ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

学校で言われない英語を学ぶ目的

世間で聞く英語の奨めは、英語ビジネスの宣伝か、学校の妄想かだろう。
ビジネスや政治のような大きな利益の絡むことで中途半端な英語など危なくて使えるはずがない。TOEICの成績が満点に近かろうが文化の理解や専門知識が無ければ中途半端は中途半端だし、日本語で話したって深刻な失言をするのに、ましてや、外国語では、自分で気付かないうちに、ピストルで撃たれても仕方がないようなことを言いかねない。多分、本当だと思うが、大リーグで活躍した日本のプロ野球選手が、缶コーヒーを飲んで「苦!」と言ったら、近くにいた巨漢の黒人選手に殴られたらしい。ニグロ(黒人)と言ったのと勘違いされたのだ。ニグロは学術用語ではあるが、アメリカでは人種差別を感じさせる言い方だからだ。
また、イケメンの西洋人や金髪の美少女の恋人が欲しいという願望が悪いとは言わないが、そのために英語を学ぶというのは順序が逆で、そんな恋人を作って、彼、あるいは彼女に英語を教われば良い。そもそも、向こうが必死で日本語を覚えるようでなければ、近付きになれても、奴隷や下僕みたいなものだ(それでもいいのかもしれないが)。

私は、英語は中学生レベルも怪しいが、少し勉強しようという気になってきた。
英訳の『老子』や『バガヴァッド・ギーター』に興味があるからだ。
これらの原典は、中国語やサンスクリット語(インドの古代言語)で、日本語の翻訳も沢山あるが、英訳に極めて素晴らしい名訳があるようなのだ。
『老子』は、日本語への翻訳の際、英語訳を参考にするのが常識と言って良いほどだ。
英文学者の加島祥造さんは、タオイスト(老荘思想愛好者)を自称しているが、和訳された老子を読んでもさっぱり分からなかったが、英訳の老子を読んでやっと分かったという。いかに英文学者でも、やはり日本語の方が明快なはずだが、それでも英訳の方が良かったのである。
日本語で書かれた『バガヴァッド・ギーター』は、原典からの翻訳を売り物にする本がほとんどだが、英訳から和訳した三浦関造さんのものが素晴らしいのである。これも、やはり英語の名訳があるからだ。
中国語すらそうだが、インドの言葉も、日本語よりはるかに英語的なのである。そして、『老子』や『バガヴァッド・ギーター』は叙事詩なのであり、芸術、文学、哲学などを深く理解する者が英訳したものが素晴らしいというのは当然かもしれない。そして、優れた英語版から和訳した三浦関造さんはヨーガの大家で、古代インドの思想に詳しい。彼の和訳が格調高く、心に響くのは当然かもしれない。

私は、人類の至高の聖典は、『エメラルド・タブレット』と『バガヴァッド・ギーター』であると思う。しかも、これらは、原典がはっきり残っており、回りくどい神話で書かれていないところも良いと思う。『老子』は後の加筆や改ざんがいくらかはあるし、漢字一字ですら、その意味に諸説あるほどだし、『聖書』は、やはり改ざんの問題と共に、あまりに象徴的に書かれていて、理解が容易ではない。ただし、直観を働かせて読むなら、『老子』や『聖書』の価値もまた計り知れないのも確かである。
尚、『バガヴァッド・ギーター』は神話の一部ではあるが、教えそのものは直接的に書かれているのである。

『エメラルド・タブレット』は、2万年前に書かれた純粋なものの原典はアトランティス語で、それの直接の翻訳は、ドーリル博士が英語で書いたものだけだ。これは、日本語の翻訳が2つあり、翻訳者のプロフィールなどから、共に素晴らしいと思うが、大変な冒険の末、エメラルド・タブレットを発見した、そして、大賢者であったドリール博士の英訳も味わってみたいものである。
こういったことのために、英語を学ぶというのは、非常に良いことと思うが、そのようなことを、世間では誰も言わないのである。

下に、三浦関造さん訳の『バガヴァッド・ギータ』である『至高者の歌』、英訳を参考にした小川環樹さんの名訳である『老子』、そして、『エメラルド・タブレット』をご紹介しておく。
三浦関造さんの『至高者の歌』は文語で、やや読み辛いと思うかもしれないが、文語に慣れていない私が読んでも、非常に心に響くのである。ただ、田中嫺玉さんの、サンスクリット原典からの翻訳も、分かり易い上、解説も丁寧だ。田中嫺玉さんは、三浦関造さんの『至高者の歌』も参考にしたことも書いている。
尚、『至高者の歌』は、旧版は校正に誤りが多いので、古書を買う際は注意されたい。下記に紹介したものが最終版である。三浦関造さんは昭和35年に亡くなられているが、ヨーガの大研究者であった彼の著作を絶やしてはならないと思う。









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手塚治虫へのアンサー

裏話の無い業界など存在しない。
どんな業界にも裏話は存在する。
しかし、予想も出来ない裏話なんてない。
もし、業界の裏話とかを聞いて、それほど意外に思うなら、それは、人間に対する認識が誤っているのである。

世間で話題になるような業界の裏話を聞いた時の私の反応は、「デマだな」「どうでもいいことだ」か、せいぜいが、「そういうこともあるだろうさ」程度までである。

例えば、現在では裏話ではなく、「表話」になってしまったが、政治家が、民間企業に天下りし、仕事もせずに多額の報酬や退職金を得ているという話を聞いても、良いとは思わないが、別に驚かない。「そんなこともあるだろさ」か、あるいは、「私がその立場なら、やるだろうな」程度だ。自分がやりたいことを、他人がやって何の不思議があろう。どうも世間の人は、自分のことを顧みず、他人が聖人君子であることを強要する傾向があるようだ。
まあ、これなどは、同意される方も多い話ではあるだろう。

もちろん、天下りや、あるいは、賄賂等が仕方がないと言っているのではない。
しかし、普段、善人面の私だって、その立場なら絶対にやるのだ。
必要なことは、人格者であることやモラルの向上を訴えることではなく、悪の誘惑で間違いを犯す可能性があることに関しては、それが出来ない仕組みを作ることだ。

業界と言っても別におかしくないと思うが、警察の裏側なんて本当にいろいろあり、元警視庁刑事がテレビで色々とそれを暴露したり、本に書いた人もいたが、もし、警官や警視庁職員にでも知り合いがいれば、色々面白い話を聞かせてくれるものだ。私も、テレビで聞いたことのない面白い話を沢山知っている。
しかし、昔、それを聞いた時は、驚きの混じった面白さを感じたが、今考えれば、特に不思議なことでもないことばかりだ。
良い意味でも、悪い意味でも、警察に対する偏見を持たず、人間の性質といったものをそれなりに理解すればそうなると思う。

大相撲が、麻薬や八百長で騒動が起こる度、協会の腐敗振りが暴露されて批判されるが、私は別に何とも思わないのだ。あそこまで、幹部に対する規制がなければ、私だってやるに違いない。

チョコレートが好きな人は多いだろうが、原料のカカオの採取なんて危険な仕事だ。それは貧困国で人身売買された子供達の過酷な長時間の労働で行われ、子供達は、指が落ちるようなケガをしても休めないのだ。

学習塾に通っている可愛い女子中高生の多くが、若い男性講師と付き合っているなんて、知っている人にはあまりに当然のことだ。それを驚くなら、やはり人間というものに対して妄信を持ち過ぎているのだろう。塾の講師は、彼女達が接することの出来る大人の男性の中では、マシな部類なのだし、彼女たちもまた、一生で一番美しい時である。何か起こらない方がよほど不思議じゃないか。

尚、滅多なことでは表に出ない話というのもある。
例えば、江戸時代の牢屋敷(今の刑務所)の中のことは、ほとんど知られていない。時代劇で描かれていることは、単なる想像だし、おそらく実際とかけ離れている。
なぜ、知られないかというと、場所にもよるだろうが、当時は牢屋敷に入れられたら、滅多なことで生きて出られなかったからだ。死人に口なしである。
だが、それが、悪に対する無言の強力な威嚇となり、当時は案外に犯罪は少なかったのだ。
水野南北は、17歳で牢屋敷に入れられたが、なんとか生き延び、その様子を少し話したことが伝えられているが、それはもうおぞましいもので、ちょっと書く気にはならない。しかし、それですら、私にとっては全く理解の範囲なのだ。

梶原一騎という、その作品が大変な人気だった漫画原作者がいた。『巨人の星』『タイガーマスク』『あしたのジョー』など、何十年も前の作品が、いまだ、再連載やドラマ化されるほどだ。
彼は、確かに才能ある作家だったが、それでも、彼が本当にやりたかった純文学の世界には全く入れなった。
なぜ彼の作品があそこまで人気があったかというと、まず、彼は、裏話を沢山知っていたからだ。
彼のお得意は、少年院の実態である。それは、一般の人には驚くべきものだった。梶原は、それを自分で体験したのだから、リアリティーが違う。他にも、学校やスポーツ、それに、武道の世界の裏側を見ており、それらを巧妙にディフォルメ(変形。フランス語)した作品は、ちょっと現実味があるから面白いのだ。一面的ではあっても、彼は、人間をよく知っていた。
だが、私は彼の作品を、元々、嘘臭く思っていた。私には、彼の作品の中の現実の裏話は不思議でも何でもないので、その作為的に変形したところばかりが悪目立ちしてしまうのだ。嘘はどこまでいっても嘘だ。少しも感動するものではない。
私は、彼は大した作家ではなかったが、人間に対する迷信を持った大衆を惹き付ける巧妙さを持っていたのだろうと思う。
手塚治虫さんが、『巨人の星』の漫画を指し、自分のスタッフ達に、「諸君、これのどこが面白いのか、僕に教えて欲しい」と言ったという話がある。それは、こんな理由なのだと思う、手塚さん。
手塚さんも、戦争や漫画業界の裏、その他、多くのことをリアルに体験してはいるが、彼の心には、常に子供達があった。彼は、あくまで未来への希望や想像力で勝負する作家で、やたら刺激的なものが求められた時代には不遇なこともあった。だが、彼の作品は不滅であり、我々の中に居る子供に訴えかけるのだと思う。









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新入社員が辞める本当の訳

新入社員がすぐ辞めるなんて、今に始まったことではなく、大昔からいつでもそうだった。
新入社員が辞める時の、新入社員と先輩達のお互いの言い分の代表的なものに、新入社員側は「思っていたのと違う」、先輩側は「新入社員は辛抱が足りない」というものがある。
実は、これは、反対側に当てはまることだ。
新入社員の方が先輩達にとって、思っていたのと違っていたのだし、辛抱が足りないのは先輩達の方だ。
では、新入社員のどこが先輩達の思っていたのと違うのかというと、「崇めてくれない」というところで、先輩達のどこが辛抱が足りないのかというと、崇めてくれないことに対する辛抱だ。
30歳位の中途採用の新入社員なら、先輩を立て、気が効くので、先輩達は崇められている感じがして、これなら、「思っていた通り」の新入社員だ。
しかし、二十歳前後の若い人は、人間に対する理想がまだ高いので、ほとんどの先輩達に失望している。だから、演技でも崇めるのは辛いのだろう。

しかし、根本原因は、新入社員側も先輩側も同じで、エゴを持って仕事をしているということだ。
つまり、自分が仕事をしていると思っているのだ。
このことについて、ちょっと説明する。

浅はかな考え方をする評論家等が、「西洋では仕事は苦役と認識されている」というのを聞いたことがあるかもしれない。
その根拠は、旧約聖書で、アダムとイヴは、元々は、住んでいたエデンの園が温暖で快適な環境な上、自然の食べ物も豊富にあったので働かなくて良かったが、蛇にそそのかされて、知恵の木の実を食べたことで神の怒りを買ってエデンの園を追い出され、以後は、苦しんで働くことで日々の糧を得なければならなくなったと書かれていることだ。
これをそのまま受け取るのは、間抜けなことだ。
タイムマシンで、エデンの園時代のアダムとイヴを見たら、いつも熱心に働いていることが分かるだろう。
だが、彼らに、「よく働いたね。ご苦労様」と言ったら、彼らは、怪訝な顔をするに違いない。
彼らは、自分達が働いているという自覚が無いのだ。彼らは、エゴの思い無く仕事をしていたのだ。
ところが、彼らは、この野菜は「僕が」取って来たんだと言ったり、この料理は「私が」料理したと言い始めたのだ。
そして、彼らは、自分が働いているという思いにとりつかれた。これを、知恵の木の実を食べたと言ったのである。
エゴが無ければ、自分が仕事をしているのではないので、仕事は仕事自らなされていく。つまり、自動的に進んでいくのだ。
いかに熱心に責任感を持って仕事をしているようでも、彼は何もしていない。だが、「俺がやってるんだ」と思うので辛くなるのだ。
こういった道理が分からなくなったので、人類は悲惨の状態に陥り、やがて滅ぶのである。
働いている自分というものを探し、そんなものはどこにも無いのだと分かると、あなたは幸福になる。そして、世界も平和になるだろう。









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暗い森の中で問う声に少女が答える

日本でも放送された、アメリアのテレビドラマ『大草原の小さな家』は、1870年代から1880年代の西部開拓時代のアメリカを舞台とした、インガルス一家の物語だが、この家族の次女である、ローラ・インガルス・ワイルダーの自叙伝を基にしたものだ。

私は、高校生の時、このテレビドラマの小説があることを知らなかったが、高校の図書館で、不意にあのドラマを思い出し、「あの本があったら面白いな」と思いながら、ふと目の前の書棚を見たら、『大草原の小さな町』という、最後の「家」が「町」に変わっただけの本があって驚いたことがある。
そういうことは、子供の頃からよくあった。
『大草原の小さな町』は、『大草原の小さな家』から、大分後の物語になるようだ。
本をとって、パラパラ見ると、長女のメアリーのことを、「盲目だが美しい」といった説明が書かれていて驚いた。テレビドラマでも、メアリーは病気で失明するのだが、私は知らなかったからだ。

インガルス一家の物語であるローラの自叙伝は、全部で10冊ほどであると思う。
私は、一番最初の『大きな森の小さな家』を購入した。恩地三保子さん訳のものだが、後で数人の人の翻訳が出ているようだ。
厳しい自然の中で、家族や村の人々が協力して生活する良いお話である。
ローラとも交流のあった画家、ガース・ウイリアムズの挿絵が素晴らしい。
お父さんのチャールズは、毎晩、ローラやメアリーにお話を聞かせる。その中で、こんなお話があったことが書かれていた。ある男が、大きな猫と小さな猫を飼っていて、猫が自由に出入りできるよう、出入り口を作ったのだが、大きな猫のために大きな出入り口、小さな猫のために小さな出入り口を作った。
幼いローラはすぐに、その男の馬鹿なことに気付いた。言うまでもなく、大きな猫のための出入り口が1つあれば良いのである。いわゆる、「大は小を兼ねる」の端的な例だ。
ところで、小さなローラにさえ負けるその男のことは詳しくは書かれていなかったが、私は、その男は、あのアイザック・ニュートンだと知っていた。ニュートンは、本当にそんなことをしたらしい。
だが、馬鹿にするようなことではない。天才とは、普通の人にできないことができるのだが、しばしば、普通の人にできることができないのだ。
(ただ、笑い話として広く知られているお話なので、チャールズがニュートンのことを話したという訳ではないかもしれない)

長女のメアリー役は、人気アイドル女優だったメリッサ・スー・アンダーソンが充てられ、彼女は立派な女優なって現在も活躍しているようだが、本の中でも、金髪で青い目の大変な美少女であることが書かれていた。ローラは、この姉の容姿に、しばしば嫉妬したようだ。ローラは、髪も目もブラウンだし、あまり美人とは言えなかったようだ。言ってみれば、メアリーは美人の母親似で、ローラは、テレビドラマでチャールズ役をしたマイケル・ランドンとは全く違う、熊のようなお父さん似だったということだ。

前振りがすっかり長くなったが、実は、『大きな森の小さな家』で、チャールズがローラ達に話した別のお話のことを書きたかったのだ。
チャールズの少年時代の思い出話だ。
私は、それがよほど印象に残ったらしく、そのすぐ後で、全く別の人が、テレビで同じ話をするのを聞いたものだ。リアルな映像付きで味わいたかったので、そんなテレビ番組を創造してしまったということだ。
まさに、私は、リアル涼宮ハルヒである。
それはともかく、チャールズが子供の頃、夜の森に入った時のことだ。
日本では、昔から、森には神様がいると言われているが、ヨーロッパでは、森には魔物が棲むというのが定番だ。それはおそらく、アメリカにも伝わったと思う。よって、西洋人にとって、夜の森はとても恐いものに違いない。
そして、チャールズは、「誰だ?」という、低い声を聞いて、びくっとする。
声の主は見えない。
すると、また、「誰だ?」と尋ねる声がする。くぐもった(中にこもったようなはっきりしない)恐ろしげな声に、チャールズ少年は恐怖を感じる。
さらに、「誰だ?」「誰だ?」という声があちこちから聞こえる。
チャールズは悲鳴を上げて走って逃げるが、声が追って来る。「誰だ?」「誰だ?」

声の主は、フクロウだ。
フクロウの鳴き声「フー」は、英語のWho(誰だ?)である。
さきほど書いた、私が創造した(?)テレビドラマでは、もっと面白く、

フー(誰だ?)、フー(誰だ?)、フーアーユー(お前は誰だ?)

とフクロウが鳴いたと言っていた。

フクロウと対話したら面白いと思う。
では、フェイト(『魔法少女リリカルなのは』のヒロインの1人)に相手をしてもらおう。
きっとメアリーのような姉と夢の中で話した、金髪の美少女だ。

「誰だ?」
「私は、フェイト・テスタロッサだ」
「誰だ?」
「ミッド・チルダの魔導師で、時空管理局の嘱託魔導師でもある」
「誰だ?」
「魔導師プレシア・テスタロッサの・・・娘だ」
「誰だ?」
「母さんの本当の娘ではないが、プレシアは私の母さんだ。アリシアは私の姉さんだ」
「誰だ?」
「今は、リンディ・ハラオウンの娘。クロノの妹だ」
「誰だ?」
「なのはの友達だ。すずかやアリサとも・・・」
「誰だ?」
「わ、私は、私は・・・」

フェイトに、辛い過去が蘇る。
自分は、アリシアの身代わりに作られた人形。失敗作。だから、母さんに捨てられた。
私は誰なんだろう?
私は一体何?
あの時の自分は終わらせた。そして、新しい自分を始めたはずだ。
でも、それでも、私は本当は誰なんだろう?
誰が母さんに捨てられたのだろう?
なのはに何度も呼びかけられ、戦い、友達になったのは誰なんだろう?
今でも、どこかでプレシアを求めている私は誰なんだろう?
時空管理局の執務管になりたい私は誰なんだろう?
違う。
この身体は私じゃない。この心も私じゃない。
アリシアの記憶は確かに私のものじゃなかったけど、この私の記憶も私じゃないんだ。
私の感覚も、バルディッシュを振るう技も、魔法力も、私じゃない。
全部、私じゃない。
では、私は何?
私は何でもない。
でも、無い訳じゃない。
在る。それだけだ。
ただ、在るだけだ。
なら、静かでいよう。静かに在ること、それが私だ。
母さんも、なのはも、バルディッシュも、アルフも、リリスも、みんな私の中にいる。
私はもういない。でも、私だけがある。世界は、見るものは、感じるものは、全て私だ。









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釈迦もイエスも謎だ

淀川長治さんが『太陽がいっぱい』という映画を四百数十回観たというのにはまるで及ばないが、私は、1973年のノーマン・ジュイソン監督の映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』を70日間連続で、1日1回観ていたことがある。『サウンド・オブ・ミュージック』と並ぶ、野外ミュージカルの傑作と言われる作品だが、なぜかいまだDVD化されていない。
『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、とにかく、独特の雰囲気に溢れ、イエスもユダも格好が良く、音楽が素晴らしい。
ところが、今頃やっと気付き始めたが、この作品は、必ずしもイエスを崇拝どころか、肯定的にも扱っていない。このタイトル自体、いかにロック(反体制的)なロック・ミュージカルと言っても冗談が過ぎるかもしれない。
ところで、反キリスト、反イエスという者は偉大な人物にも意外に多い。オスカー・ワイルド、W.B.イェイツ、あるいは、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェも間違いなくそうだったろう。
ユダヤ教では、イエスは聖人とは思われているかもしれないが、特別な存在ではない。それで言えば、釈迦も、ヒンズー教では、最高神の化身であるとは言われても、まざと間違った教えを説いたとすら言われるほどだ。
『ジーザス・クライスト・スーパースター』では、イエスを裏切ったイスカリオトのユダは、イエスに対して疑問を抱き続ける。お前はどこかおかしい。何か変だ・・・と。ワイルド、イェイツの主張もまさにそうだ。それは、ヒンズー教での釈迦の立場のようではないか?
私も、こんな風に考えることがある。
旧約聖書という素晴らしいものがあるのに、なぜ新約聖書があるのだろう?つまり、イエスはなぜ独自の教えを説いたのだろう?
仏教に関しても、ヒンズー教という至高の教えがあるのに、なぜ釈迦はそれとは違うことを教えたのか?
確かに、庶民に教えを説くためとか、カースト制度を否定するためといった考え方もあるが、それならば、ユダヤ教やヒンズー教の教えを優しく説けばいいのに・・・と。
まあ、確かに、旧約聖書は難し過ぎる。これを理解するために、ユダヤ教ではタルムードがあるが、これがまた万巻の書だし、さらに、旧約聖書の深い意味は、カバラーとして隠されてしまったとも言われる。
ところで、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者である科学技術者で探検家のベアード.T.スポールディングは、本当は、西洋人でも、聖書よりバガヴァッド・ギーターを読んだ方が良いという驚くべきことを述べている。確かに、聖書は難解かもしれない。そして、インドの聖者ラーマクリシュナは、およそ聖典といったものを認めなかったが、バガバッド・ギーターだけは別で、これは神の言葉だと言ったらしい。実際、1冊のさして長くない本に収まる中で、シンプルに驚くべき真理を述べていると思う。
イエスというのは、確かに謎が多い。磔にされた際、「主よ、なぜ私を見捨てた」と言ったり、「私に躓くな」と言ったりもした。これらの言葉は、様々な人が様々に解釈しているが、結局のところ、真意は分からない。
釈迦にしろ、仏教教派により、教えの内容があまりに違う。そもそも、本人は何も書き残していないのに、仏典があまりに膨大で、それは異常なことに思える。
世界は、何かおかしいのではないかと感付く人が増えているかもしれない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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