見ると、彼女たちは本当は男なのではないかと思えてならなかった。これは、一見女らしく優しい女の子が、実は男に象徴される支配の欲望を隠しているという母親の実態を、女の子達に投影していたのだと思う。
そして、戦争で戦死した兵士の絵やそれを示すような写真を見ると、異常なまでに感情移入した。それらの若い兵士達は、無理矢理の死により、やりたいこともやれずに死んだのだが、それは、母親が岸田さんを自分の意のままにし、本当にやりたいことができないという自分の運命を重ねたのに違いない。
岸田さんの母親は、特別に金持ちで強欲だったので、その悪影響は特に大きかったのだが、母親とはそういうものであると、岸田さんは断言する。

我々にとって、最も関係の深い人間は母親である。
それは、母親の顔を知らないという人ですら同じであるばかりか、むしろ、そんな人の方が、心の中で母親の存在が大きいものである。
しかし、母親との関係を断ち切り、宇宙そのものとの関係性を確立することが悟りなのだ。全ての人間は、それを目指している。

悟りを開くと、母親は特別ではなく、世間でいう母親への情愛は消える。
しかし、同時に、母親への恨み、憎しみも消えるのだ。無意識な場合も含め、母親を憎む者のなんと多いことか!
心身医学の父と言われ、フロイトにエスの概念を与えたドイツ人医師ゲオルク・グロデックは、母親を憎む娘は子供を作らないと言う。そして、実際は母親を憎んでいない者はおらず、妊婦の行動を観察すると、子供を殺したいという意志がいくらかでも見られるものであるらしい。例えば、妊娠すると、無意識に身体をあちこちにぶつけるようになったり、歯が痛くなることが多いのは、子供をかみ殺したいという衝動らしい。
しかし、出産の際には、自分を聖母マリアのイメージに重ねて恍惚となるらしいが、それは全く幻想の偽物のマリアのイメージであろう。

悟りを開くと、母親は全くの他人と変わらなくなる。しかし、同時に、母親への恨み、憎しみも感じなくなる。
そして、おかしなことに、悟りを開いた者にとって、他人というものは存在しない。彼は宇宙そのものだ。万物を等しく、真の意味で愛する。
悟りを開くと、母親との関係はむしろ良くなる。普通の人は、悟りを開くまでは、本当は母親を憎んでいるのだから。ただし、繰り返すが、悟りを開いた者にとって、母親は特別な情愛の対象ではない。たまたま縁のあった人間として、合理的な範囲で親しいのであり、親しくすることに不都合があれば、冷静に関わりを避けるのである。

このテーマに関する興味深い2つの物語を思い出す。
1つは、優しかった父親が、実は自分を全く愛していないことを知った11歳の娘は、それを冷静に受け止めるというもの。本当は、彼女は心の奥では気付いていたのだろうし、父親の場合は、さほどではない。
しかし、もう1つのお話では、虐待を受けながらも、かつては優しかった母親の思い出を胸に、母親を慕い懸命に尽くす9歳の娘は、母親が最初から自分を嫌っていたことを知り、崩れ落ちる。発狂してもおかしくない場面だった。







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創造物に対する権利について

インターネット上での違法な配信により、著作権者やその正当な関係者の利益が損なわれることが多くなっているようです。

昔、テレビ放送を録画できるビデオ装置をソニーが開発し、販売した時、放送側から著作権の侵害として訴訟が起こされ、長く激しい裁判の末、録画行為そのものは違法でないということになりました。現在ではテレビ放送の録画の合法性を疑う者はいません。また、録画したメディア(テープ、DVD等)の貸し借り、譲渡に抵抗を感じる人もいません。
音楽コンテンツのコピーも「個人使用に限り」と容認されていましたが、貸し借り、譲渡が当たり前に行われてきたのが実際でしょう。しかし、音楽製品のデジタル化により、あまりにも複製が出回るようになり、CDにコピーガードをかけるなどが行われましたが、実質、ほとんど意味がありませんでした。
そして、現在は、インターネット上で、音楽を始め多くのコンテンツが簡単に配信できるようになり、著作権者の利益は激減していると言われます。
ただ、現実的に言って、版権者が全ての利益を独占できる状態になるということはもはやあり得ないと思います。

ところで、ウイニーという、ネット上でコンテンツの配信を行うソフトウェアは、非常に優れたものでありながら、誰でも無料で入手して使用でき、開発者は何らの利益も得ていません。
他にも、多くのコンテンツ配信および、それに関連した(例えばメディア変換)ソフトウェアの多くが、製品として十分に通用するほどの品質を持つものでありながら、誰でも無料で使えます。
もちろん、これらのソフトウェアの多くは個人での開発であり、多数のスタッフにより制作される音楽や映像作品と一緒に出来ないかもしれませんが、何の見返りも求めず、誠実に開発、改良、さらにはサポートまで行っている場合もよくあります。
そもそも、インターネットの仕組み自体が、その大半は、利益を放棄した優秀な人々の献身の元に生み出されたものです。
コンピュータの世界は、昔から、優れたものを無償、あるいは、実質的に無償で提供することで発展してきました。日本では著作権の放棄は出来ないようですが、アメリカでは、パブリック・ドメインという、一切の権利を放棄したソフトウェアが沢山あり、その中には、高額な同種製品に優るとも劣らないものも少なくありません。パソコンが現在のように普及したのは、マイクロソフト社の共同設立者であるビル・ゲイツとポール・アレンが開発したパソコン用のBASIC言語の存在が非常に大きいのですが、BASIC言語そのものは、ジョン・ケメニー、トーマス・カーツの2人の数学者が、文科系大学生のプログラミング教育用に開発したものです。彼らは、それ(BASIC言語)をパブリック・ドメインとして無償公開し、それを元にゲイツとアレンが8ビットCPU(8080)用にアセンブリ語で開発したのが、パソコン用BASIC言語の始まりでした。後に、ゲイツに、あなたのソフトウェアに関する貢献はと聞くと、ゲイツは「8080BASICをあげるしかない」と答えています。

制作者の権利を尊重しなければならないのは当然ですが、全ての利益を独占できるのかとなると、個人的には疑問を感じます。
まず、あまりに強く権利を主張する姿に直感的な抵抗を感じるという、極めて個人的で曖昧なことを言うと怒られるかもしれませんが、多くの人がやはりそうかもしれません。特に、私のようなソフトウェア開発者は、上にあげたようなパブリック・ドメインやフリー・ソフトウェアのことをよく知っていますので、なおさらな訳です。ソフトウェア開発は、科学とも、技術あるいは職人芸とも、芸術とも言われます。その優れた作品の多くのものが無償で誰にでも提供されていますが、それは単に作者の善意からであることが少なくありません。
芸術というなら、ゴッホがその典型ですが、彼は作品から全く利益を得ていません(弟のテオの献身的な援助を受けてはいました)。極めて多くの優れた芸術家もそれに近いですが、芸術というものは、利益を求めない精神がなければ、真に優れたものは生まれないのではないかと思います。もちろん、ピカソやウォーホールのようなお金持ちの芸術家もいるのですが、少なくとも、利益のために作品を作った訳ではないと私は思っています。
また、アンデルセンの時代は、著作権なんてものはなく、出版社に作品を売った時に得るお金が全てでした。アンデルセンは幸いにも国家から年金を得ることが出来ましたが、豊かな訳ではありませんでした。
しかし、アンデルセンの創作意欲は死ぬまで衰えず、素晴らしい作品を生み出し続けました。
このように、本物の芸術家であれば、利益にならないと創作意欲がなくなるということはないはずですし、利益を最大の目的として生み出したものあるなら、私は全く欲しくはありません。

発明、発見、創作が、全て作者の力で行われたと言えるでしょうか?
そこには、シンクロニシティーやセレンディピティーといった、幸運な偶然としか思えない出来事の助けがあったり、天啓ともいえるような閃き、直観が重要と思いますが、それらが、本人の普段の努力の賜物であることは認めながらも、それらを全部ひっくるめて全ての権利を主張するのは、ちょっと神をも恐れないことになりはしないかと思います。

単に私の予想ですが、遠い未来においては、もし人類が存続しているなら、「私のもの」という概念はなくなっていると思います。
そして、真に素晴らしい芸術作品、テクノロジ、工芸作品等が驚くほど自由に豊かに楽しく生み出されるようになるでしょう。もし、他の惑星に、我々をはるかに超える精神性を持つ生命がいるなら、既にそれが実現されているだろうと思います。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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