ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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わが力やない

江戸末期の神道家、黒住宗忠は、イエスのような力を完全に備えた神人だった。強力なヒーラー(治療者)で、目の前にいるか遠くにいるかに関わらず、難病を瞬時に治し、嵐を静めることも出来た。イエスのように水の上を歩いたという話は聞かないが、仏教でいうところの神足通(一種のテレポーテーション)を行ったりもした。
私は、宗忠が、愚民にも簡単に覚えられ実践できる教えを何か1つ残していてくれたらなと思うことがある。その意味では、「南無阿弥陀仏」の念仏を唯一のものとした法然の教えは有難いものと思う。
無論、神道でも、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」の名を唱えることは、仏教の「南無阿弥陀仏」と全く同じことであるが、偉大な指導者がそう教えてくれていれば、庶衆に定着したかもしれない。

ところで、宗忠が、難病(ハンセン氏病)患者に対し、「ありがたい」という言葉を1日百回言うように教えたことがあった。だが、効果が現れない。宗忠は、それなら千回言えと指示した。それでも駄目なら、「では1万回」となった。患者は素直に従ったところ、1週間後、吐血し、気を失ったが、意識が回復した時、病気は治っていた。
なぜこんなことが起こったのか、いろいろ言う人がいるが、なるべく現代の科学に沿った言い方をするなら、自然の力、つまり、自然治癒力を呼び覚ましたということで、宗教的と言うのもおかしいが、一応、そういうことにするなら、神に全て任せることができたということである。
「ありがたい」と、1日1万回も言っていれば、自分の力というものを全く思わなくなり、いたるところにある不可思議な力を感じざるをえないようになる。その力こそ、自然の力であり、神の力だ。
これは、「南無阿弥陀仏」という念仏も全く同じだが、こちらは、最初から、阿弥陀仏(阿弥陀如来)という至高の存在を信じて全て任せるという意味なのだから、その信仰さえあればより強力な効果が本来はある。経典にも、心のこもった念仏であれば、1回、あるいは、10回でも驚くべき力があると書かれている。
法然上人は、自分は他に何も出来ないからと、「南無阿弥陀仏」を1日6万回唱えたという。

武道の修行でも、例えば、突きや蹴りを何万回と延々繰り返すことで基礎を作るのだが、これは、西洋のスポーツの解釈では説明できない訓練だ。
数万回もやれば、自分の力でやっているという感覚はなくなり、自己を喪失し、動かされているという状態になる。そんな時、純粋な自然の力、神仏の力が身体を動かしているのだ。それを掴めば、人を超越した力が備わるのは当然である。
ある剣術の達人は、木刀で1本の杭にただひたすら打ち込むことを1年続け、その後、たまたま、かなりの猛者に襲われるが、相手の動きが簡単に読め、ほとんど何もせずに倒せた。柳生宗矩も、少年時代の徳川家光に、それをやれば、鉄の兜でも切れると教えたという話がある。

私は、浄土真宗の立派なお寺の住職を長年勤めたお坊様の息子さんから、そのお坊様の死に際のお話を聞いたことがある。
ずっと意識を無くして眠っていたそのお坊様が、急に起き上がり、一言、「我が力やない」と言って絶命された。
浄土系仏教では、自己の力ではなく、仏の力に全面的に頼る絶対他力を説くが、このお坊様はそれを完全に実践したのだろう。この時、経典にあるとおり、阿弥陀如来が2人の菩薩(観世音菩薩と大勢至菩薩)を伴って迎えに来ていたに違いない。









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学力エリート達が哀れでならない

昔から、いわゆるエリート校に通う子供達が、我が国が軍隊を保有することを肯定するような発言をすると、「この子達が、将来、日本の指導者になったら、世の中はどうなるだろう?」と不安視するといった話がよくある。
私は、あまりに馬鹿らしくて苦笑するしかない。
たかだかペーパーテストの成績が良い者が、なぜ指導者にならないといけないのだろう?
そう考えるのは、試験の成績の良い者が指導的な立場なるという、ロクでもない理屈を信じさせられた国民が沢山いたということなのだろう。
むしろ、ペーパー試験の成績を良くするトレーニングを押し付けられて、本当に大切な能力を破壊されてしまった子供達を哀れみ、それを是正するよう働きかけるべきであろう。

国際学力コンクールのようなものがあり、我が国も力を入れているらしいが、上海や韓国、香港、シンガポール等に全く敵わず、将来、日本はこれらの国に支配されるような立場になると心配するようなことも聞く。
しかし、私には、本当に、そんな馬鹿な考え方をする者がいるとは、にわかには信じられないのだ。
以前、テレビで上海か香港の学校で、子供達が猛烈な詰め込み勉強を強制させられている様子が放送されているのを見た。まあ、ごく一部の状況をピックアップしただけかもしれないが、呆れたものだった。しかし、それらの学校では、試験成績だけでなく、身体や心も鍛え、洗練させる高度な教育をしていると主張されていたように思う。だが、どう見ても、極めて視野が狭く、レベルの低い粗悪な教育としか思えない。
なるほど、こんな教育をされた子供達が、偏見や情緒の歪みゆえに、国や世界を脅かすことをする大人に成長するかもしれないという不安なら、多少の同意をすることはやぶさかではないが、それよりも、私には、やはり、そういった教育をされる子供達が哀れだ。
人が内に秘めた、至高の英知に触れる機会を奪われ、それがいつか、言いようのない苦悩になり、道を求めてもがくが、何もできない苦しみを味わうのだ。なんという悲劇であろうか?
馬鹿者に教育された者は、自分に叩き込まれた馬鹿げた偏見や迷信を、おそらくは大きな苦しみと共に吐き出さない限り、本当に優れた者にはならない。
その苦しみは、俗世の教育の成果が大きければ大きいほど激しいものとならざるをえないだろう。

もちろん、学力エリートの中にだって、たまたま優秀な者がいない訳ではない。そういった者が、歪んだ教育の副作用から、社会に害をなしたこともあるだろう。だが、別に問題ない。そんな者達は、せいぜいが小悪人でしかない。
大悪人であれば尊いこともある。だが、大悪人になるには力が要る。保身のために、吊り下げられたちゃちなギフトを奪い合ってきた学力エリートにそんな力はない。
少なくとも、こう考えれば良い。エリートといったところで、釈迦やイエスの知恵と比べれば、せいぜいが猿知恵である。

今はたまたま学力試験が流行っているが、それが、例えばマージャンだと考えてみればいい。各国の教育界や、子供を持つ親達は、血眼になって、子供達のマージャン力を上げようとする。では、マージャンのトップクラスの実力を付けた子供が、偉大な指導者になると本当に考えるのか?
マージャンでイメージが悪ければ、将棋やチェスでも良い。
むしろ、学力試験より、将棋やチェスに優れた者の方が見込みがあるのではないだろうか?
ただし、将棋やチェスも、邪まな動機でやるなら、良い成果は無いものだ。

真の英知は、いたるところにあり、我々の心の深いところにもある。
ところが、世間の教義や信念を叩き込まれた者は、こんなごく自然なことも信じられない。
学力が崇拝される世になってから、尊い教えを理解できる人は少なくなってきた。
だが、表立ってはいないが、隠れて人々の進歩のために献身する方々は存在している。彼らは、「我こそがそれをしている」とは決して言わない。学校を作ってマスコミでPRすることもない。だが、求めれば誰でも助けてもらえるだろう。その助けは、普通の人が思うようなものではないかもしれない。だが、我々が、英知に対して本当に誠実であるなら、見捨てられることはない。









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汚れちまってることに気付いてこそ美しくなれる

『汚れつちまつた悲しみに…』なんて中原中也の詩がある。
「汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる・・・」と、延々、愚痴をこぼすような詩だ。
しかし、汚れなければ悲惨だ。
人は、いったん汚れてこそ、本当に美しくなるのだ。
中原中也だって、それは知っていて、まだ幼い心を持っていた時の感慨を表現しただけなのだとは思う。

いや、実際はこうだ。
汚れちまったも何も、人は最初から汚れている。
ただ、それに気付かないうちは、自分がきれいだという妄想を持っているというだけのことだ。
だから、「汚れちまった悲しみに」ではなく、「汚れていることに気付いた悲しみに」というのが本当なのだ。

中学生とか高校生の頃までは、自分が釈迦やイエスに匹敵する、あるいは、それ以上だと思っている人は案外に多いと思う。
相当、甘やかされた、気の毒な子達だ。
アメリカのように、子供の頃からがんがんバイトをさせて、自分の中の汚れに早く気付くのは絶対に良いことだ。早く気付かないと、本当の美しさを得る時期は遅くなる。例えば、15歳で気付けば、50歳で美しさを得るとして、20歳で気付けば、80歳でもどうかといった感じである。
これが、大企業のサラリーマンや公務員になれば、更に遅くなる可能性が高い。200歳まで生きてやっとかもしれない。

史上最強のセールスマン、ジョー・ジラードは、「誰でも最初は優秀なセールスマンとしてスタートする」と言った。
私は、これを、「最初はみんな真面目だが、だんだん怠けるようになるからな」といった意味に解釈していた。
私が最初にやった仕事はセールスマンだったので、セールスマンがいかに怠けるかはよく知っていたのだ。
だが、ジラードの言葉は、最初は企業に洗脳されているといった程度の意味かもしれない。
いまどき、セールスする製品に、ライバル製品、つまり、同じようなライバル会社の製品が無いということは、まず、ありえない。例えば、トヨタの車を売ろうとしたら、日産にも大体同じような車がある。
セールスマンは、会社から、「部分的には他社の製品の方が優れた部分はあるかもしれないが、当社の製品の方が絶対に良いのだ」と叩き込まれる。それを信じているうちは、経験の無いセールスマンでも案外に売れたりする。私も、かけだしの頃、いきなりセールス・コンテストで優勝したことがある。
しかし、やがて、会社の言ったことは嘘だと気付く。そうなると、自分は、客を騙しているのではと思うことになる。時には、売るために、あきらかに客にとって良くないことを押し通してしまうことが絶対にある。
そんな時に、私は本当に思った。
「汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる」
だが、その時は気付かなかった。自分は、元々汚れていることを。

尚、私は、『汚れつちまつた悲しみに…』は、平坂読さんの小説、『僕は友達が少ない』で思い出した。アニメでも、小説の通り、ヒロインの三日月夜空が淡々と朗読する。その時の夜空の横顔が美しかった。詩を読みながら、夜空は何を思っていたのだろう。
汚れ(穢れ)について考えるなら、神道の穢れ(気枯れ)について学ぶと良いだろう。穢れを祓うことを学べるかもしれない。









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食べ過ぎてはいけないが、少食過ぎてもいけない

人の運命は、食で全てが決まると江戸時代の高名な観想家の水野南北が言ったが、それは、簡単に言えば、「食が多ければ不運で不幸、食が少なければ、幸運で幸福」である。
水野南北は、命がけで学び、実践で磨き上げた観想で、ほとんどの運命の鑑定に成功したが、どうしても百発百中の的中とならなかった。そのため、荒行を敢行したのだが、その際、豊宇気毘売(トヨウケビメ)から、「食が全て」との啓示を受け、以降、食の多少で鑑定したところ、万に1つの失敗もなくなり、やがては、観想すら行わなくなったともいう。

また、南北は、食の慎みと共に、美食を厳しく戒め、自らも、米を全く食べずに麦を食べ、極めて質素な食事をした。酒は大好きであったが、1日1合(約180mL)と定めた。

だが、高徳な僧の中には、肉食をしたり、酒を飲む者もいる。一休や親鸞などの偉大な僧にすら、そんな者があった。
これについても、南北は明快に、「あまりに高潔であっては、教えを説くべき庶民が近寄れないので、あえてそのようなことをするのである」と言った。

ところで、もう1つ、あまりに清浄でいるべきでない理由がある。
それは、食欲や性欲といったものを、あまりに滅してしまうと、聖人にはなれるかもしれないが、世俗で生きていけなくなる。世俗の生活には、現実的には力がいる。当時も今も、その力とは、金やモノである。あまりに汚れ無き存在となれば、現実に対応できなくなるのである。
南北も、食は厳しく慎んだが、女好きは治らず、妻は8人いたという。だが、ことごとく悪妻だったにも関わらず、妾ではなく全て正妻とし、生涯、大切にした。また、南北は、人にも、食の慎みは説いたが、女に関してはおおらかで、それどころか、大いに食を慎みつつ、大いに女遊びをしろと教えたという話もある。ただ、あくまで、男の誠意を通せる範囲であることが必要とは思う。
また、南北は、食には厳しくとも、慈愛のある人情家であったと思われる。
南北の弟子で、非常な無骨者の弟子がいた。観想の方はいまひとつだったが、誠実だったその弟子に、家一軒を若い娘付きで与えたこともあった。「女中にするも良し、女房にするも良し」ということだったが、その弟子は、娘を妻にし、大事にしたという。

現代は、当時と比べても、世の中は更に汚れていると言える。江戸時代の日本というのは、実は、なかなか素晴らしい社会であったという研究者もおり、私も、いくらかの証拠から、そうに違いないと思う。
現代に生きる我々も、もちろん、食を慎み、また、性欲を煽って儲けようとする連中のカモになってはいけないが、あまりに清浄になると、やはり世間に対抗できなくなる。
私も、1日1食で、完全な菜食主義であるが、会食の際には、肉は食べないながら、魚介類やケーキの類は大いに食べるし、普段でも、黒砂糖や羊羹くらいまでなら食べて良いこととしている。また、適度であれば、萌えもありとしている。
『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは「食べ過ぎてはいけない。しかし、少食過ぎてもいけない」と教えていた。

何事もほどほどに。
孔子も徳川家康も、それが何よりと考えていた。
仏教の教えもまた、中道であり、極端に偏ってはならないとする。
どのくらいが程よく、バランスがとれ適度であるか?それを自分で正しく定め、なおかつ実践できる者のみを大人と言うのだ。
成功も悟りも、まず、大人であることがスタートの条件である。
最終的には聖人や仙人になるも良いが、まずは世間を打ち負かそうではないか?それはたやすいことである。そのためには、やはり食を慎むのが、最も簡単で確実な方法である。









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地動説よりも重要なこと

私は最近まで、朝、腕振り運動をする時は、東に向かってやっていたが、数日前から、方向にこだわらないことにした。
これは、1つの意識の変革だ。
東を向くというのは、太陽を拝むとか、あるいは、日の神である天照大神を拝礼するという意味があるのではと思う。だが、太陽、および、天照大神への敬愛や思慕と、方向にこだわることは別だろうと思う。
阿弥陀如来を崇拝する者には、西には決して背を向けないという人がいるらしい。西には、阿弥陀如来の国である西方極楽浄土があるからだ。ところが、阿弥陀如来の信者の中に、西を向くのは恐れ多いからという理由で東を向くなどという者もいるのではないだろうか?

無論、天照大神や阿弥陀如来への深い信仰や愛から、自然に、太陽の方向、あるいは、西方を臨むというのであれば良いことである。
そして、イエスやラーマクリシュナが言うように、人にとって最も大切なことは、自分や世間をはるかに超えた至高の英知を愛することで、それを、宗教や信仰では、神を愛するという言葉でシンプルに言い表せるのであるから、やはり、非常に良く、悪いことではない。
しかし、多くの場合、東に礼拝すれば、あるいは、西を拝めばご利益があるという気持ちからであると思う。

黒住宗忠は、天照大神の開運を祈ったという。これは、神への愛からの行いである。だが、ご利益を求めてこれを真似する者が多いかもしれない。
宗忠の礼拝は美しいが、醜い意味での東への礼拝をするくらいなら、まずは自分の心を今一度、よく見るべきだろう。
元々、形は重要ではない。
宗忠が信仰した天照大神は、古事記に登場する女神というだけの意味ではなく、宇宙の根本神という意味があったはずだ。ただ、人は何らかの象徴がないと、心を向けることが難しく、神は、天照大神の姿を示したのだろう。
阿弥陀如来も同様で、別に、大仏様のような姿が、阿弥陀如来の本当の姿ではない。阿弥陀如来は、宇宙全てを照らす知恵と力と慈悲の大光明だ。しかし、仏像や仏画の阿弥陀如来の姿を、阿弥陀如来そのものと思っても、もちろん構わないのだ。
そして、天照大神といい、阿弥陀如来といい、それは、宇宙のあらゆる場所に遍満する存在で、実際は、時間も空間も超え、我々の思考や感覚でどうにも捉えられるものではない。
敢えて言えば、神仏への正しいアクセス経路は、自分の心の奥深くに向かうことである。
だが、こう言えば、「必ず方角は無視しなければいけないのか」と言いだす極端な心を持つ者もいる。一番に捨て去るべきは、このような極端論で、仏教ではそのために、中道ということを教えるのだろう。
本当に重要なことでなければ、どうでも良いのである。
ある地域では、天動説を信じている者も地動説を信じている者もいるが、両者が仲良く暮らしているそうである。昔は、それぞれを主張する者どうしが争い、殺しあいまでしたらしい。重要なことは仲良くすることだ。それが出来れば、天が動こうが、地が動こうが、どうでも良いことだ。科学的にすら、どちらとも言えない。単に重力のバランスの中で、軽い方が重い方の周りを回っているように見えるだけのことである。
カート・ヴォネガットは、「私が知っている、地球上で唯一の規則は、人に優しくすることだ」と言ったが、この重要なことを除けば、後は大抵、どうでもいいことだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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