ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「身の程を知れ」という言葉の本当の意味

一説によれば、徳川家康に、天下取りの秘訣を尋ねると、家康は、
「長い方と短い方、どっちが良いか?」
と尋ね、
「両方、お願いします」
と乞うと、
「短い方は『上を見るな』、長い方は『身の程を知れ』である」
と答えたと言う。

ギリシャのデルポイにある、アポロン神殿の入り口に「汝自身を知れ」という格言が書かれているそうだ。
この言葉の意味は、人によって様々に言うが、それは、「身の程を知れ」ということである。
なぜなら、ギリシャ神話に親しんでいれば、それが最も自然だと感じるからだ。

ギリシャ神話では、いかなる場合でも、人間が神を貶めるようなことを言うと、必ずや重い罰が下る。
また、神の意図を知ろうとすることも、不遜であるとして、強く戒められるる。それは、英雄オデュッセウスすら例外ではなかった。
プシューケーという名の人間の美少女は、美の女神アプロディーテーより美しいと噂を立てられただけで、自分でそう言った訳でもないのに、アプロディーテーの厳しい罰を受けたのである。ただ、プシューケーはそれを恨まず、後に女神となっているのである。
「身の程を知る」ことが、人間にとって、いかに重要かを、色々なお話で説いているのである。

しかし、「身の程を知る」ということの正しい意味を知る者は少ない。
せいぜいが、社会的に分不相応なことをしたり、求めることを、「身の程を知らない」と言う。それは未熟で愚かではあるが、罪ではない。
「身の程を知れ」とは、まさに、ギリシャ神話に秘められた教えであると思う。
その元の言葉である「汝自身を知れ」とは、「お前は神ではなく、人間であるということを知れ」と言う意味である。
だが、そう言われたら、ほとんどの者が、「俺は自分が人間だと思っているし、自分が神だなどと思っていない」と言うかもしれない。
だが、彼は、自分ではそう言っているが、実際には、神のような態度で生きているのだ。
なぜなら、彼は、自分は特別であると思っている。
自分が万物の一部ではなく、自分以外を万物を見なしているのである。
万物の一部でしかない彼が、万物の一部または全部を思い通りにしようとしているのではないか?
つまり、出来事を自分の意思でコントロールし、人生を自分が支配できると思っている。
そういったことが、自分を知らないことであり、身の程を知らないことなのだ。

身の程を知らない者は、決して苦難から逃れることはできない。
だが、自分を知る者には、いかなる危険も及ばない。
身の程を知る者は、いかなることも、起こるがままにまかせ、心静かである。
彼は、自分が、人生や世界に対し、何の影響を及ぼすこともできないということを知っているのだ。
それを無条件に受け入れたのである。
それが、身の程を知るという、優れた知恵を得たということであり、自分自身を知ったことになるのである。
そうである者には、鬼神も道を譲り、神々すら地に付して敬うのであると、荘子や親鸞は言ったのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

誰にも見えない、大事故は必ず起こるという道理

福島電子力発電所の事故がなぜ起こったのかの最大の原因は、今回の規模の津波は来ないと「決めていた」ことだ。
数百年に1回くらいはあり得る津波であるのだが、数百年に1回なんてものは、無いと見なすのが当たり前だと思ったということである。
アメリカでは、数万年に1回の規模の災害もあるものと考えて対策するらしい。しかし、東京電力では、数百年に1回は「ない」としたということだ。

しかし、誰でも、他人の欠点はよく見えるものだ。
私のようなコンピュータシステムを作る者は、そのような、「滅多にはないが、あり得ること」に敏感である。
お客さんに、「こんなことが起こりますか?」と尋ねれば、お客さんは、「いや、それはまずない」といったふうに答える。
この答え方というのは、お客さんは、「ない」という気持ちで言っているのだ。
しかし、「まず、ない」というのは、「ある」と全く等しいのである。
ここで、私とお客さんの見解が分かれてしまうのである。
そして、その、「まず、ない」の対策には手間と費用がかかることがよくあるものだ。
時間と費用がかかるなら、お客さんは対策を嫌がる。
しかし、私は「大災害」を避けたい。
そして、実に、「手間と費用をかけずに対策する」という恐ろしい結果になる。
みずほ銀行のようなトラブルが起こるのは当たり前なのである。

最近、世間を騒がしている、いじめによる自殺にしたって、学校や教育委員会が、滅多に起こりそうにないことを、「ない」としているから起こったというものなのである。
教師や教育関係者は面倒臭がり屋であるから、それが当たり前なのだ。彼らは大原則にしがみつくタイプの人間である。
大雑把なことを大上段に振りかぶり、「教育とはこうである」としか言えないし、考えることが出来ないのだ。世間で鍛えられていないので知恵がないのである。
福島原発の事故を調査、検証する政府の委員会の報告書の中に、「人間は見たくないものは見えないのだ」といったことが書かれたらしいが、それは事実である。
しかし、おかしなことに、誰も、「人間は見たくないものは見えないのだ」という言葉が見えないのである。

「人間は見たくないものは見えないのだ」という言葉が、人間の見たくないものなのだ。
福島原発の事故という、1つのことに関しては、「ああ、そうだなあ」と思っても、他のことでは、そうは思わないのだ。

では、人間が一番見たくないものとは何だろう?
それは、「運命は完全に決まっている」ということだ。
最近、オリンピックに関係した何かのテレビCMで、小学生の男の子が、オリンピックを見て興奮して、「僕もいつかは絶対に出る」と威勢よく言うものがある。
しかし、オリンピックに出られるかどうかは、自分で決めることじゃない。運命次第なのだ。
オリンピックに出場する運命であれば嫌でも出ることになるが、そんな運命でなければ、どれほど努力しても絶対に出られない。
夢を持つなんてことは、全く何の関係もない。
お金持ちになれるとか、ミュージシャンになる、有名な画家になる、大会社の社長になる、可愛いあの子を恋人にする・・・全て同じである。
それが叶うかどうかは、あなたの意志は全く関係がない。
このことが受け入れられないなら、今後も悲劇は起こるだろう。

アメリカで、原発建造の際、数万年に一度の災害に備えるというのは、知恵があるのではなく、単に、その方がビジネスとして利益が大きいからである。
千年に一度起こる災害への対策の受注額が10億円なら、2万年に一度の大災害なら1000億円になるといったふうに、笑いが止まらないのである。
だが、それでも対策が出来るのは運命である。
我が国においては、数万年に一度の災害に対策する予算は絶対に出ない。
だから、原発は、絶対に廃止しなければならないというのが、自然で当たり前のことなのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

質問にお答えします

今回は、皆様のコメントでの質問にお答えしようと思う。
ただ、決して、コメントいただいた方個人へのご返事ではなく、なるべきく全ての人の役に立つようなご返事をしたいと思う。
今後も、良いご質問をお願いしたいと思う。
良い質問とは、他の方々にとっても、役に立つようなものである。

★東北人さん
Q.ホツマツタヱでの根源の神はアメミオヤではないのか?

『古事記』以前に書かれたと云われる『ホツマツタヱ』では、原初の初めにあった根源神はアメミオヤですね。
これは、古事記には登場しない神様です。
古事記では、根源神はアメノミナカヌシですが、ホツマツタヱでは、アメノミナカヌシは、限りなく神に近い人とされています。
ただ、アメミオヤは、一般の方々にはあまり馴染みが無いと思われましたので、創造神アメミオヤの転生であるアメノミナカヌシを、古事記通り、根源神としました。
これは、ホツマツタヱとしては、正確ではなかったことをお断りしておきます。

★舞さん
Q.Kayは現在、アルコールを飲むのか?(付:アルコール摂取過剰について)

私は、現在は全くアルコールを飲みません。
別に嫌う訳ではないのですが、自然に飲まなくなりました。多分、1年程前から飲んでいないと思います。
以前は、寝る前に赤ワインや梅酒をグラス1/3程度飲んでいました。
会食の際には、リキュールのようなものを少し飲む程度です。

アルコールの量の多い人というのは、寂しさを感じている人が多いように感じます。
特に、親との縁が薄いという場合が多いのではないかと思います。
断酒は、根性で出来るものではありませんね。
心が満たされ、心が静かになると、自然、適量を守れるようになります。
これは、食事の量や、性的なことでも同様と思います。
当ブログは、それを達成する方法を、繰り返し、あれこれ書いております。

★まきさん
Q.菜食や呼吸法で、現実にいいことがあったか?(年収アップや恋愛成就等)

菜食や呼吸法と、世俗的、世間的ないいこととは全く関係ありません。
つまり、やったからといって、お金が儲かる訳でも、片思いが両思いになる訳ではないですね。
金や女(あるいは男)が欲しいのなら、当然ながら、それに適した世間的、世俗的な方法でやらなければなりません。

★ゾロケンゴさん
Q.腕振り500回で身体が悲鳴を上げるが、やり方に問題があるのか。また、Kayの現在のトレーニング内容は?

身体が抵抗を起こさないように、腕を振る速さを落とせばいいと思います。
腕を振る勢いが強過ぎる人が多いと思います。
500回なら、早く500回終わらせようとする人が多いのかもしれません。
せかせか1000回やるのなら、ゆったり300回やる方が良いです。

私は、現在のトレーニングは、
【朝】
腹筋運動30回
腕立て伏せ20回
【夜】
腕立て伏せ20回
スクワット200回
腹筋運動30回
腕立て伏せ20回
です。

私の場合、腕立て伏せは、床に胸が付きそうな位、深く身体を沈め、ふわっと浮かぶ感じで腕を完全に伸ばした後、さらに床を一押しし、腰を持ち上げます。これを、リズミカルに、停止せずに20回行います。私には、これが楽にやれる範囲です。
腹筋運動は、膝を床に垂直に立て、頭の後ろで手を組み、ゆっくりと状態を起こしていき、膝と肘が接触しそうな位まで起こします。
スクワットは、踵を床に付けたままで、膝と床が水平になるまで曲げ、完全に伸ばします。
腕振り運動は、今は、朝に300回×2、夜に300回の計900回です。休日は1500~2000回以上やっていると思います。

もちろん、最初は、腕立て伏せ10回からでいいのです。
回数ではなく、毎日欠かさず行うことが大切です。
だから、無理をせず、続くような回数でやることが肝心です。
私は、3年間、ほぼ1日も欠かしていません。

★まいさん
Q.潜在意識の法則や引き寄せの法則で人の気持ちや考えを変えさせることが出来るか?

出来ません。
そんなことがあるような気がしても、気のせいです。
視覚、聴覚を利用して心に影響を与える、いわゆる催眠術のようなものはありますが、信念のない人ほどマインド・コントロールを受けます。
催眠術の名人が私に催眠術をかけようとしたことはありますが、成功した人はいません。
逆に、私は、飲酒癖の強い女性に、催眠術で断酒させたことがあります。ただ、余計なことをしたと思っていますし、時間が経てば、元に戻ったかもしれません。
※私が実際に使った技術は、実際はNLP(神経言語プログラミング)です。

★シャンティーさん
Q.脳幹を鍛えるにはどうすればいいか?

要は、あまり楽をしないことですね。
無理はしなくてもいいですが、暑いときは暑さを感じるようにし、寒いときは寒さを感じるという、自然の生活をするだけです。
暑い時に汗をかく、寒いときに体温が上がるという、脳幹が行ってる身体の調整機能をちゃんとやらせてあげれば、脳幹の機能は高くなりますのでね。
冷暖房に頼ると、脳幹の機能は無くていいことになり、その機能は退化します。
すると、身体の自然なコントロールが効かなくなり、たまに暑いところに出ると、汗が出ずに、たやすく熱中症になったり、逆に、過度に汗が出たり、また、ちょっと変なものを食べたら、深刻な状態になったりします。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

強く生きるという意味

10年以上前、自己流の格闘術を編み出し、本人は「世界最強と思う」と豪語していた19歳の青年が、その後、急性前骨髄球性白血病(APL)で亡くなられたが、K-1でも屈指の格闘家だったアンディ・フグさんと対戦したことがあった。
予想通り、その青年は全く歯が立たずに敗れたが、アンディは、その青年に敬意を払った。
世間は青年を失笑したと思うが、私は、彼が、自分の格闘術は世界最強と言ったのを、別におかしなこととは思っていない。ただ、リング上でプロ格闘選手と戦ったことが間違いだったのだ。
例えば、この私が、無敵の格闘術を作ることも出来る。それで、プロ格闘選手と戦ってみろというなら、出来ないことはない。ただ、その格闘選手や関係者がどうなってもいいならだ。

内容はほとんど覚えていないが、こんな映画があった。
ある男は、かつて極悪非道の悪人で、強盗や殺人を重ねていた。しかし、彼は、ある時、改心し、長い月日の後、愛する妻との幸せな暮らしが始まろうとしていた。
その彼と妻のところに、一人の男が訪ねてきた。その男は、愛想良く、礼儀正しい男に見え、真人間に生まれ変わった彼は、笑顔で男を迎えた。
すると、訪ねて来た男は、柔和な笑顔のまま、懐から手を出さずに銃を発射し、元悪党の彼を殺した。
男は、昔、彼に家族か友人を殺されて、彼に恨みを持っていた者だったのだ。

つまり、私が格闘術をやって、プロ格闘選手と戦うなら、こういったことをやるということなのだ。
格闘技と格闘術は全く異なる。
格闘術は、リングの上で、ルールに則って戦うようなものではない。勝つためのものだ。
試合のゴングが鳴る前に、硫酸を敵にぶっかけるなんてのも、当然、あり得るのである。その際、レフェリーはじめ、周囲の人達に害が及ばないようにといった配慮などしない。そんなことをしたら、負ける可能性があるからだ。

武道家の堀辺正史さんの本で読んだが、本が書かれた当時、プロレスの屈指の実力者だった藤原喜明さんが、「俺が素人とケンカしたら負ける」という発言を取り上げていたが、堀部さんはいたく感心しておられたようだった。
格闘術を身に付けた格闘技の素人が、プロでも最高クラスの格闘選手に勝つことは、不思議なことでも何でもない。

宮本武蔵は、剣道家ではない。剣術家である。
彼が、吉岡道場との決闘や、佐々木小次郎との巌流島の決闘の際、約束の刻限をはるかに遅れて来たり、奇策を弄したのは、卑怯でも何でもない。
武蔵は、武道の試合をしたのではない。決闘をしたのだ。勝つために当たり前のことをしただけである。
それを、卑怯だ何だと言う者は、早い話が馬鹿か、良い言い方をしても、頭が固いということなのだ。
武蔵の『五輪書』は海外でも人気があるらしい。かつて、日本のビジネスが世界を席巻していた頃、西洋のあるビジネスマンが『五輪書』を手に、「日本のビジネスはこれだ。不意を突く、心理戦で相手をいらだたせる。日本が強いのは武蔵の教えがあったからだ」と言っていた。
日本のビジネスマンが『五輪書』を参考にしたとは思えないが、海外の企業と異なる流儀でやっていたというだけのことだろう。
喩えて言えば、アメリカの企業がK-1のルールに則って戦う格闘選手で、当時の日本の企業は、勝つことが第一の武術家だったと言えるかもしれない。
その後、海外の企業は、様々な方策で、日本の企業のやり方を封じ込め、自分達を優位な立場にすることに全力をあげ、日本企業も、さらにそれに対抗してきたが、武術魂を失った多くの日本企業は苦しい状況のようである。
いや、今や、かつての日本以上に、武術魂のある、何でもありの海外企業が増えてきた。
ビジネスはスポーツではない。戦いである。修羅道である。それを、卑怯だ破廉恥だと言うのは負け犬であろう。
邱永漢さんがビジネスの指南書に、「地元で商売するな」と書いていたものだ。ビジネスには破廉恥な面も必ずあるのだから、親しい人の信頼を失いたくなければ、ビジネスは他人を相手にやるものだということだろう。

さて、いじめなどで、命の危険さえあるというなら、格闘術を編み出すのもやむを得ない。
真面目に空手など習いに行っていたら、不測の事態に間に合わないし、そもそも、いじめをする者はルール無用なので、武道など役に立たない。こちらはもっと、卑怯というのかどうかは兎も角、柔軟に備えなければならないのだ。
それこそ、武蔵の『五輪書』を読み、不意を突き、むかつかせ、卑怯な手を使ってでも、生き延びられるようにならなければならない。
それには、学力などとは何の関係もない、むしろ、全く逆とも言える頭の良さが必要である。
邱永漢さんの本も読み、「地元で出来ない破廉恥なビジネス」の手法も参考にしなければならない。
これが、強く生きるということなのかもしれない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

女の子の最も可愛い姿とは

「女の子が一番可愛く見えるポーズは?」などという話がよくあると思う。
我が国おいては、間違いなくこれだというものがある。
これは、個人の主観(自我の想い:哲学用語)とは関係がない。
ただ、少し昔なら、ひな祭りの時ならそれをする機会もあったが、今はなかなか出来なくなった。
ところが、面白いことに、初音ミクの姿を描いた、イラストレーターのKEIさんが、「メーカー非公式」と銘打った漫画作品『初音みっくす』の3巻で、そんな姿の絵を3回も描いていた。それは、着物を着た初音ミクや巡音ルカが、広げた扇を口元にあてる姿である。
出来るなら着物で、そして、広げた扇で口を隠し、ややうつむく・・・これほど可愛い女の子の姿は考えられない。
妻やガールフレンドが、そんな姿をしたところを想像しただけで惚れ直すだろうし、さして好きでもない女の子でも、そんな姿をすれば惚れてしまう。

現在、一般の人がそんな姿をすることが出来るのは、ひな祭りの時くらいと、さっき書いたが、実は、それは、本来のひな祭りと大いに関係がある。
最上段に置く内裏雛(だいりびな)の配置をご存知であろうか?
内裏雛は、親王(天皇)と皇后(親王妃)の2人のことであるが、一般に、男雛、女雛と言う。
現在、男雛が右(向かって左)、女雛を左(向かって右)に配置するのが普通になっているが、これは逆である。
これは、単に、風習とかしきたりの問題ではない。本当は、左が男、右が女である。
結婚式でも、現在は、神前結婚においても、雛人形同様の逆の配置になってしまっている。
実は、明治時代までは、雛人形も、結婚式の新郎新婦の配置も、現在とは逆の正しい配置だった。
しかし、大正時代から、政治的なものだと思うが、天皇陛下と皇后陛下が並ばれる時の位置を、西洋に合わせて反対にしてしまったようなのだ。
それから、日本は逆さまの国になってしまったのだ。

『古事記』において、男神のイザナキと女神のイザナミが、天の御柱の周りを回って出逢うという儀式をした際、イザナキが左から、イザナミが右から回ったというのは、大きな意味があったのである。『古事記』以前に書かれたと言われる『ホツマツタヱ』でも、これは同じである。
左の「ひ」は、火である。上に燃え上がる炎だ。熱く、陽である。
右の「み」は、水である。低いところに静かに控える水だ。冷たく、陰である。
別に男尊女卑ではなく、男が積極的に外に向かい、女は内に静かに控えるのである。
いや、男尊女卑どころか、これは、女の方がはるかに貴いことを示しているのである。
昔から、日本では、大奥という、高貴な処を作り、今でも、奥様と言う。奥にあるものが極めて重要なのであり、責任も重いのだ。
これは世界的にも言えることで、賢者達は皆、神は内にいるものであり、外の世界は幻だと必ず言うのである。

ただ、イザナキが天の御柱を左から回り、イザナミが右から回ったのは良かったが、イザナミが先に「ああ!いい男」と声をかけてしまったことが失敗だった。
『古事記』でも、『ホツマツタヱ』でも、そのことを、不完全な子が出来たことで表している。
つまり、右(水。陰)である女は、慎ましく、奥ゆかしくなくてはならない。
それが、ひな祭りに着物を着て、広げた扇で口を隠す乙女の姿で表されているのである。

ところで、上に、扇を口元にあてる初音ミクの話をとり上げたが、左と右の意味についても、初音ミクのコンサートではよく守られているのだ。
これが、日本の秘めた力を現している理由でもある。
ミクとルカのデュエット『magnet』では、主役のミクが左(向かって右)に、ルカは右(向かって左)に。
ミクとリンのデュエット『Promise』では、やはり、ミクが左(向かって右)に、リンは右(向かって左)に。
レンとリンのデュエット『右肩の蝶』では、いわゆる「レン版」であったので、レンが左(向かって右)で、リンが右(向かって左)だった。
ところが、アメリカ・ロサンゼルスのコンサートでは、ミクとルカがデュエットした『ワールズエンド・ダンスホール』で、ルカが主の位置である左(向かって右)だった。
これは、アメリカ式に合わせて主役のミクを右(向かって左)に置いたのではなく、この歌は、コンサート中、ただ一曲、完全に英語の歌(元はこの曲も日本語)であり、英語を完全に発音できるルカを主としたのは、自然なことだろう。
アメリカへの配慮というなら、大人っぽく、よりすらりとしたアメリカ人好みのルカを主役にしたということも言えるかもしれない。
ただ、この曲の際、先にミクが登場してポーズを取り、ルカは後から後ろ向きの姿で登場したことが、主役を立てたルカの奥ゆかしさかもしれない。

現在、逆ナン(逆ナンパ。女性が男性を誘うこと)や、肉食系女子(女が男を積極的に誘う)などというものが流行っているという話もあるが、これは日本人の正しい姿ではなく、日本の衰退の現れなのである。女の方が主導権を持ったカップルは長続きしない。ただ、その場合でも、後で女の方が男を立てて控えるようになれば別であることもないではない。女性が年上でうまくいっているカップルというのは、女性が実に甲斐甲斐しいものである。
また、好きな男性の前ではしゃいで見せる、悲しい勘違いをしている女の子が多い。そんな自分の姿が可愛いとでも思っているのかもしれないが、はしゃいでいる女の子の姿を可愛いと思うのは、佐々木希みたいな美女ならともかく、普通は父親くらいのものである。
会社でも、自分は有能だと思って態度の大きな女性(そんなので本当に優秀な女性を見たことはないが)がいるだろう。そんな女性は、自分と同じくらいの年の男を君付けで呼ぶことも多いが、別に古いとかではなく、それは傲慢であり、実際、嫁のもらい手も無いものだ。

女性は、着物で扇を持っていなくても、そんな姿である気持ちで、両手で口を隠し、うつむくようであれば、その姿に、男どもはメロメロになるのである。
もて過ぎて困りたくなければ、やってはならないという注意すら必要であるほどである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード