ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

我々は、自分の異常な性欲や食欲に気付いていない

日本人の食欲、性欲は異常なまでに大きくなっている。
その原因は、我々の食欲や性欲を煽ることで儲けるビジネスのためだが、それは、もうとうに人の道を外れてしまっている。そして、それはさらにひどくなるばかりである。
規制は全く逆効果であることは明らかである。アメリカでは禁酒法でかえって闇酒、闇バーが蔓延り、わが国でも、明治政府が、男女の健康的な庶民の営みを規制すると、風俗営業という陰湿なものが取って代わり、不幸な少女や女性がおびただしい数になると同時に、裏社会に資金が流れた。そして、近年では、淫行条例で援助交際が急激に増えたが、それら全ての悲惨な失敗が、まるで教訓になっていないのである。

最近、性欲があまりないという若い男性を異常視することがあるようだが、そんな男性が正常なのである。普通と思われている男性が異常性欲者なのである。
また、現在の世間で、非常に少食で珍しい人のように言われる人が実は正常で、普通の食欲と思われる者は明らかに食べ過ぎだ。ましてや、食欲旺盛とされる者なら、おそらく異常なほど食べているのである。

クモが好きな人はあまりいないかもしれないが、これを極端に嫌う人がいると思う。
この何の害もない小さな生き物を、それほどに恐れ嫌悪するのは、自然な本能ではなく、原因があるのだ。例えば、身近にいた大人がクモをひどく恐がるのを、小さい時から見ていた等である。
我々の性欲や食欲も、極端なクモ嫌いの人のクモに対する反応と似たようなものである。つまり、作られた異常性だ。
実は私が、元々がクモがひどく嫌いで、いかに小さなものでも、クモを見ると激しい動悸が起こるほど動揺し、叫び声を上げ、狂ったような状態になったものだった。だが、現在は、いかに大きなクモを見ても、「まだこんなのが見れるのだな」と感激するほどである。実際、大きなクモを見なくなった。
これは、私が自分の心をよく観察し、心の正体を見破り、心に勝手な反応をさせないようになったからである。
高所恐怖症も同じだ。高い所が恐いというのは正常な本能であるが、恐怖症とまでなると、それにはやはり何らかの原因があるのだ。

上にも述べた通り、我々の性欲、食欲の過剰さは、それで商売をする者達が、長年に渡り、人々の性欲や食欲を煽って増大させ続けたためである。
何かの本で、男性教師が好みのタイプの女子生徒に性欲を感じるのは自然だと書かれていたものがあった。それを書いたのは女性教師だった。この本の場合は女子高校生についての場合であり、10代後半の肉体的には立派な大人であることから、著者の女性教師も心の広さを示したつもりかもしれないが、この著者も含め、それは全く異常である。教師が生徒にそのような関心を持つはずがない。
教師と女子高生の恋愛というなら全く問題ない。しかし、単なる性的興味やセクハラとなるとあり得ない話である。ましてや、今は、中学校や小学校でもセクハラがもう日常のことになっているようである。恋愛というなら、大人の男性と女子中学生なら正常と言える。しかし、我々は、恋愛と性欲の区別が付かないほどになっているのだ。それは、異常に増大させられた性欲のためである。
CLAMPの人気漫画「カードキャプターさくら」で、小学4年生の少女、利佳に、男性教師が真面目に婚約指輪を渡す場面がある。利佳はとても喜ぶ。彼女は、憧れ以上に、この男性教師を愛していたし、教師の方もそうだった。主人公さくらの母親は、高校1年生の時、赴任してきた25歳の教師だった父親とすぐに結ばれたのだった。だが、これらも、本来、何もおかしなところはない。ただ、利佳が特別な精神性を持った少女であったということを除いて。

男性の性欲の減少のせいで、結婚しなくなり、少子化が進んでいるなどという話が一部にあるが、全く馬鹿な話である。結婚制度やそれに関わる法律に問題があるのであり、むしろ、異常性欲が少子化の原因になっているように思える。
クモ恐怖症や先端恐怖症、高所恐怖症や閉所恐怖症を、精神療法などと全く異なる正しい方法で解消するように(医学的な精神療法に効果があるとは思えない)、異常性欲、異常食欲を克服することで我々は自己の支配力を得、幸福への道を進める。
そのためには、まず、食の慎みを持ちたいものである。食を慎むことに成功すれば、後はそんなに難しいことではない。
尚、高所恐怖症や、クモ恐怖症などになる精神の不思議に関しては、筒井康隆さんの「時をかける少女」(角川文庫版)に同時収録された、「悪夢の真相」に興味深く描かれている。







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超演技力

お金がないなら、お金があるフリをすればいいし、働いていないなら、働いているフリをすればいい。
学校や職場が面白くなければ、楽しい学校や職場に行っているフリをすればいいし、彼女がいないなら、ものすごい美少女のGFがいるフリをすればいい。

だがみんな、悲しいまでに演技が下手なのだ。
狂人のフリが出来るだろうか?
吉田兼好は、『徒然草』で、「狂人のように道を走り回れば狂人だし、悪人の真似して人を殺せば、そりゃ悪人だよ」と言ってるが、金持ちの真似して高級外車でも注文したら、あっという間に超貧乏だ(笑)。
※『徒然草』の該当部分の原文は「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。」
それよりも、『閑吟集』にある通り、「一期は夢よ(この世は夢だ) ただ狂え」である。
つまり、「この世は所詮が夢」という気楽さ、達観というか悟りが無いから演技が下手なのだ。

立派に働いてリア充(リアルライフが充実している状態)してる夢の中で、将来の不安など持たないものだ。
金持ちになった夢の中で、もっと金が欲しいなんて思ったりしない。
最高の彼女がいたら、そこらを歩いてる女の子になんか興味はないし、アダルトゲームなんぞに用はないさ。

政木和三さんと話してたら、本当に夢の中のことのように思うことがあった。
政木和三さんが、「私はね、お金なんかちっとも欲しくないんです」と楽しそうに言うのを聞いたことがある。しかし、どんどん入ってきて困るのだそうだ。「なんでサラリーマンが税金を1億も収めないといけないんですか」と嘆く演技は抜群だった。そして、奥さんに聞こえないように、「女なんかいらないですよ。でも、私に身を任せる女が常時百人はいるんですよ」と苦笑しながらコソコソ話してたものだ(堂々と話すことじゃあない)。
アントニオ猪木さんは政木さんと交流があったそうだが、あの人の壮大さも、まさに夢のようだ。猪木さんの事務所に泥棒が入り、250万円の現金が盗まれた時、猪木さんは激怒してこう言った。「なんで俺が居る時に来ないのだ。俺がいたら500万やる。猪木の事務所はたった250万しか無かったって思われたらカッコ悪いじゃないか」。まさにスケールが違う。

気楽で楽しい波動に包まれた演技は瞬間で現実を創造してしまうものだ。だから、この世は、夢であり、芝居のようなものだ。
「よき戦いとは、少人数で真剣に演じる劇に似ています」
「燃えよドラゴン」でのリーのセリフだ。真剣とは堅苦しいことではない。誠実だが、緊張せず、自由で優雅なものである。
リーは、こう続けた。
「私は緊張せずに戦いに備えます。敵?敵はいません。私がいないのですから」
尚、下にご紹介する、ひろさちやさんの「空海入門」は素晴らしい演技指導書だ。仏陀の真似をして仏陀になったという視点での空海のお話であるのだから。







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ホツマツタヱについて

日本の民族的古典といえば、古事記と日本書紀であるが、これよりも古く、日本の古代文字である神代文字(かみよもじ)で書かれたホツマツタヱというものがある。
ホツマツタヱは、古事記や日本書紀と類似してはいるが、内容は大きく異なる。
ところが、ホツマツタヱは江戸時代あたりに書かれた偽書であるという説も有力であるらしい。
私は、まさかそんなことはあるまいとは思うが、実を言うと、そんなことはどうでも良いと思っている。
仮に偽書であったとしても、これほどの優れた内容の大書を書くのは恐るべき才能だし、それを書いた者は、間違いなく天啓を得て書いたのだと思っている。
絵画においても、有名な画家の絵が模倣されることはよくあったが、その全てが価値の無い偽物という訳ではなく、オリジナルの作者の手法をヒントにした独自の絵画と見なされることもよくある。
また、絵画のことだけではないが、模倣品が本物を上回ることもある。
私は、もし偽書だとしても、ホツマツタヱは、古事記、日本書紀を超えるものだと思う。ただし、そうは言っても、古事記や日本書紀に価値が無いと言うつもりも毛頭無い。もとより、古事記も日本書紀も、正確な歴史書ではなく、重要なことを神話の形で象徴的に表現したのであり、それは、ギリシャ神話や旧約聖書と同じである。
ギリシャ神話は伝承の寄せ集めなのだが、神々の誕生と世界の創世については、ヘシオドスの叙事詩「神統記」が、その後の、トロイア戦争を描いたホメーロスの叙事詩「イーリアス」、その続編「オデュッセイア」が最も正統なものと考えて良いと思う。また、神々について、ホメーロス風の詩で詠った「ホメーロス風賛歌」というものもあるが、これらは無名の詩人達の作品と言われ、著者について、全く分かっていない。
それなら、「ホメーロス風賛歌」は偽書ということになるかもしれないが、その素晴らしさから世界的な価値が認められており、これを非常に重要視している研究者も多い。
それでいえば、やはりホツマツタエは、偽書というか、後の世の創作であるとしても、やはり、その内容により、優れたものと見なすべきと思う。

私は一昨年、神道の祝詞である大祓詞(おおはらえのことば)を5千回程唱えたことがある。1回唱えるのに少なくとも3分以上はかかり、休日は1日百回以上唱えたが、そのためには、6~7時間かかった。
神道家の葉室頼昭さんの著書の指示の通り、意味は全く考えず、ただ、言葉として唱えた。
政木和三さんも、仏教のお経は意味が大切だが、祝詞には意味は無く、唱えることが大切だと言っておられた。
5千回唱えても、私は、正確にソラで憶えることは出来なかった(憶えようという気もなかったが)。
ところが、音としいては、心身に沁み込んでいたのではないかと思う。そして、古事記を読んだ時より、ホツマツタヱを読んだ時の方が、我が内なる大祓詞とよく共鳴するのである。その感覚で、ああ、ホツマツタヱは本物であると感じたのである。

また、私の好きな女神に稚日女尊(わかひるめのみこと)という、瑞々しい日の女神という意味の神がいる。
稚日女尊は、古事記にはその名が現れず、日本書紀にわずかに登場する。
稚日女尊を主神として祭る神戸生田神社では、稚日女尊は、天照大神の妹神であるとしている。
ホツマツタヱでは、天照大神は男神で、アマテルである。そして、稚日女尊は、イザナキ、イザナミの長女で、アマテルの姉であり、生まれた時に、ヒルコ(日霊子)と名付けられた。古事記では、ヒルコ(水蛭子)は、奇形の未熟児として生まれたので、舟に乗せて捨てたとされる。ホツマツタヱでは、ヒルコ(日霊子)が生まれた時、イザナキ42歳、イザナミ33歳の厄年であったので、決まりに従って、舟に乗せていったん捨て、それをすぐにカナサキが約束通り拾い、連れ帰って育てたのだ。
ヒルコは成長してワカヒメ(和歌姫)となり、歌の達人となって、歌の力で優れた働きをした。
ホツマツタヱを読むと、やはりワカヒメは非常に重要な存在であり、彼女についての記述がほとんど無い古事記や日本書紀はやや不足と思われ、よりもホツマツタヱは本物に違いないと感じるのである。
ホツマツタヱは、我々日本人が自分を知り、その意識の奥深くに住む神を呼び覚ますきっかけとなるに違いない。







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満腹するまで食べて自分と世界を不幸にするな

水野南北は、江戸時代の10代将軍家治(いえはる)から11代の家斉(いえなり)までの時代の観相家だ。観相とは、顔や身体の相で運命を鑑定する占術である。
南北の観相の実力は凄く、全国から鑑定依頼者が押し寄せ、南北は大富豪になった。さらには皇室に出入りするまでになり、遂には天皇に貴族に叙せられることになる。南北は、若い頃は牢屋敷に入れられるようなチンピラだったことを思えば信じられないことである。弟子は直弟子以外を含め千人を超えていたと言われる。
ところが、それほどの観相の達人でありながら、南北は鑑定が決して百発百中でないことに悩んでいた。
そこで、断食と水行の荒行で禊していたところ、伊勢神宮の外宮で天啓を受け、「食が全て」と悟る。南北は、この伊勢外宮に祭られたトヨウケ神からの啓示と確信する。
トヨウケは、古事記ではイザナミの尿から生まれたワクムスビの娘とされる。しかし、古事記や日本書紀以前の書とも言われるホツマツタヱでは、トヨウケはイザナキ、イザナミの親で、アマテル(天照大神)の祖父に当たり、業績からも、アマテルと並ぶほどの偉大な神人とされている。
南北は以降、鑑定の際に、被鑑定者の食生活について尋ねることとした。ポイントは食が多いか少ないか、美食か粗食かである。すると、南北の鑑定は、万に1つの外れも無くなった。
やがて、南北は、観相そのものについて語らなくなる。それを修得するのに長年、苦労をして何万もの鑑定で磨き上げてきたにも関わらずである。つまり、鑑定するまでもなく、食を慎んでいれば健康で幸運、美食で飽食であれば健康、経済、家族、社会全てにおいて悲運、衰運であると分かったからである。他のことは特に問わず、たとえ遊郭遊びが好きな男であっても、遊びながら食を慎めと言ったとも言われる。南北自身、女好きは生涯治らず、妻は8人いたと言われる。
南北は、大長者になっても、自ら厳しく食を節し、米は決して食べず、麦と野菜と汁の質素な食事をした。酒は大好きであったが、1日1合(約180ml)と厳しく定めた。先述通り、妻は8人おり、いずれも悪妻であったようだが、南北は妾ではなく全て正妻として大事にした。それも、7つの蔵を持つ富豪南北ならではだろう。そして、親切な人達に囲まれ、健康なまま、当時としては異例の75年の長寿を全うした。

南北の時代、江戸は豊かな町で、美食、飽食する者も多かったと思われる。肉食も珍しくはなかった。この点でも、南北の教えは現代の我々にも実に参考になると思う。
美食、飽食であれば、一時は成功して奢る者も、必ず、健康、家庭、経済、友人全てで悲惨なことになるのは、まず例外のないことは十分に実証されていると思う。
しかし、何事も、矛盾があるなら、それを解消することができなければならない。
例えば、今でも豊かな国は実はほんの一部で、世界の大半は貧困であり、多くの餓死者がいる。食を慎むどころか、飢餓に苦しむ人達は全く幸運ではない。南北の教えには欠点があるのだろうか?
だが、食の慎みとは自らの意思で行うものだ。食べ物が3つあれば、1つは食べず、貧しい者に施すか、そうでなくても、心の中で神に捧げることが食の慎みである。
エマニュエル・スウェーデエンボルグは、英国にいた時、夕食を少食食べ過ぎたと思ったことがあった。その時、不思議な現象が起こった中で、1人の霊人が現れ、スウェーデンボルグに「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」と言ったという。スウェーデンボルグは、それを肝に銘じ、生涯忘れることはなかった。ゲーテ、カント、ヘレン・ケラー、エマーソン、鈴木大拙らに崇敬されたスウェーデンボルグにおいてさえ、食の慎みとは強く心に留めるべきものであるのだ。
我々が食を節し、それを貧しい国に回すなら、食料は十分なはずと思う。食の慎みは回りまわって世界を幸福にする。食の慎みこそ最大の徳と言われる所以はそこにあると思う。







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流れ者の一匹狼への憧れ

東日本大震災の後、結婚する人が増えているという。だが、私は信じていない。多分、政府の情報操作か、そうでなければたまたまだろう。
そりゃ、震災がきっかけで結婚しようと思った人もいるに違いない。そして、何人かのそんな人を見つけてテレビカメラを向け、あたかもそんな風潮があるように見せかけるわけだ。
よくあるのが、スポーツの試合を見た被災者が「勇気をもらいました」とコメントするものばかりを選んでテレビにでも流せば、見ている人々は、それが被災者の総意だと思ってしまうのだ。被災者はスポーツどころではないはずだ。
日本人が付和雷同しやすいのはご存知と思う。日本は、国民の思想統制のしやすい国である。

ところで、結婚に何か意味があるだろうか?
実は何もない。
だが、国家には大きな意味がある。
結婚すれば、一つ所に住居を決め、家を建てる場合も多い。もちろん、国は、国民が家を持つことを良いことであるように思わせたがっている。家と家族を抱えてしまえば、国の思惑通りに生きるしかなくなる。いかに政府に文句を言っているように見えても、実際は、国の敷いたレールから一歩も外れていないのだ。

結婚というものは、世間に平伏し、本当の人間、本当の自分であることを止めることだ。
だが、多くの人はそうは思っていない。
それは、我々が世間から叩き込まれた迷信のためだ。
その迷信とは、「結婚してこそ立派な一人前の人間」「結婚していないのは恥ずかしいことだ」「結婚しないのは、何か問題があるのだ」「結婚しなければ人生が分からない」などである。結婚している人のどれだけが、「立派で」「恥ずかしくない」「問題のない」「人生が分かった」人間かを考えれば、そんなのが全くの嘘っぱちであることが簡単に分かる。それでも、我々は騙されるのだ。

世間の教義や信念を自分の考えだと思って何も考えない人間は国の奴隷になるしかない。
逆に、国が嫌うのは、住居を定めない1人者である。
面倒な転居手続をきっちりしないと不都合が多いのは、国民を一箇所に定住させるためで、そうさせることが国にとって都合が良いからだ。
さらに、国は、マスコミを使い、住居不定者のイメージを徹底的に貶めている。犯罪者の紹介では「無職」と共に「住所不定」を強調し、住所が定まらない者がいかに悪いものかをイメージ付けるのである。
しかし、住所が定まっていないことの何が問題なのだろうと本当に考えれば、実際は何の問題もないことが分かる。ただ、わが国の法律の中では、生活に不都合が多いというだけのことであり、それは先ほども述べた通り、国が意図的にやっていることだ。

アメリカの西部劇では、流れ者の一匹狼は格好良い。しかし、そのためには強くなくてはならず、凡人には難しい。だが、特に若い男であれば、それに憧れるのは自然で健康的なことだ。
「南から来た用心棒(原題:アリゾナ・コルト)」では、「コルト1丁腰に下げ、男荒野の1人旅」と歌う、身震いせずにいられない素晴らしい主題歌(歌手も美声である)と、主演のジュリアーノ・ジェンマのしびれるような格好良さに、男なら憧れずにいられるだろうか?
いや、そもそも、ジュンマ演じる流れ者の凄腕ガンマン、アリゾナ・コルトは、なぜ旅をするのだろうか?この作品の中で。アリゾナ・コルトは、町の英雄となり、素晴らしい美女にも愛され、町に留まって幸福に暮らせたはずだ。しかし、彼は、全てを捨て、敢えて苦難が待ち受ける旅に出るのである。それは、彼が世間に平伏し、国の奴隷になりたくないからではないのか?苦難があっても、あるいは、寂しくても、本当の自分、本当の人間でいる方が、奴隷の人生より素晴らしいことを知っているからではないか?
映画を見ている人は、それを思って感動するのだ。

「エル・カザド」というアニメでは、ナディーとエリスという2人の少女は、苦難の旅の末、子供がいない豊かで優しい老夫婦に巡り合った。老夫婦は、2人に温かい愛情を示し、ずっと自分達の家にいるよう強く願う。そして、少女達も、この老夫婦が好きだし、その家の居心地も良かった。辛いことばかりの人生を歩んできた2人の少女達には、初めて安らぎの場所だった。
しかし、2人は旅立つのだ。視聴者は誰もおかしいとは思わない。老夫婦も、悲しくはあっても、納得してすっきりしただろう。むしろ、彼女達を無理に止めなくて良かったと思っているだろう。
言い古されたことだが、誰でも、カゴの中の鳥でいるより、自由に空を飛びたいのだ。
荘子も言ったのだ。甲羅を祭られる神亀になるより、泥の中で尻尾をひきずる亀でいたいと。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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