ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

姿も年齢も地位も名前も全て忘れる

形を忘れなければ幸福になれず、生きがいもなく、心安らかでいることもできない。
自分は背が低いから駄目だとか、もう40歳を過ぎたから先が見えたなどというのは、あまりにも形に囚われているのだ。

私が知っている、一番もてる男は、身長が157cmだった。
ジャイアント馬場さんは207cmもあって、かえってそれで劣等感を持っていた。しかし、馬場さんだって、そんなことに悩むべきではなかったのだ。
そして、157cmと207cmでは、たったの50cmしか違わない。

ルイス・キャロルは、60歳を過ぎても、少女のガールフレンドが一杯いた。彼は、生涯に渡り、少女にばかり、膨大な数の手紙を出したが(男の子にも1通だけ出していることが確認されているらしいが)、その中に、秘訣らしいことが書かれている。それは、「忘れることはこの上なく楽しい」ということだ。彼は、自分の年なんて忘れていた。彼と長い間親しかった少女は、彼が60歳を過ぎても、顔にしわ1つなく、若々しかったことを書き残している。歳を忘れれば、歳など取らないのだ。
実は、私もそうだった。ある時期、家の前は遊びに来る少女達が鈴なりだった(私は20歳を過ぎていた)。みんなとても可愛い小学生で、ちょっと家族を心配させたようだが、同じ目線に立っていれば、対等に付き合えるものだ。
ゲーテにいたっては、70歳を過ぎて10代の美少女の恋人がいた。しかし、彼はかっこいいおじ様などではなかった。確かに、彼は、若い時は美青年だったが、中年過ぎた頃、彼に憧れて彼の家を訪れた青年が、あきらかな失望の色を示すほど肥満して醜かった。しかし、その頃も、ずっと若い恋人がいたのである。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、ある時、掛け軸にするための書を書いて、人に授けた。その字を見た優れた書家が、文字から溢れる人徳の高さに感動したが、よくよく見て、「これは18歳か20歳の人の書いた字のようだが、その若さでこれほどの人徳があるとは・・・」と不思議がった。それを書いた宗忠は68歳だったが、確かに、18歳の気分で書いた書だったのだ。宗忠は、年齢などどうにでも出来たのである。そして、習い事をする時は、8つの子供のつもりでやれば上達しやすいと言っていたようだ。
ジョセフ・マーフィーも、神に頼みごとをする時は、8つの少年にならなければ駄目だと言った。そして、一途に神を信じるなら、どんな願いも叶うのである。

『荘子』に、最悪の醜男が、男にも女にももてまくる話がある。若い娘は妾でもいいから側に置いて欲しいと言い、男は皆、彼と義兄弟の契りを結びたがる。王様は、彼に国の政治を任せて、共に国の繁栄を喜ぶことを生きがいとしたがる。しかし、その男は、醜いばかりか、何もできず、知恵や見識がある訳でもないのだ。
荘子は、孔子の口を借り、その秘密を語る。この男は、あらゆる作為を捨て、道(タオ)と一体化しているので、皆、彼の形など忘れてしまうばかりか、彼から感じる、道に惹きつけられるのだ。詳しい説明は、『荘子』を読まれたい。
道元は、仏道(仏教)を一言で言うなら、「自己を忘れること」と言った。
姿、年齢、地位、富、名前、家柄・・・その程度のことすら忘れれば、天下無敵である。ましてや、自己の全てを忘れれば、神や仏に等しい。
中島敦の『名人伝』(『列子』にもほぼ同じ話がある)では、天下一の弓の名人が、ある時、なにかの道具を見て、どこかで見たことがあると思うが、それが何かどうしても思い出せなかった。それは・・・弓だったのだ。









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巨大な力はこうして与えられる

石森章太郎(後年、石ノ森章太郎に改名した)の代表作の1つ、『サイボーグ009』は、テレビアニメよりも映画が先だった。『サイボーグ009』とは、戦争用の兵器を開発し、世界中の国に売って莫大な利益を上げるブラックゴーストという団体が、究極の兵器として、人間を改造して超人化するサイボーグ戦士の研究開発をしている中で作られた、9人のプロトタイプ(試作品)のサイボーグ達が、自分達を生み出したブラックゴーストと戦うという物語だ。
その最初の映画作品の中で、9人のサイボーグ戦士達と共にブラックゴーストから脱走した、サイボーグ戦士達の開発者であるギルモア博士が、009こと、ジョーにこう言う。「お前が9人のリーダーだ。なぜなら、お前は、他の8人よりはるかに優れたサイボーグだからだ」と。
これを聞いて、私は、「なんでやねん」と思ったものだ。009がサイボーグとして優秀なのは、一番最後に改造され、他の8人を改造したノウハウが活かされているからで、別に、ジョーが何か努力した訳でも、優れた人間的資質を持っている訳でもない。つまり、たまたまなのだ。しかし、ジョーは、自分がリーダーであることを了承する。
脚本家の意図は知らないが、これには深い意味がある。
例えば、巨大な権力を持つ王が、息子の王子に、「お前が次の支配者だ。良い王にならねばならぬ」と言っても、王子は、自分はたまたま王子として生まれただけだと言うかもしれない。しかし、彼は次の王なのだ。その自覚を持たねばならない。
そして、王子が王子として生まれたことは偶然ではない。ジョーが優れたサイボーグになってしまったのも偶然ではない。
世の中には、天才の素質を持って生まれてくる者もいる。その者が天才であることもまた、偶然ではない。彼は、天才の素質を与えられた者としての責任を自覚しなければならない。

永井豪さんの『マジンガーZ』では、兜博士は、巨大な超高性能ロボット、マジンガーZを開発し、孫の甲児に与える時に言う。「どんな使い方をするも、お前の勝手だ。世界を征服したいならそうしろ」と。
やはり、兜甲児は、その巨大な力を与えられた責任を自覚しなければならないのだ。

CLAMP(4人組の女性漫画家)の『魔法騎士レイアース』では、3人の14歳の少女達は、魔神(ましん)と呼ばれる巨大ロボットを与えられるために、心の強さを示さねばならないという試練が与えられる。その試練を克服しない限り、魔神は与えられない。しかし、「この世に偶然はない」がポリシーのCLAMPの作品である。3人の少女が魔神を得ることは、最初から決まっていた。ただ、少女達が成長し、力を持つ自覚が必要というだけのことだったのだろう。

『涼宮ハルヒの憂鬱』で、SOS団が野球大会に出た時のことだ。「超能力者」のイケメン男子、古泉一樹は、主人公のキョンに言う。
「我々はくじを引いた。結果、あなたが4番(バッター)になった」
「嬉しくないぞ!」
「涼宮さんが、そう望んだからです。偶然ではありません。」

我々は、先に力を与えられる「マジンガーZ」式か、後で力を与えられる「魔法騎士レイアース」式に分かれる存在だ。前者は極めて少なく、多くは後者だ。しかし、結局は同じなのだ。成長し、責任を自覚すれば、巨大な力が必然的に与えられる。しかし、自覚できずに一生を終える者がほとんどである。
アイザック・ニュートンは、「私の才能は神から預かっているだけだ」と言ったが、あなたにも同じだけのものが、遅かれ早かれ与えられるのだ。
力を持つ責任を自覚するためには、3人の少女達のように試練も必要だ。人生の前半、あるいは、人によっては、かなり遅くまで試練に見舞われることになる。試練が無くなれば、もう見捨てられたということだ。試練を喜べ。あなたは、力を得ることになるからだ。









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生きがいの見つけ方

生きがいを持つにはどうしたら良いかというコメントが多くあった。
世間では、むしろ、夢を持つにはどうしたら良いかという話が多いが、本当は、皆、生きがいが欲しいのである。
夢というのは、将来の希望のことであろうが、それは幻想に過ぎない。生きがいをもって生きていれば、未来なんかどうでも良いはずである。
Winkの『One Night In Heaven ~真夜中のエンジェル~』なんて歌にもあったが、「今一瞬が全て」である。

生きがいとは、快楽ではない。
美味しいものをいっぱい食べるとか、美女をはべらせるとか、イケメンにかしずかれるなんてのは、生きがいを奪いこそすれ、決して生きがいにはならない。

生きがいとは、リアルに生きることだ。生きていると実感できることだ。
サルトルは、戦火の街を歩き回った時、生きていることを強く実感し、精神が溌剌とするのを感じた。
ロシアン・ルーレットをご存知だろうか?回転式弾倉を持つ拳銃(リボルバーという)に弾を1発込め(2発以上のこともあるが)、弾倉をでたらめに回転させた後、銃口を自分のこめかみに向け、引き金を引くのである。「カチッ」という音がして、命拾いをした時、生きているという実感が、ふつふつと沸き起こる。無論、命が助かっても、精神を破壊してしまう危険はあるが、そうでなければ、これは病みつきになるという話もある。

もちろん、そういった過激なことをやるべきではない。
だが、ヘミングウェイやトルストイといった、生の喜びを鮮やかに表現した文豪達がギャンブル好きであったように、賭けというものは、リスクが大きいほど、妙に生きている実感を感じさせるのだ。
ギャンブルってのは、長くやっている人というのは、儲けることが目的ではない。スリルを感じることが目的なのだ。

人生の岐路に立った時、理屈や計算で道を選ぶと後悔するものだ。そんな時は、素直に好きな方を選ぶべきだ。得な方ではない。好きな方だ。
そして、どうしても分からないなら、駄目になりそうな方、損な方を選べば良い。
岡本太郎は、常に、破滅する方を選んだと言っていたが、彼は、さぞや生きがいに溢れていたことだろう。
それも恐ければ、せめてコインを投げることだ。

岡本太郎は、軍隊時代、30も過ぎて、18や19の兵隊達と一緒に最下級の2等兵として中国大陸に送られた。
旧日本軍とは愚かなものであったらしく、夜中にしごきと称した、上官のいじめがあった。上官は下級兵を部屋に呼び出し、殴って日頃の鬱憤を晴らすのである。
1人の上官が、次々に獲物を呼び出す中、岡本太郎は、いつも4番目に行った。殴る方は、4番目が一番調子が出るからである。

まあ、そこまで気合を入れることもないし、本当は、入れてはならない。
岡本太郎も、結局は病気で死んでしまった。やはり無理があったのだ。とはいえ、普通の人とは比較にならない生きがいある人生だったろう。しかし、我々は、彼を超えなければならない。

1つには、腹を鍛えなければならない。
その意味はというと、どうも現代人は、理屈というか、ちっぽけな知性や思考にとらわれて生きがいを失くしているからだ。
腹を鍛えるとは言っても、腹筋とか、インナーマッスルという意味ではない。腹にある、生命力の根源を活性化させるのだ。
腹を鍛えれば、頭の考えが慎んで引き下がり、腹の中から生命力が湧き上がることに、例えば、D.H.ロレンスのような作家はよく気付いていた。彼は、そのことについて本を書いたが、「これを読もうなんて自惚れるな」とまず釘を刺すのを忘れない。
複式呼吸のやり方をいろいろ工夫すると良いだろう。
だが、別にこだわる必要はない。複式呼吸など不要という人もいる。
分かりにくければ、下腹部に片手を当て、腹に常に力を入れると良い。黒住宗忠は、いつもそうしていた。宗忠は、元々は凡人だったが、後に、キリスト級の超人的な神人となった。

そして、後は、信頼する神なり仏に全てを任せ、何も心配せずに生きることだ。
だが、別にそれで、良いことがあるとか、願いが叶うということではない。そんなことも込みで、全て任せるのである。
何か思いが浮かぶごとに、「南無阿弥陀仏」と念仏でも唱えるのも1つの手であろう。
あるいは、腹に力を込めることでも意識すれば、思いは消えるだろう。腹の鍛え方の指導では、日本屈指であった、明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、「腹から力が抜けた時に悪しき考えを起こすのである。腹から力を抜いてはいけない」と言ったという。
ラマナ・マハルシは、常に、「私は誰か?」と問えと言ったし、ニサルガダッタ・マハラジは、「存在する」という感覚に常にしがみつけといった。
気に入った1つをやれば良いと思う。

そうやっていても、困難は起こるだろう。
だが、それが良いのである。困難がなければ、腹に力を込めることも、念仏も長続きはしない。苦難を歓迎するまでになれば、そろそろ生きがいも掴めるであろう。
くれぐれも、得をしようなどという、浅ましいことを考えず、人に親切にすることだ。そうすれば、きっと生きがいは見つかるだろう。









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人には生きがいが絶対に必要である

先日、テレビ放送されていた、アニメ映画『ルパン三世 血の刻印~永遠のmermaid~』で、ルパンが長年の相棒、次元大介に珍しいことを尋ねていた。
「何のために泥棒をしている?」
次元は、割とあっさり、「美味い酒を飲むため」と答えた。
ルパンは、それを肯定しながら、それだけではないはずと、煮え切らない態度をとった。

昔の子供向けアニメでこんな場面があった。
1世紀ほど前のヨーロッパと思えばいいが、母親と8歳か9歳くらいの娘が、夕飯の買い物をしていた。貧しい庶民である。
母親が、夫の酒を買おうとすると、娘が嫌がった。酒を飲んだ父親が恐いからだ。きっと、母親に暴力をふるったりもしているのだろう。
だが、母親は、「男の人は、家の外で嫌なことが沢山あるのよ。お酒を飲まないではいられないの」と言って、娘を諭す。
なんともよく出来た妻である。だが、やはり賢い妻ではない。
浮世のうさを晴らすために酒を飲むと、不幸になる一方だ。酒は、なんの解決にもならない。
酒は快楽物質であり、麻薬的な常習性がある。快楽を求めて飲むと、どんどん量が増える。行き着く先は破滅である。
酒を飲むこと自体が良いかどうかはさておくが、飲むなら楽しく飲むべきである。そして、酒を楽しく飲むには、酒の快楽に優る楽しいことが必要だ。
いや、酒だけではなく、快楽に飲み込まれないためには、本当に楽しめることが必要なのだ。
官能作家の団鬼六さんは、性の喜び、楽しさを大いに説くが、性の快楽というものも、あくまで、人生の生きがいあってこそのものだ。性の喜びは生きがいにはならない。それしか無い人間が、いかに不気味に醜いかは想像がつくはずだ。

ルパンも、別に難しく考えることはなかったはずだ。人間は、生きがいが必要だってことだ。
それを次元は、「美味い酒をのむため」と、端的に言ったのだ。生きがいがあれば、楽しく酒を飲めるのだ。

道元が中国に行っていた時、故人の語録を読んでいると、高僧が、「何をしているのだ?」と道元に尋ねた。
「貴い人の言葉を読んでいます」
「何のために?」
「知恵を得るためです」
「知恵を得てどうする?」
「人々を救うのに役立てようと思います」
「それが何になる?」
そう言われて、道元は答に詰まった。
道元は、庶衆救済の志を述べたのに、「それが何になる」と言われても仕方がない。
これが、ルパンに浮かんだ、「何のために泥棒をするのか?」だろう。
答は、言うまでも無く、「生きがいだから」である。
生きがいでもないのに、キリストぶって人々を救おうとすれば、虚栄心か富の欲望に満ちた、愚かな宗教家になるだけである。

以前、細木数子さんはよく、「あんた死ぬわよ」と言ったものだが、いい年になって生きがいを持っていないと、本当に死にかねない。
ただ、生きがいとは、快楽でも自己満足でもない。それをやっていれば、死んで悔いなしというものである。
酒もセックスもゲームもスポーツ観戦も、自分の生きがいあってこそのものであることを忘れてはならない。









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男は弱く、女が強いのが自然である

古代の遺跡に、「今の若いものはだらしがない」と書かれていたものが発見され、結局、これは、いつの時代でも年配者の普遍的な思いなのではないかと言われたりした。
ところで、もう1つ、時代を問わずに言われ続けていると思われることがある。
それは、「男が弱くなってきた」「女が強くなってきた」だ。つまり、いつでも女が強く、男は弱かったのだ。
特に、日本は母系社会だったので、なおさらそうであると言われることもあるが、母系社会でなかった国なんてあるのかと思う。
日本に最初に降り立った神は、男神のイザナギと女神のイザナミであるが、地上で最初に誘いをかけたのはイザナミの方だったのだ。一応、これは良くないとされたが、事実はそうだったのである。アダムとイヴだって似たようなものだ。
今、肉食系女子とか、草食系男子などと言われるが、日本でも世界でも、スタートからそうで、実際は、ずっとそうだったのである。
そもそも、我が国の、天地を照らす、最高の日の神、天照大神は女神である。古事記や日本書紀以前からあったという説もある『ホツマツタエ』では、天照大神は、アマテルという男神で、勇猛で強くはあったが、優しく繊細な、女性的な神であったと思う。

男は強く、男が積極的に女に迫るというのも、多分、迷信か作り話だ。ただ、そんな構図がどこか面白いので、お話としては、そういった演出を好む傾向はあると思う。しかし、実際はそうではない。
漫画家の永井豪さんは、作品の中で、肉食系と言ってよい、積極的で精力旺盛なヒーローを好んで描いていたように思う。日本男児、かくあるべしといった感じだ。
いまだ主題歌がよく知られている、『マジンガーZ』の原作漫画で、ヒロインの美少女、弓さやかが、おじいさんが多い博士達に服を脱がされそうになっているところに、マジンガーZのパイロットで主人公の兜甲児が通りかかると、博士達が、「これには訳が・・・」と言い訳をする。いまなら、とんだセクハラ漫画だ。しかし、甲児は、「男が女を脱がせるのに訳なんかある訳ねーだろ!」と、妙な理解を示す。実は、博士達が新しく開発する新型ロボットをさやかの体形に似せるために写真を取るつもりだったようだ。いかにも、甲児が肉食系の男子のように描かれるが、甲児が写真を撮ることになって、さやかはあっさりヌードになるが、甲児が照れて水着の写真になるというおちだ。さやかは、全く平気だったのだ。
今も昔もそれが自然なのである。

『ルパン三世』でも、ルパンは峰不二子に積極的に迫っているように見えて、いつも不二子の言いなりである。また、ルパンはいい女に見境ない色キチガイに描かれることもあるが、実際は、作品中で、女をモノにしたことなど一度もないのだ。
ルパンは、『カリオストロの城』で、17歳の美少女クラリスに心から慕われるが、やはり、未練を感じながら、あっさり立ち去る。
ルパン三世のおじいさんのルパン一世にも、そんなお話がある。『緑の目の令嬢』に登場する美少女オーレリィとのことだ。だが、ルパン一世も、やはり、孫と同じようなことをしたものだ。

「男は強いもの、積極的なもの」という幻想を持った男は、時として問題を起こす。それが不自然なことなので、制御が効かないのかもしれない。最近も、柔道のオリンピックチャピオンが馬鹿なことをやって世間を騒がせている。彼は、本当は良い人なのかもしれないが、周りも自分も、彼は強い男であるという奇妙な幻想を持っていたのだろう。たかだか1人の人間の肉体の強さがどれほどのものだろう。
昔の漫画やアニメでは、忍者ものやスポーツ根性ものの作品で、1人の人間の鍛え上げた身体やその能力を壮大に描き、流行にもなったが、その後、『美少女戦士セーラームーン』や『新世紀エヴァンゲリオン』では、鍛錬という言葉と縁のなさそうな少年少女が、何の努力もなく、一瞬で巨大な力を得てしまう。ただ、それだけではなく、真の強さとは、破壊の力ではないのだということも描いた、見るべきところのある作品で、もう、当たり前のスポ根ものや忍者ものが復活することはないだろう。

人類の初めから、未来永劫、男は草食系で、女が肉食系なのが当たり前で自然なのではないだろうか?
自然な状態では、男は、あの柔道チャンピオンのような異常なことはしないものだ。これは、まだ信じられない人が多いかもしれないが、本当のことである。
女性が社会進出し、高い地位を占める割合の高い国ほど、良い社会を築いているものである。日本も、昔よりはマシになったが、まだまだだ。
そもそも、我が国では、昔は、男は働かないものだった。男は、ものぐさで、自分勝手で、精神的にもろく、実際は働くことに向いていない。仕事の出来る男なんて、案外に女性的なのではないかと思うのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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