ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

我々が願えば宇宙人も存在する

昔のSF小説では、太陽系の他の惑星にも生物が存在し、しかも、地球人類以上に進化した知的生命体が、我々をはるかに凌駕する文明を持っているというものがよくあった。少なくとも、金星と火星がそうであることが大いに期待され、それらの小説を読む人々は夢を膨らませた。
しかしその後、旧ソ連とアメリカの度重なる金星や火星への探査機による調査の結果、金星は超高温、超高圧で、高空は濃硫酸の雲と強風(地表ではそうではない)という過酷な環境であることが分かった。金星に比べると火星は相当に穏やかな環境ではあるが、地球の生物が生存できるような環境ではなく、微生物も含め、有機生命体が棲息した証拠もいまのところ無いとされている。

これらは、我々にとって外部の情報でしかないことから、それらは何らかの意図で偽装されたものであるといった情報の捏造説や、政府による巨大な陰謀説などいろいろあり面白いが、おかしな意図のあるものでなくても、権威ある定説が覆された事例は実際に数え切れず、そういった疑いの姿勢もまた必要ではあろう。

物理学で、人間原理という、宇宙がこのような姿であるのは、人間の生存のためであるという1つの仮説があり、それは、我々の通常の思想にとっては違和感があるが、それなりの根拠はあるようだ。
簡単に言えば、世界は、人間のために奇跡的なまでに都合の良いものになっており、世界があるから人間がいるのではなく、人間がいるから世界があると考えるようなものである。
谷川流さんの人気小説「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズでは、涼宮ハルヒという少女がそう願ったという理由だけで、宇宙人や未来人、超能力者が存在するのかもしれないという、人間原理をやや恣意的に(気ままに)発展させたものがある。
それで言えば、かつて、我々人類が火星や金星を、知的生命体の存在する惑星と考えていた時には、そこには本当にそうったものが存在していたなどという楽しい考え方が出来る。
そう言われると、論理的ではなく、妙にしっくりとした感じを受ける人がいるのではないかと思うし、そんな体験を持っているような人も案外に多いと思う。前にも書いたが、私は人生で初めて「アリシア」という名前を聞き、その名前が気になってずっと心の中で「アリシア」と呟いていたら、翌日、普段は付けない時間になにげなくテレビを付けたら、いきなり「アリシア」という言葉が聞こえたといったようなものである。実は、私には普通のことだ。

アメリカ最大の哲人と言われる、ラルフ・ウォルドー・エマーソンが、人類史上最大の偉人5人の一人に選び、ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーその他、数多くの偉人に多大な影響を与えた科学者、政治家、思想家、哲学者であったエマニュエル・スウェーデンボルグは、様々な惑星の見聞録を1758年に著している。その中には、火星、金星、さらに、土星その他の惑星の様子やその住人について描かれている。もっとも、彼の場合、物質的というよりは霊的な世界のこととも思われる。
一方、ジョージ・アダムスキーは、太陽系の惑星は12個とし、その全てに知的生命体が存在し、特に、金星と土星には実際に訪問したとして見聞録を出している。アダムスキー以後、数多くの宇宙人との遭遇や、彼らの宇宙船に搭乗したという話が出たが、個人的には、それらはアダムスキーのものの模倣と思える。コンピュータの専門家である私にとって、アダムスキーが宇宙人の宇宙船の中で見たとされるコンピュータは、現代の我々のものより精妙なグラフィカル・ユーザーインターフェースを有しているように感じられるが(1961年頃の話である)、他の人のものでは妙に安っぽくハリボテな感じがするのである。

人間が、そうあると思えば、そのようであるという話は聞いたことがあるかもしれない。人の心が世界を創るのである。
我々が再び、火星や金星に知的生命が存在すると思えば、金星や火星も温暖で快適な星になるかもしれない。涼宮ハルヒ風に言うなら、「その方が面白いじゃない!」である。







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地球は流刑地なのだろう

我が国にも、昔、島流しとか流刑と呼ばれる刑罰があり、厳しく孤立した島に、特に悪質な犯罪者達を閉じ込めたが、これは世界的に行われたことだ。例えば、セントヘレナ島は、ナポレオン一世の流刑地であった。
また、大犯罪者を収監する刑務所が、脱獄防止のために絶海の孤島に造られることもよくあった。有名なものではアルカトラズ島がある。
流刑地に送られた囚人達の苦難は常人の想像も付かないものであったに違いない。

ところで、この地球が宇宙の流刑地なのである。なぜそんなことが言えるかというと、そう考えると、あまりに納得がいくからだ。
個人的欲望が強過ぎ、自分の快楽のためなら他人は死んでも構わないという性質の者達が、この地球に送られるのだろう。
なら、この世にいる人間も、その人間が作るグループや国もロクでもないものであるのは当然であるし、文句を言うのもおかしい。それが分かると、自分もまた、彼らと同じであるということに気付き、妙な仲間意識を感じるかもしれない。
きっと、あなたは、学校や職場、あるいは、家庭が辛く嫌な場所だと思っているだろうが、映画などで見た流刑地を想像してみれば、苦難や不都合があるのが当たり前であることが分かるだろう。地球自体が流刑地なのだから。
流刑地での囚人は、ただ、耐えるしかないのである。そして、タフにならないと生きていけない。また、楽に生きるための、知恵、力、技を修得する必要もあるだろう。それは自分でやらないといけない。でないと、やられる一方で、誰も助けてくれない。
人生訓や成功哲学などと言えば聞こえは良いが、何のことはない、それらは、流刑地で楽しく生きるための知恵とノウハウである。
この世で聖人と称えられる人も、重大な欠点を持っているのは当たり前であろう。彼らも、所詮、流刑人で、他の囚人よりわずかに進歩しているに過ぎないからだ。
ある世界的に有名なロックグループが崇拝していた聖者が、信者の女性に「邪まな」ことをしたとして、そのロックグループのメンバーは失望して離れていったという話がある。後に、その話は誤解であったということになったが、仮に本当だとしても、何の不都合があろう。たとえその聖者がロリコンの変態であっても問題ない。皆、どうしようもない囚人なのだ。際立ってマシなところがあれば崇拝に値するではないか?現在のインドのある有名な聖者は、神の力を持つと言われる一方、美少年趣味という話がある。それはデマかもしれないが、本当であっても、他のことで良いことをしていれば十分ではないか?ソクラテスだって美少年趣味であったのだ。

釈迦やイエスなんて人は、おそらく、本来は地球に生まれるべき者ではなかったが、地球の人々を教化するために、あえて地球に生まれたのであり、彼らは修行をして悟りを開いたのではなく、最初から悟っていたのだろう。前世の記憶も全部持っていたに違いない。
地球よりはるかに進歩した星の住人であった彼らの知恵と比べれば、地球人類の中のどんな大天才の知恵も猿知恵である。
これも、そう考えると、あまりにつじつまが合う。

そして、我々も、元々は進歩した星にいたのだろう。というのは、私は、幼い頃から、何かの瞬間に、突然、安らぎに満ちた、幽玄とも言える美しい世界の情景が心に浮かび、それを非常に懐かしく感じるのだ。
多くの人も同じことがあり、それが、天国とか、極楽浄土だとか考えられるようになったのだろう。
浄土系仏教の、極楽浄土の思想も、こう考えると、これもまた、実に自然に思える。そして、浄土系仏典である「無量寿教」「観無量寿教」「阿弥陀教」の内容を理解できるように思う。
我々も、進歩すれば、また、進歩した星に生まれることが出来るだろう。そのためにすべきことは、個人的欲望を無くし、いまだ内奥に隠し持つ至高の精神を感じ、心が幻想の権威を捨て、その至高の精神に従うことであると思う。至高の精神とは、宇宙に遍満する意識でもあるのだろうと思う。







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少食が一番身近なエコロジームーブメント

「出されたものは全部食べなさい」と家庭でしつけれた人もいると思う。
これは本来、「好き嫌いをするな」という意味であろうし、同時に、「間食をしたがる原因を作るな」とか、「無駄な食べ物を用意するな」といった意味を含ませてあるのだろう。
決して、沢山食べろという意味ではない。

何かの食品のテレビCMの「完食は一番身近なエコロジー」という言葉に、私は複雑な感情を抱いた。
エコロジーとは、本来、生態学を指すが、最近では、環境への配慮という意味を示すエコロジームーブメント(環境保護運動)を指す場合が多く、このCMも、当然、その意味で言っているのだろう。
その食品会社の意図ではないだろうが、私はこの言葉の意味を、「こういった食品は、食べずに放置すると、腐っておぞましい状態になり、それが著しく環境に悪いので、食べて糞尿にした方がまだマシ」ということと解釈し、やっと少しだけすっきりした。

水野南北は、食べ残すことを奨励している。もちろん、食事を残した分、菓子などの間食をするのではない。
ただ、水野南北の言う食べ残すものは、米や麦や野菜といったもので、南北は、「これらは、食べ残しても自然に帰り、自然な肥料にもなるが、食べるとただ糞になる」ことを指摘する。南北自身、肥料としての糞尿の売買に関わったことがあり、その方面も分かって言っている。糞尿は、病原菌を増殖する等、当然、そのままでは環境を汚すことになるだろう。
一方、米や麦と違い、肉や魚は放置すると腐って悪臭を発し、やはり病因となる。そして、現代の大半の加工食品はもっと悪いかもしれない。特に、食欲をそそる味付けをしたものは、そのために複雑な化学調味料を使っており、そのままでも決して身体に良くないと思うが、腐敗すればより強い毒性を持つ場合が多いだろう。
放置すれば、このように悪性なものに変わるものは、たとえ消化したとしても、悪性物質に変化する割合は、自然な植物性のものに比べて大きいと考えても不自然ではない。肉食者の糞尿の方が悪臭が強いのもそれを示しているように思う。
また、米や麦は、炊いたものでも、おぞましい状態にまで腐敗することはないが、自然のままのものは種子になり、実りをもたらす。
水野南北が、食の慎みは天に徳を積むことであり、自然、開運すると言ったのもうなづけるように思う。徳川家康は生涯、粗食、少食で、白米すら食べず食を慎んだ。人が天を選ぶのではなく、天が人を選ぶということを生きる姿で示していたように思う。

一番身近なエコロジームーブメントとは、菜食の少食である。
加工食品や肉食の完食は、環境にも身体にも最悪であるようだ。







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いじめは世間の機能である

いじめの根本的な原因は「異質なものの排除」です。
例えば、容姿に目立つ特徴がある場合は、大なり小なりいじめに遭います。また、ものの考え方や話し方、行動パターンが変わっている場合もいじめの対象になります。服装や持ち物が変わっていても、やはりそうです。周りの人と違っていれば、それがいじめの原因になります。

昔、白土三平さんの漫画「忍風カムイ外伝」で、3本腕の忍者が登場しました。先天的な異常なのですが、おそらく、このために普通の人生を送ることが出来ず、彼は忍者という裏の道に入ったようでした。白土さんがなぜ、そんなお話を作ったかと言いますと、白土さんが子供の時、3本脚のカエルが、子供たちに虐待されていたのを見た思い出のためのようです。普通のカエルでないという理由だけでいじめて殺すのです。
また、海外のテレビドラマで、変わった服を着ている小学生の少女がクラスメイトにいじめられるというお話がありました。彼女は片親である父親が失踪し、着る服がなかったので、自分で袋を使って服を縫ったのでした。ところで、その少女が非常に可愛かったせいもあったかもしれませんが、私は、その格好のどこが悪いのだろうと思ってしまいました。そもそも、服なんかで人の見方を変えるというのもおかしなものだと思います。そのドラマでは、主人公の少年は、彼女をいじめるクラスメイト達に激怒し、取っ組み合いのケンカをします。彼は、とても立派な両親に育てられたようでした。

このように、変わっているというだけでいじめられるものであり、それは子供でも感じていますので、幼い頃から、皆と同じでいたがり、個性を殺します。
会社で新入社員が入ってくると、年配の幹部などが、「今年の新入社員は個性的だなあ」とか言った時、「これのいったいどこが個性的なんだろう?」と思わずにはいられないのが、特に大企業の場合ではほぼ全てと思います。これで個性的なら、個性的でない人間って、一体どんなだろうと思うと不気味に感じます。

学校で異質な者がいじめられると言いましても、大人も含め、異質なものを排除しない場所なんて、世間にあったりはしません。世間で平穏無事に過ごす唯一の方法が、自分が皆と同じタイプの人間であることをアピールすることであり、それを世間では「コミュニケーション」と言います。
それが世間であり、大衆は世間の中でしか生きられないのですから、いじめがなくなることはありません。いじめ対策なんてものは、もうかなり昔からさかんに言われてきましたが、成果があったものはないですし、あるはずもありません。異質なものを排除するのが世間ですから。世間が消えるか、いじめが消えるか、いずれかしかありません。世間といじめが共存するなんてのは、扉の絵を描いて、そこから中に入ろうというくらい無茶なことです。
有効な方法があるとすれば、それは実に、世間が受け入れない方法です。つまり、今は、いじめの原因を無くしたくない人達がいじめ対策を考えているのです。
いじめを無くす有効な方法は、世間の力を無くしていくことです。そのためには、一人でも多く世間を離れることです。これはあながち不可能でありません。なぜなら、多くの人達が世間にうんざりし、その欺瞞性に気付き始めているからです。いじめの仲間に加わるのはもう嫌だと思っている人も少しはいるでしょう。
世間を離れるには、個人的な欲望を持たないことが条件です。それによって、自分の中にある、驚くべき力に気付くことです。それには実践が必要です。例えばですが、世間では1日3食しっかりと、栄養バランスに配慮して食べないと不健康になり元気が出ないとされますが、食事を1日1回か2回にして、毎日同じものを食べた方が健康で元気になることを知れば、一つ世間から離れます。世間常識は嘘か幻想で、世間の信念や教義に従うことは、どんなにうまくやっているつもりでも、不安と惨めさを増大させていくだけです。そんな者は、異質なものを排除すれば自分は安心だと妄信しているわけです。
いじめる側には回らない。そう決心して、個人的な欲望を持たないことが、人類が生き延びる唯一の道と思います。







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他人に感じる美点は自分の美点だけ

「人の良いところを探しなさい」と言われたことが、誰でも、一度や二度はあると思う。
正しくは、「人の良いところが見えるようになりなさい」だと思う。
人の良いところを、考えながら探しているようでは仕方がない。

視覚、聴覚などの感覚器官が、案外にあてにならないことをご存知かもしれない。
恐い話を聞いた後では、夜道の枝垂れ柳が幽霊に見える可能性が高いことが、心理学の実験で確認されたこともあったらしい。
また、催眠術により、すっぱいレモンを甘い味に感じさせることも難しいことではない。
つまり、感覚は独立したものではなく、生命によって力を与えられている、一種のデバイス(装置)のようなものと思えば良い。
そして、我々は、自分の中にある観念に対応することしか知覚しない。実に、自分の中に、対応する観念がなければ、それが「見えない」「聞こえない」のだ。
何らかの方法で観念を支配すれば、知覚も完全にコントロールできるのである。
他人の中に見える良いところというのは、自分の中にある観念に対応しているのであり、つまり、同じ良いところが自分の中にあるということだ。
逆に言えば、自分の中にない美点は、他人の中にも見出せない。無理に他人の中の美点を見つけようとしても、それは単に空想である。誰しも経験があると思うが、「この人に褒められてもちっとも嬉しくない」という人がいると思う。その人は、自分の中にない美点を、虚しい言葉で言っているのであり、聞いていて白々しいだけなのだ。
歌手でもそうで、素晴らしい歌を歌っても、歌手自身の中にそれと同じものがなければ、ダイヤを気どったガラス玉である。だから、歌そのものでなく、容姿ばかりが注目される歌手は偽物である。

かつて、素晴らしい美人だと思っていた人の写真や映像を、長い時が過ぎた後で見ると、全然美人に見えないという現象がある。
これも、当時持っていた観念と、現在の観念が著しく異なるからである。これは、面白い現象というだけでなく、重要な現象である。
昔の人気アイドルを今の時代に見れば、やはりぱっとしないものだ。これは、観念というものが大衆の幻想であることを表している。我々は、世間の信念という幻想にたやすく飲み込まれてしまうのである。幻想に支配された観念は、上にあげた、レモンを甘く感じる催眠術にかかった人の観念と同じで、外部から押し付けられたものである。
世間から詰め込まれた観念・・・その多くが子供の時に両親や学校から叩き込まれた信念や教義で、それが我々の主要な観念になっている。学校では、まやかしの権威を受け入れる訓練を強要されるので、活字や、マスコミや、大企業のCMをたやすく観念にしてしまう。結果、我々は国家の奴隷となり、大企業は儲かるのだ。優等生ほど奴隷なのである。
ヘレン・ケラーは、「感覚は幻想だ。Ideaのみが真実だ」と言ったが、このIdeaは、単なる観念(アイデア)ではなく、プラトーンの言う、純粋で理想的な概念(イデア)だ。それは、自我とは異なる真の自己であり、宇宙と等しいものだ。そういったものの存在は世間では認められておらず、学校でも聞かないので、適切な言葉がなく、どうしても抽象的な言い方になるのが残念だが、開き直って抽象的に言うなら、それは自分の中にあると同時に宇宙全体に遍満する神の精神だ。
それは、普段の、個人的欲望に満ちた心が感じることはないが、自分に関心を持たず、よって、個人的欲望の無い心であれば、それと溶けあい一つになる。神を知るとはそういうことだ。
今は、自分にしか関心のない人間が増えているという。彼らは宇宙に遍満する、何よりも貴い存在を知ることがない。
全ての欲望を捨てるというのも、非現実的な空論であり、過度な欲望を捨てれば十分だ。自動車は、ちゃんと走れば古いもので良く、小さいもので十分だ。改めて言えば当たり前だが、我々はそれが分からなくなっている。十分に空腹であれば何でも美味しいので、食を慎んで空腹にし、腹八分目に食べるといった、これもごく当たり前のことをすれば良い。そういったことが出来ないから、我々は悲惨な状況にあるのである。





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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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