ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

生まれ変わりはあるのか

人は死んでも生まれ変わるという輪廻転生を信じている人も、そうでない人もいるだろう。
意外と言って良いかどうかは分からないが、エマニュエル・スウェーデンボルグは輪廻転生を完全に否定していた。人が地上で身体を持って生きるのは一度きりで、死んだ後は永遠に霊界で生きると言う。
一方、霊界の方を否定し、人は死ねばすぐに転生すると言ったのがジョージ・アダムスキーだ。
だが、突き詰めて考えると、2人は案外に同じことを教えているようにも思えるのだ。
スウェーデンボルグもアダムスキーも一般にはひどく誤解されているところがあり、特にアダムスキーは「世紀のペテン師」「大変人」と言われるほどである。
だが、エマーソンは「偉大であることは誤解されること」と言ったが、誤解されないなら偉大でない。誤解されない思想は、単に世間と迎合したものに過ぎない。私なら、むしろ世間が褒め称えるものを警戒する。

ところで、誰かが、昔の歴史的人物の生まれ変わりであると主張した場合、輪廻転生を認めないスウェーデンボルグはもちろんだが、アダムスキーもそれはほとんど否定する。
また、ダライ・ラマがそうなのであるが、前世の記憶を持つ人達のそれなりの信憑性のある研究結果などに関しても、2人共、それは転生のためであるとは認めないと思う。

過去の人の記憶を持っていると感じるのは、スウェーデンボルグは、それは霊が人の中に流入することがあるためであるとする。
アダムスキーは、出来事や思念を永久に保存するものがあり、保存された過去の人の思念に感応する時に、それが前世の記憶のためであると勘違いされることがあると言う。アダムスキーは輪廻転生は肯定するが、前世の記憶はむしろ他人のことのように感じると言う。
そして、スウェーデンボルグの言う霊の流入も、アダムスキーの言う過去の記録への感応も、いずれの場合も、それは極めて頻繁に起こることであり、我々はそれに対して警戒をしなくてはならないものであるようだ。
トラインは、「善なる霊に対して心を開き、悪の霊に対し心を閉ざせ」と言う。
目には見えないが、空間の中に、おびただしい数の想念が存在し、我々の脳はそれに感応しているのかもしれない。それは1秒間に数千という数のものかもしれないが、我々はその大半を無視し、好みの想念や自分の性向に適合する想念を受け入れるのではないかと思う。ただし、極めて強かったり、継続的な想念の影響は受けるものであり、それが大衆を操作することもあるのかもしれない。
印象やフィーリングに対して、我々はもっと注意しなくてはならない。そして、トラインが言ったように、その良いもののみを受け入れなければならない。そのためには、個人の欲望を捨て、悪しき想念に感応して心に進入されることを赦さないようにしなければならない。低い想念の誘惑を我々は常に受けるが、そんな時、「誘惑に勝てるかどうかが人格を決める」という古い格言を思い出さなくてはならない。
我々の周りには、美食、飽食、異常性欲、虚栄をそそのかす想念に満ち満ちているが、既にそれに負け、取り込まれてしまった者達が、目に見える形でさらに我々を煽っているのである。もはや世界は終りに近付いているのであるが、そういった低レベルの誘惑に打ち勝って人格を示し、この流刑地から脱出したいものであると思う。







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囚人の顔

私は、地球は流刑地(流刑惑星)で、地球人類は皆囚人であると考えています。
それは、人々の行動や言葉にはっきりと現れていますし、他人の心は一応は分からないですが、自分の心を観察してみても、やはり我々が囚人に相応しい人間であることが理解できます。
それともう1つ。我々の顔の相とでもいうものに、囚人らしさが恐ろしいまでにはっきりと感じることが出来るのではないかと思います。強欲、不親切、傲慢、高慢、無思慮、あるいは、狡猾や卑屈。歳を取るほど顕著になる場合が多いのですが、ごく幼い子供の顔にもそれがかなり見られ、天使のような子供がそんなに多い訳ではないと感じます。
日本で特に人気があると言われる映画「小さな恋のメロディ」のアラン・パーカーの原作小説(パーカーは映画の脚本も書いた)にも、主人公の11歳の少年が、大人達の表情を観察してその異様さを指摘する場面があります。映画でも、そのあたりを映像でよく表現していたように思います。
多分、当たっているのではないかと思いますが、外国のことはいざ知らず、日本人の顔の相は、ますます悪くなってくるように思います。それは、経済至上主義、物質崇拝主義がもたらす歯止めのない欲望のためで、特に、食欲、性欲、差別欲(優越感)が強く煽られて人々がそれに負けて支配されているためであるに違いありません。
歴史的なプロテニスプレーヤーであったアメリカのジミー・コナーズは、一頃、放埓な生活に耽っていましたが、ある日、鏡で自分を見て、愕然としたそうです。
「まるでパンクしたタイヤだ。太っていて、顔も醜い」
彼は節制を始め、金や名誉のためにプレイすることをやめ、結果、極めて長くトップで活躍しました。
個人的に感じることかもしれませんが、人気アイドルの顔にも欲望に満ちた厭らしさばかり感じてしまいます。
周囲の人々の顔、テレビで見るスター達の顔、そして、鏡に映った自分の顔をよく観察すれば、悲惨な醜悪さを感じるはずです。それは囚人の顔です。
もし、囚人の顔でない者がいたとしたら、他の星の人か天使かもしれません。稀にそういう人を見ることもあります。それは、単に美男、美女であるとかとは別のことです。
水野南北は、生涯をかけて極めた観相術(顔や身体の相で運命を鑑定する占術)により、顔や身体の相を見れば、生まれつきの運命はほぼ明らかであることを突き止め、牢屋敷に入れられるほどのゴロツキであったのが、天皇から貴族に叙せられるまでになりました。しかし、食の慎みは、観相を超えると断言します。観相的には最悪の相である自らが、当時では異例の75歳まで健康で幸福に生きました。彼は、「食が全て」と言います。また、食を慎む者は、顔の相も良くなるのではないかと思います。少食の人はどこか澄んだ顔をしているように感じます。
きっと、美食、飽食の欲望を筆頭に、あらゆる個人的欲望を捨てるごどに、囚人らしい顔でなくなり、やがては、地球という流刑地を離れるか、地球自体を流刑地で無くすこともできると思います。昔は監獄島と言われたアルカトラズ島が、今ではその美しさから有名な観光地として愛されるようにです。







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才能とは閃きである

江川卓さんといえば、ご存じない人も増えてきたかもしれないが、全盛期はおそらく、日本野球界でNo.1のピッチャーだった。
かなり以前、テレビで見たが、江川さんは、息子さんを野球選手にしたいかと聞かれ、「全く思わない」と答えた。
プロゴルフの石川遼選手が以前、弟や妹にプロゴルフ選手にはなって欲しくないと言っていたことがあったが、それは、過酷な世界であるからという理由で、苦労人の俳優などが、よくそのように言っていると思う。
しかし、江川さんの理由は違う。息子にはセンスがないと言うのだ。
センス(sense)とは、辞書によれば、「物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚」という意味だが、これは、訓練して身に付くようなしろものではなく、天性のものであり、それがなければ、いくら努力しようがどうにもならない。逆に、センスがあれば、過酷な世界だとか、そういったことは何の関係もない。それは、どんな職業だろうが違いはないと思う。

私は、コンピュータプログラマ(私は、システムエンジニアとプログラマを区別しない)をやってきたが、時に、「どんな人がプログラマに向いているか?」と聞かれることがある。以前は、「理系発想」「論理性」とか思っていたが、根本は、どんな職業も同じと思うが、「閃きがあるかどうか」だと考えるようになった。閃きとは、早い話が直観である。これも、センスと同じだと思う。
プログラマというのは、さして高い能力が必要な職業ではないと思うが、どうにも使い物にならない人は確かにいる。真面目とか、根性があるとかいうのは、あまり関係がない。そして、実際的には、指導や教育で良いプログラマになるということは無い。ビル・ゲイツは「純粋に知能指数の問題」と言うし、知り合いの国際的なITコンサルタントも、確信を込めて、「所詮、知能指数ですよ」と言っていたが、知能指数が高くても、閃きがなければ駄目だと思う。
つまり、どんな仕事をしていても、何か問題が発生した時に、考えることなく、直感的な衝動を感じ、それをやってみたら解決につながるといった感じでないと、成功はもちろん、一人前にすらならない。いや、おそらくは、大事なのは一人前になるかどうかであり、成功するかどうかは、運とか、職業能力とはまた別のビジネスセンスの問題であるはずだ。天才プログラマだって成功するとは限らない。
芸術家の場合は、このセンスの有る無しというのが際立つ世界であると思うが、どんな世界でもセンスが必要というのは絶対に同じと思う。異なるのは、芸術家は本物でないと職業として成り立つ可能性はないが、多くの職業では一生半人前でも食べていけるという違いであろう。いわゆるサラリーマンと言われるものである。芸術家は、センスがないと絶対に食べていけないし、食べていくには、加えて最低限のビジネスセンスがあるか、運良くパトロン(後ろ盾)を得なければならない。世俗的な面では、「俺は物好きでやってるんだ」というくらいの気楽さでないとやっていけない世界であろう。
伝統芸能の世界では、外部の者を受け入れず、世襲でのみ継承を行うものもあるが、幼い頃や、あるいは、母親の胎内にいる時から、その世界に馴染ませてセンスを育てるのだろうが、それでも、その世界でのセンスが無かったり、他の世界でのセンスを持っている者も、実際にはいるのだろう。見る人から見れば、「この○代目はセンスがない」と感じていることもあるはずだ。しかし、血筋という、遺伝的な才能は確率の高いもので、外部の者を採用するよりはずっと確実かもしれない。
世間にある英才教育は、子供が本来持っているセンスを潰すものが多いように思えてならない。なぜなら、それは、子供の才能を発見するものではなく、親のエゴで有りもしない才能やセンスの幻想に執着するものだからだ。
天皇というのは、最大のセンスが必要で、しかも、それが無ければ、国民は違和感を感じてしまう恐ろしいものかもしれない。武力で天下を取った者は権力者のセンスはあっても、権威者としてのセンスがあるかどうかは全く別のことである。日本では、ずっと、権力者が皇室を重んじてきたし、そうでない権力者は早々に滅んだ。ただし、皇室の権威に対し、時の権力が幻想でその姿を歪めたのも確かと思う。それは、恐るべき幻想となる。貴いものであっても、危ういものであるのかもしれない。







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誘惑に耐えることで人格が決まる

一昨日も書いたが、地球が流刑地で、我々は囚人のようなものだと考えると、全てが合理的に理解でき、そして、我々のなすべきことも分かり、私は大変な平安を覚えた。
ただ、我々は、罰として地球に送られたという訳でもない。そのあたりを説明しよう。
進化し、天国のような世界で暮らしていた我々であったが、その中に、どうしても、個人的欲望を捨てられない者達がいた。他の人より広い住居を望み、良い女や男を見れば情欲に駆られ、必要以上に美味しい食べ物を沢山欲しがるといった人達である。
とはいえ、そんな者達も悪人という訳ではなく、ちゃんと平和に暮らしていた。しかし、より高い進歩を目指す他の人々の深刻な妨げになるし、何より、自分達自身が後ろめたい思いを持っていた。
そこで、そういった我欲の強い者達は、別の星に移ることで、心苦しさをあまり感じることなく、ある程度は利己的に好きなことをやる自由を得、それによって必然的に味わう苦難を甘受することで学んでいくということに、全ての者が同意した。
我欲が強い連中とはいえ、現在の我々とは比較にならないほど進化していたし、科学を理解していたので、当時の原始的な地球に来てから、あっという間に立派な都市を建設した。しかし、彼らの個人的欲望に対する歯止めは、自分自身の自制心だけであり、しかも、以前いた星のように、近くに優れた手本となる人々がいない。彼らは、より豪華で広い住居を所有するようになり、男なら、好みのタイプの女性を奪い合い、女も同様であった。美食や酒といった肉体を喜ばせるものに耽るようにもなり、肥満したり、病気になる者も多くなった。
時が経つにつれ、争いは多くなっていった。最初は争いの規模が小さく、仲裁も容易であったが、やがてグループで争うことが多くなり、それぞれのグループは仲間を集めてより大きく強くなっていった。争いに高度なテクノロジが利用されるようになると、危険であるので、強制的な取り締まりも必要になり、強大な警察組織も必要になった。
そして、やがて、いくつかの致命的な出来事が重なり、それが大きな災厄を生み、ついに、恐るべき事態に発展し、彼らは滅びた。そして、生き残った人達は、具体的なテクノロジは失ったが、その原理を魔術的秘法として口伝した。現在の科学も、元々は魔術のようなものから発展している。そうして、何度も文明は復興し、そして、何度も滅びた。
その中で、彼らの元々いた星(複数)の仲間達は、決して彼らを見捨てたのではなく、彼らの自由意志を尊重しながらも、密かに支援を続けていた。それは、精神による伝達(テレパシー)のようなものであったり、時には、直接、地球にやってきて、手本を見せつつ道を説いた。釈迦やイエスも、そういった人達である。
そして、地球人類の中にも、元の星(複数)の住人のレベルに達すると、その天国のようなところに帰っていった。イエスの言う天国や、仏教の極楽浄土として例えられたところである。

「パピヨン」という、1973年制作のフランス・アメリカ合作の歴史的な映画がある。主演は、スティーブ・マックイーン、ダスティン・ホフマンで、原作小説は1000万部の大ベストセラーのようだ。
マクイーン演じる銀行強盗パピヨン、ホフマン演じる大詐欺師ドガら、重大犯罪者らは絶海の孤島にある刑務所に送られる。
それは、太古の昔の我々の姿を思い出させる。そして、この映画は、我々の歴史を比喩的に見事に描いている。単に出来事としてだけでなく、むしろ、精神的にだ。
だから、この映画は見た者に、本物の深い感銘を与える。
我々は、パピヨンとドガに分かれる。

この映画の中で、「誘惑に耐えられるかどうかで人格が決まる」というドガの言葉を、パピヨンが、その恐るべき精神力で示す。
高貴な人と、そうでない人の違いを示すこのことが、エマニュエル・スウェーデンボルグと土星人との対話の中に現れている。土星は進歩した星で、我々の中には、そこから来た者もいる。
土星人は、自分が真理に背く危険がある時、「パピヨン」でいう、誘惑に負けそうな時、手に小さなナイフが現れる。精神の力で出現させることが出来るのだ。
そして、真理に背くくらいなら、誘惑に屈するくらいなら、そのナイフで死を選ぶ。
ただし、本当に自殺するのではない。そういった気持ちをナイフに込めるのだ。ただ、これも昔の話である。今の土星人にはほとんど必要ない。日本人の、元々は、腹を切って誠意を示すための切腹は、この記憶から来ている。
私が所有するライナーロック方式(片手で操作できる)のナイフ。
私は、幼い頃からナイフが好きだったのだが、やはり土星にいた頃の記憶の影響だ。地球では、思念の力でナイフを出せない。
そして、何度も書いたが、私は子供の頃、何の手がかりも持たずに、満天の星から土星を見つけ、天体望遠鏡で観測したのである。それも、何の苦労もなく。理屈の上ではあり得ないことである。







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我々が願えば宇宙人も存在する

昔のSF小説では、太陽系の他の惑星にも生物が存在し、しかも、地球人類以上に進化した知的生命体が、我々をはるかに凌駕する文明を持っているというものがよくあった。少なくとも、金星と火星がそうであることが大いに期待され、それらの小説を読む人々は夢を膨らませた。
しかしその後、旧ソ連とアメリカの度重なる金星や火星への探査機による調査の結果、金星は超高温、超高圧で、高空は濃硫酸の雲と強風(地表ではそうではない)という過酷な環境であることが分かった。金星に比べると火星は相当に穏やかな環境ではあるが、地球の生物が生存できるような環境ではなく、微生物も含め、有機生命体が棲息した証拠もいまのところ無いとされている。

これらは、我々にとって外部の情報でしかないことから、それらは何らかの意図で偽装されたものであるといった情報の捏造説や、政府による巨大な陰謀説などいろいろあり面白いが、おかしな意図のあるものでなくても、権威ある定説が覆された事例は実際に数え切れず、そういった疑いの姿勢もまた必要ではあろう。

物理学で、人間原理という、宇宙がこのような姿であるのは、人間の生存のためであるという1つの仮説があり、それは、我々の通常の思想にとっては違和感があるが、それなりの根拠はあるようだ。
簡単に言えば、世界は、人間のために奇跡的なまでに都合の良いものになっており、世界があるから人間がいるのではなく、人間がいるから世界があると考えるようなものである。
谷川流さんの人気小説「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズでは、涼宮ハルヒという少女がそう願ったという理由だけで、宇宙人や未来人、超能力者が存在するのかもしれないという、人間原理をやや恣意的に(気ままに)発展させたものがある。
それで言えば、かつて、我々人類が火星や金星を、知的生命体の存在する惑星と考えていた時には、そこには本当にそうったものが存在していたなどという楽しい考え方が出来る。
そう言われると、論理的ではなく、妙にしっくりとした感じを受ける人がいるのではないかと思うし、そんな体験を持っているような人も案外に多いと思う。前にも書いたが、私は人生で初めて「アリシア」という名前を聞き、その名前が気になってずっと心の中で「アリシア」と呟いていたら、翌日、普段は付けない時間になにげなくテレビを付けたら、いきなり「アリシア」という言葉が聞こえたといったようなものである。実は、私には普通のことだ。

アメリカ最大の哲人と言われる、ラルフ・ウォルドー・エマーソンが、人類史上最大の偉人5人の一人に選び、ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーその他、数多くの偉人に多大な影響を与えた科学者、政治家、思想家、哲学者であったエマニュエル・スウェーデンボルグは、様々な惑星の見聞録を1758年に著している。その中には、火星、金星、さらに、土星その他の惑星の様子やその住人について描かれている。もっとも、彼の場合、物質的というよりは霊的な世界のこととも思われる。
一方、ジョージ・アダムスキーは、太陽系の惑星は12個とし、その全てに知的生命体が存在し、特に、金星と土星には実際に訪問したとして見聞録を出している。アダムスキー以後、数多くの宇宙人との遭遇や、彼らの宇宙船に搭乗したという話が出たが、個人的には、それらはアダムスキーのものの模倣と思える。コンピュータの専門家である私にとって、アダムスキーが宇宙人の宇宙船の中で見たとされるコンピュータは、現代の我々のものより精妙なグラフィカル・ユーザーインターフェースを有しているように感じられるが(1961年頃の話である)、他の人のものでは妙に安っぽくハリボテな感じがするのである。

人間が、そうあると思えば、そのようであるという話は聞いたことがあるかもしれない。人の心が世界を創るのである。
我々が再び、火星や金星に知的生命が存在すると思えば、金星や火星も温暖で快適な星になるかもしれない。涼宮ハルヒ風に言うなら、「その方が面白いじゃない!」である。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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