ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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自殺がなぜいけないか

自殺がなぜいけないのだろうか?
いろいろ聞いたし、考えもしたが、どの理屈も憶えていないところを見ると、どれも正解ではないのだろう。
正解であれば、深く記憶に刻まれるからだ。

自殺とは、身体を捨てる行為だ。
しかし、自殺する者が本当に捨てたいのは心だろう。
心を捨てる手段が身体を捨てることであると判断したのだろう。
それはなかなかの洞察だ。身体と心が同じものであることを見抜いたのだから。
しかし、自分が自分を捨てることはできない。
「日本人はみんな嘘つきだ」と日本人が言ったら、その本人も嘘つきなので、日本人は正直者ということになってしまう。

自殺する者は、身体(=心)を捨てる前に、世界を変えたいと思うはずだ。
しかし、描いてしまった絵を変えられないように、結果としての世界は変わらない。
しかし、心は変えられる。
嫌な絵だと思っていたものが、気分次第で素敵に見えるようなものだ。
そうすれば、世界に関して、新しい結果を出すこともできる。
描いてしまった古い絵は変えられない。
しかし、その絵の見方は変えられる。絵の見方が変われば、違った新しい絵が描ける。

世界の見方を変えるには、心を変えれば良い。
心を変えるには、個人的欲望に栄養を与えないことだ。
個人的欲望に栄養を与えないためには、個人的欲望を刺激するものを忘れることだ。
世間には、見境の無い営利主義、利己主義から出た、食欲、性欲、物欲を刺激するものが満ち溢れている。
そんなものを否定しても仕方がない。道徳や現代の宗教の欠点は、それらを否定することで逆に取り込まれることだ。宗教の偉い人ほど、食欲、性欲、物欲、そして、名誉欲が強く浅ましいというのは、ほぼお決まりだろう。
ただかわすことだ。避けることだ。
世間の人はかわすのが下手だ。それは、道を歩いていてすら分かる。他人をかわす能力がない。かわす気もない。
しかし、例えば性欲をかわすためにスポーツを始めても、度が過ぎて、勝利の欲望や名誉欲に取り付かれるまでになってはいけない。幸福な金メダリストなどいないし、金メダルを取り逃して執着するのは、描いた絵を変えようとするようなものだ。もし、金メダルを取れなかった結果の見方を変えられれば、それが幸福なことであることが分かり、金メダルに執着しなくなる(金メダルが取れなくなるということではない)。また、金メダルを取った絵に執着し、心を変えられない者もいるだろう。そんな者を見れば、本来は、どこかおかしいことはすぐに分かるはずだ。

世間の人は、酒を飲むといえば浴びるほど飲むか、全く飲まないかだ。適度に飲めることが良いのは分かっていてもそれが出来ない。適度に飲むことが、欲望をかわすことだ。
ただ、酒は、自分では適度なつもりでも、だんだん量が増えてくるので、水野南北のように、「1日1合」と決めたら、それを守ることが肝心だ。
私は、その意味で、「1日1食」「肉、魚を食べない」「満腹しない」「間食をしない」とだけ定め、それをずっと守っている。あまりに厳しい制限はなく、後は割りといい加減である。

かわすことが上手い者は自殺しない。
かわすことが上手くなれば、身体も心も厭うものではなくなる。
新しい世界を創れるようになる。
新しい世界を創れないことが、人生最大の罪だ。
それが、人生を無駄にすることだからだ。
なぜなら、新しい世界は、心と至高の英知の合作であるべきだからだ。







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死は悲しいことではない

私は、人の死を全く悲しいと思わない。
自分の父親が死んだ時も、悲しい気持ちはなかった。
我々は、幼い頃から、死が辛く悲しいことであると教わる。私がその影響を完全に脱したのは割と最近だ。

人を木の葉に喩えよう。
葉は落ちないと、新しい葉が出て来れない。先に出た葉が枯れて落ちるのは当然のことだし、動物や虫や風に食われたりちぎられたりするのも悲劇ではない。
とはいえ、葉に個体性が無いわけでもない。同じ葉は2枚と無い。だが、葉が落ちたからと言って、何かが消滅するわけではない。葉の細胞は土に帰るし、生命は木の中に残る。
もちろん、これは例えであり、我々が本当に木の葉だと言うのではないが、このように、肉体の死は悲しむようなことではない。

たが、我々は死にまつわることを、煩わしいものにしてしまっている。
死の原因が癌等の重病であれば高額の医療費の請求が待っている。病院では死んだ直後に夜中であろうと死体の引取りを要求され、葬式のしきたりで遺族と親族が対立する。死と同時に配偶者や扶養家族の保険資格が喪失してケガも出来ない。
死んだ人が、社会的手続きをきちんとしておかないと、残された者は大変な目に遭う。
社会が営利的、利己的で複雑過ぎるのだ。

財産など持たないことだ。
私は病気になることはないし、事故に遭うこともないが、もし、心にスキがあって重い病気にとりつかれたら、食を絶つ。それで苦しまずに、動けるまま余裕を持って死ねるということもあるが、経験と直観で言うなら、老衰の時期でもなければ、それで病気も治ってしまうだろう。そして、別に、治らなくても構わない。私は死など少しも恐くは無い。
普段から、食を厳しく慎んでいると、病気にならないし、事故にも遭わない。心を前向きに明るく保ちやすいからだ。そして、万一重病になっても、死に備えて食を断つことも容易い。しかし、その時、美味しい饅頭の1つでも食べたら、「こんな美味いものが食えるなら、生きていることにしよう」と生命力がムクムク盛り返して元気になってしまう可能性も高い。なら、時々死にそうになることにも意味がある。古事記の天照大神の天の岩戸のお話は、案外にそんな意味があるのではとも思う。

死は恐くもなければ、悲しくもない。
死んだら千の風になると聞いたなら、いつまでも世間の信念に従わず、泣いたり悲しんだりしないことだ。
千の風とは、千の生まれ変わりだ。我々は死の直後に新しい身体に生まれ変わる。生きている間に、個人の心が至高の英知に従うよう訓練していれば、生まれる前のことも憶えているし、その生は幸福になる。仏教で言う極楽浄土、現代的に言えば他の進化した星に生まれるかもしれない。いや、心が至高の英知と溶け合っていれば、どこでも天国である。
個人的な欲望を持たず、心が宇宙の意識である至高の英知と溶け合えば、死がなんら恐ろしいものでないことが分かるだろう。
私には葬式も墓も無用だ。そもそも、この世の者ではない私の葬式に好きで来るものなどいない。
私は、年配の人に言われたことがある。「人の価値は、葬式の時に進んで来てくれる人の数で決まる」と。それは世間の価値であり、私には関心がない。
だが、今は、大半の人が世間の信念の泥沼の中にいる。彼らを刺激しないためにだけ、私も葬式には行く。結婚式も同様だ。「荘子」にも、一応の世間のしきたりに従う賢者の話がある。しかし、全く従わない賢者も登場する。そして、今は、当時から2400年も経つのである。私は賢者ではないが、愚かでもないというだけのことである。







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心を観察する心を観察できるのか?

「自分の心を見つめる」という言い方がよくあると思う。
インドの聖者や、西洋の神秘家にも、自分の心をただひたすら観察することを、一種の訓練のように指導する者もいる。

しかし、それは無理なことだと言ったらまずいだろうか?
「マザー・テレサを尊敬する心」
「シャガールの絵に感動する心」
「クラスメイトのあいつを嫌なやつだと思う心」
「あの美少女に情欲を感じている心」
「大ヒット映画を見て面白かったなあと思う心」
どれもちゃんと観察できるじゃないか・・・・と言われるかもしれない。
だが、よく考えてみよう。
例えば、一輪の花をきれいだと感じている心がある。その心を観察している。
では、きれいだと感じている心を観察する心は何が観察するのだろう?

2004年のアメリカ映画「サンダーバード」で、国際救助隊の宇宙ステーション(サンダーバード5号)がミサイル攻撃を受け、それに乗っていたジョンの救出のためにサンダーバード3号が飛び立つ場面がある。
ミサイルを放ったフッド(テレビシリーズからの悪役。超能力者)はそれを見て、「救助隊は誰が救出するのかな」と言うのを、私は印象的に憶えている。
誰も救出できないという意味で、フッドはそう言ったのだ。
救助隊は救助隊自身で救助しなければならない。自らを助けるしかないのである。

では、花をきれいだと思う心は誰が観察するのか?
心は心自身を観察できるだろうか?
それは出来ない。もし、そんなことをするなら、合わせ鏡になってしまう。
鏡と鏡を向かい合わせれば、それぞれの鏡の中には、2つの鏡が無限に写る。
自分を含めた風景を描いている画家が、絵の中のキャンバスの中に、自分と自分が描いている絵を無限に描かないといけないようなものだ。

救助隊はなぜ自分を救助できるのだろう?
それは、身体を救出すれば終りという制限を設定するからだ。
面白いことに、国際救助隊のリーダーであるジェフは、隊員である息子達を危険な目に遭わせるという葛藤に苦しむ自分の心は救えない。制限が付けられないからだ。

心自体を観察してはいけない。
だが、心は身体と全く等しいものだ。
心が病めば身体も病む。身体を健やかにすれば心も明るくなる。心身医学という言葉があり、心身医学の父と呼ばれるゲオルク・グロデックは、一切の病気は心因性と断言した。エミール・クーエは自己暗示の力で、医者が治せない難病をわずかな時間で癒した。
身体の中には、神経的に敏感な部分がある。インドではそれをチャクラと呼ぶし、中国では経穴 (けいけつ)と言い、一般的にはツボと言う。それらは経験的な洞察であるが、人により、特に敏感な場所は異なる。
そういった神経的に敏感な部分、心の動きをよく表す部分に意識を集中すれば、心を客観的に観察できる。胸、鳩尾(みぞおち。みずおち)、下腹部(丹田)などがそんな場所として知られる。額や頭頂に集中することがその目的に適う人もいる。
手塚治虫さんは医者で、自分や他人の身体を徹底して観察する中で漫画のストーリーの発想を得たのだと思う。彼は、晩年になって腕の衰え(特にハイスピードで描く能力)を感じた時でも、「アイデアはバーゲンするほどあるんだ」と言っていた。それは本当だと思う。
あるいは、実は身体と対応した存在である宇宙を観察するのも良い。これは秘法中の秘法だ。声優で歌手の水樹奈々さんは、非常にスピリチュアルな詩を書くが、彼女が天文や宇宙に深い興味を持っていることは偶然ではないと思う。







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嫌われたっていいじゃないか

岡本太郎は、1976年に、キリン・シーグラム社のロバート・ブラウン発売2周年記念に「顔のグラス」を制作した。これは、ウイスキーグラスの底に、岡本太郎が顔をデザインしたものだ。
この時、岡本太郎が、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と言ったのがよく知られている。
ところで、そういった「○○でもいいじゃないか」という言い方が実に岡本太郎らしい。
「誤解されたっていいじゃないか」
「片思いでもいいじゃないか」
「嫌われたっていいじゃないか」
「死んだっていいじゃないか」
岡本太郎が言うと、全く嘘偽りが感じられず、そのまま響いてくる。

心は、誤解されたくない、片思いじゃ嫌だ、嫌われたくない、死にたくないと思う。
しかし、「それでいいじゃないか」と言って、さらりと宇宙の英知にまかせきってしまうと、心はその中に溶けていく。
宇宙の英知と溶け合った心は、それに似てくる。人でいながら神になるとはそのようなことだ。
ただし、本気で「いいじゃないか」と決意しなければ駄目で、決意したフリなど通用しない。

岡本太郎は、「産んでもらったんじゃない。生まれてきたんだ」と言う。
いきはよいよい、かえりはこわい。
「行きは良いが、帰りは・・・・。それでも良いか?」「良い!」
我々はそうやって生まれてきた。
子供たちは、そういう輪廻転生の歌を毎日歌ってきた。そして、この世の定めを心に刻んだ。それとまっすぐに向き合った。しかし、今の子供はそれをしない。
帰りは闇である。しかし、それに敢えて挑み、深い闇を解き放つことで自由の扉を開くのである。
「闇でもいいじゃないか」
そんな強さを身に付けることも人生の目的なのかもしれない。

ところで、ここでとりあげたわらべ歌の「とおりゃんせ」は、ゲーム機なんかなかった時代では、我が国では、子供達が集まってよくやっていた。
男の子が腕で門を作り、皆でこの歌を歌いながら、女の子がその下を通る。つまり、男の子と女の子が一緒に遊べるものだ。
歌の終りで、男の子がさっと腕を下ろすと、女の子が1人捕まる。それが、女の子にとっては恐くもあるがスリルでもあり、この遊びの楽しさの一つだろう。
ところが、可愛い女の子はやたらと捕まるものだ。
歌は「とおりゃんせ、とおりゃんせ~」と最後が長く伸びる。好きな子が来るまで伸ばせば良いのである。
だが、しつこく捕まえようとする男の子は好かれない。良い女の子は、公平無私な男の子が好きだ。そして、天神様のはからいでたまたま捕まえられた時に生命がはじけるのである。




【ETERNAL BLAZE】
今回の記事を書いていたら、この歌は「とおりゃんせ」と全く符合するように感じた。
水樹奈々さんの2005年の歌。作詞も彼女自身の手による。水樹さんは、2009年に続き、今年も紅白歌合戦の出場が決まったようである。
最初、たまたまこの歌を聴いた時、彼女がこんな可愛い人だとは思わなかった。




【歓喜】
岡本太郎の、魂から響いてくる貴重な作品と言葉。
人生そのものが芸術であった岡本太郎の激しく破天荒なエピソードも満載である。

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大自然との合一

「美人だなあ」とか「スタイルがいい人だなあ」と言われて嬉しくなることがあるかもしれない。
しかし、不思議だ。
嬉しいというのは、心の働きだ。
しかし、褒められたのは身体のはずだ。なぜ心が喜ぶのか?
逆に、「ブスだね」「デブだね」と言われて怒ったり、悔しがったりするのもおかしいかもしれない。
貶されたのは身体であって心ではない。

ところが、こんなこともある。
心が長期に渡って辛いことを感じると本当に病気になる。辛いのは心のはずが、身体が病むのである。
逆に、楽しい知らせを聞いて、身体が元気になったりする。
今のところ、うまくやれる者は少ないが、精神分析で心の中の抑圧を除くと、病気や身体の悪い症状が劇的に改善されることが実際にある。
精神分析ではないが、エミール・クーエは自己暗示で、難病を奇跡のように治した。クーエの方法が広く使われたら医者は廃業になるかもしれない。

これらのことは何を意味するのだろう?
それは、身体と心が同じものであるということだ。
賢い人はそのことを知っているので、身体を治療するにも、身体にあまり注目せず、心を治すことで簡単に身体を治す。こういった医療を心身医学という。
逆に、心を治療するために、運動したり、健康的な食事をして身体のコンディションを良くすることで効果を上げることも多い。
ゲオルグ・グロデック(心身医学)やリチャード・パンドラー(神経言語プログラミング)らは、器質性の病気も全て心因性と決め付けているようだが、それで相当な成果を上げている。

だが、身体の複雑精妙な働きを心が知っている訳ではなく、ましてや、心が支配しているわけではない。
心が無理矢理、「病気よ治れ」と念じて、病気が治る訳ではない。
同じく、心の摩訶不思議な働きを心自身が知る訳でもない。それどころか、「自分のことが一番の謎」と言われるほど、心は心のことを何も知らない。
しかし、身体も心も、見事に機能している。
それならば、一体である身体と心を創った者がいるのだろう。少なくとも、それが大自然であることは誰しもが認めると思う。
なら、大自然には計り知れない知恵があると考えねばならない。
この身体が偶然に進化したものであると考える者は愚か者であるに違いない。それは、サルがデタラメにキーボードを叩いたらエンサイクロペディアが出来る可能性があると言う様なものだ。
我々は大自然の一部であると考えるなら、その大いなる知恵は宇宙全体を創ったのだろうと想像できる。なぜなら、身体の中に見られる諸法則は宇宙全体を動かしているものと矛盾せず、同じものであるからだ。
人は、あらゆる存在の中で、唯一、自由意志を与えられているのには訳があるのだろう。
人生の謎はそこにある。その自由意志で偉大なこともするかもしれないが、数え切れない悲惨や不幸を生み出している。
心は、身体の働きすら完全に理解する可能性を持たない。だが、そんなことを楽々とやれる、かの大いなる知性に従うことは出来る。
心はこの大いなる知性に従うことで、それと溶け合い、一体となれるに違いない。
エマーソンは「神が心に流れ込んできた瞬間は忘れることができないものだ」と言ったが、それは、心と大いなる知性が溶け合うことを言っているのだろう。
アブラハム・マズローの至高体験、ロマン・ロランの大洋感情、W.B.イェイツのエクスタシー、夏目漱石の天賓、岡本太郎の爆発・・・いや、一級の芸術家でそのことを言わなかった者は1人もいない。
賢者達は、短い言葉でそれを言い表した。例えば、

なりゆきにまかせろ
南無阿弥陀仏
アーメン(然り)
なるようになる
この世に偶然はない
Let it be
全ては神の思し召し

といったようなことだ。これらを、その結果に何らの憂いもなく、自らの意思として肯定できることが、かの大いなる知性に従うということで、そうすれば、人生からあらゆる苦悩が消えることとなる。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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