ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ソフト開発技術者は英知あるオタクであれ

ソフト開発技術者には、オタクが多いという話を聞いたことがあるかもしれない。
だが、今は企業では、ソフト開発技術者に、世間的な健全さを求めることが多いのではないかと思う。
つまり、明るく、礼儀正しく、常識があり、ちゃんと挨拶ができる・・・といった感じだ。
だが、ソフト開発技術者の大半とは言わないが、普通の会話が苦手で、酒は飲まず、社員旅行や忘年会には参加しないというタイプは多いはずである。
それで、腕は抜群なんだが、変わっているという理由で評価されず、嫌な思いをしている人も多いのではないかと思う。

ソフト開発業界というのは、もっと歴史が浅い頃は、ある意味で健全な業界だった。
つまり、良心に反する行いをするのでなければ、どんな人間でも、能力が高ければ一目置かれたのだ。
今はそうではなくなったとすれば、それは、ソフト開発業界も、黎明期は過ぎたということだろうか。
だが、どんな産業も、成熟期になれば利益第一となり、活力や面白さはなくなってくる。

技術者というものは、技術が第一であり、会社に媚を売っているようではいけない。
あまりに自己中心的であっては良くないのは当然だが、善意を持っているなら、普通の人の真似をする必要はない。
だが、これからは、技術を超えた何かを持っていなければならないのだ。
それは、英知と言って良いものだ。思考を通さずに、直感的に正解にたどり着く能力と言って良い。
普通の人が長時間考え、議論を重ねて出した答よりも、はるかに優れた答を一瞬で導き出すことができるようにならなければならない。
そして、それは、学校などで行われている教育とは全く異なった方法で得られるものだ。
それが得られれば、技術の動向が変わり、世の中の流行がどう変わっても心配することはない。それは、決して流行に追随するという意味ではない。むしろ、つまらない流行から離れることができるだろう。
そんな英知のヒントの1つが、ソクラテスを導いた内なる知恵であるダイモーンである。それは、誰の内にもあるものだ。
このブログの目的も、そのようなものを、我々が持つことにある。それは、ソフト開発技術者、あるいは、技術者に限定されるものではもちろんない。
ソクラテスも、哲学者、作家、技術者に関わらず、彼らに優れたことをさせるのは、内なる英知なのだと言った。それは、学校教育の中では全く顧みられていないが、それをはるかに超えるものである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

何事もほどほどに

私が小学校の3年生くらいの時だったと思う。多くの子供と同様、私はプリンが大好きだったのだが、もしかしたら、あらゆる食べ物の中で一番好きだったかもしれない。そして、やはり、プリンに目が無い2つ年上の女の子とプリンについて話していた。その時、私が、「いくら好きでも、ドンブリ一杯のプリンを食べるわけにもいかないだろう?」と言ったら、彼女は、「いや、私は食べられる」と大真面目に言う。その、食べる気満々の目の据わった表情を見て、8つか9つだった私は、冷静に、「ああ、こいつ、本当に馬鹿だな」と、多分思った。私だって、そのくらい食べられたら最高だと思うし、食べられるとは思う。しかし、そこまでやっちゃいけないのだ。ちなみに、彼女は学校の成績は悪くはなく、クラスでのランキングは私よりずっと上で、時々私は馬鹿にされたこともあった。

また、私が小学4年生の時、近所の同じ学年の男の子とプロレスごっこをした時のことだ。彼は、真剣に即効をかけ、私を逆エビ固めに決めて絞り上げてきた。本当に苦しかった。私は悔しくてギブアップしなかったが、周りの子供達が止めてくれた。危ないと思ったのだろうし、下手すれば事故になっていたかもしれない。今思えば、あいつは本当に馬鹿だと思う。そして、その男の子はかなりの優等生だった。

ものには限度というものがある。これは、決して中途半端とか、曖昧を推奨するのではなく、バランス感覚が大切だという意味だ。仏教では、中道ということをとても大切にするが、それも同じような意味ではないかと思う。ヨーガというものも、バランスを何よりも大切にするのだと聞いたことがある。
我々が、社会で痛い目に遭わないといけないのは、中道とか、バランス感覚を磨くためだ。家族というものは、特に、親は子供をどうしても甘やかすし、また、そうでなくてはならない部分もあるのだが、そんなだから、家の中にいては、バランス感覚を身に付けることができないのだ。本を読むだけでも駄目だ。人間は、身体で痛い目に遭って、初めて理解できることが多いものだ。本を読むことは非常に良いことだが、その内容を実践でたしかめてこそ、本当に自分のものになる。

プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントという人は、230cmの身長と200kg以上の体重で、文字通り人間離れした肉体の強さもあった。そのため、トレーニングをしなくても無敵だったと言われる。世界的な人気者で、収入も凄かった。若い頃はその身体にコンプレックスを持ち、ひどく悩んだらしいが、その後は幸福な一生を送れたはずなのだ。
だが、彼は、毎日、ビールを1ダースも飲み、その他にも、美食に耽るようになった。それで、いつか、彼を負かすほどのレスラーも現れるようになり、身体を悪くして、まだまだ現役を続けられたはずの46歳の若さで亡くなってしまった。

ものには限度がある。
孔子が、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と言い、徳川家康も、この言葉を非常に重視したという。
私も、子供の頃から、何をやっても、これが真理であると実感することが多く、誰が言ったのかは知らなかったが、世の中には賢い人がいるものだと驚いていたものだ。
だが、孔子がいちいちこんな言葉を残したというのは、人間というものは馬鹿で、これをなかなか守れないということなのだろう。

ものごとは、徹底的にやるべきという面も確かにあるし、それはやらねばならない。
しかし、限度がある面もある。このあたりのバランスを身に付けた者を賢者と言うのかもしれない。
例えば、どんなに自分に理があっても、争いの中で、引くべきところは引かねばならない。
相手がどんなに間違っていても、徹底的に追い込むのは馬鹿だ。
虫や動物は、オスがメスを奪い合って戦うことはよくあるが、決して致命傷は与えないのだそうだ。人間は、虫や野獣よりずっと賢いはずなのに、それが出来ない。
敵をあなどって大逆転を赦すのは、怠惰であったり、傲慢であるからであり、勝負がついたら、敵に逃げ道を残しておいてやるのが賢い人間である。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

心の苦しみを消すには

心の苦しみには2種類ある。
苦しむべき苦しみと、苦しむべきでない苦しみだ。
そして、本当は、全て、苦しむべきでない苦しみなのだ。

心が苦しい時の状態を敢えて言葉で言えば、「胸が痛い」「胸が張り裂けそう」「心が揺れ動いている」「心が寒い」といったところである。
心は、心臓の神経に関係が深いので、胸の症状に現れる、
怒っている時や興奮している時というのは、「頭に血が昇る」の通り、頭に現れるが、血と共に脳に多量に送られる酸素を抑制するために、呼吸機能が低下して息苦しくなる。激怒している人や緊張し過ぎている人の呼吸が荒いのはそのためだ。

実をいうと、苦しみの大きなものが怒りや興奮なのである。
怒りや興奮というのは快感なのだ。だから、苦しみも度を越すと、かえって喜びになるのである。しかし、それは、破滅的な快楽であり、度重なると頭脳や心を破壊する。
マゾヒスティックな人というのは、慢性的な苦しみを抱えているのだが、それを興奮に変えて快楽に変換しようとしているのである。だが、破滅したくなければ、早くやめることだ。

苦しみを、刺激や興奮で解消しようなどとは、決して思わないことだ。
酒で苦しみを忘れるなんてのも嘘だ。やはり、アルコールで神経を刺激して心を興奮させることで、苦しみを快感に変えようとしているのである。
だから、苦しいことが多い人が酒を飲むと荒れるのである。
一方、心静かな人であれば、いくら飲んでも酔わないのである。
政木和三さんが、どこの国だったか忘れたが、海外で、恐ろしく強い酒を一気に飲んでケロリとしていた話を時々されていた。彼は、「信念が強ければ酔わないのだ」と言われていたが、信念が強い人とは、心が静かな人なのである。
私も、普段、酒を全く飲まないのだが、ある時、中華料理店で、マオタイの一気飲みをしたことがある。マオタイは、ウォッカ以上に強いといわれる中国の酒だが、確かに心臓は高鳴ったが、全く酔わなかった。(決して真似をしないように。急性アルコール中毒で命を落とす恐れもある)
ドナルド・レーガンも大統領時代、中国の長城飯店(グレイト・ウォール・ホテル)で、中国の首相が先にやったのに倣って男らしくマオタイの一気飲みをやったらしい。尚、彼は、高齢だったとはいえ、酒は強かったらしい。ところで、私も長城飯店で、中国の楽器の生演奏で優雅に食事をしたことがある。日本の音楽を沢山演奏してくれたが、私のグループに気を使ってくれたのかもしれない。そんなことをするのは、珍しいことだそうだからだ。だが、紹興酒を少し飲んで酔ってしまった。浮かれて心が騒いでいたのだろう。

最初の話に戻るが、心が苦しまないためには、酒に酔わない状態、つまり、心が静かであればいいのである。
もっとも、ラマナ・マハルシが、「あらゆる聖典は、つまるところ、心を静かにしろと書いてある。だから、それが了解できれば、際限なく読む必要はない」と言った通り、心を静かにするというのは、聖典の説く究極目標であるようだ。当然、容易ではない。

心を静めるためには、苦しみを怒りにするのとは反対の方向、つまり、血を下に下げれば良い。血圧は下がり、年配者であれば、卒中も防げる。方法としては、歩くか、複式呼吸をやればいい。よく歩く人に血圧の高い人は少ないものだ。
車社会になればなるほど、不健康で心の荒れた人が多いのは当然なのだ。人は歩くことで、頭から余分な血を下げ、考えすぎることを防ぎ、心を調整するのである。優れたアイディアは必ず散歩中に得られると言う作家は多いのだ。
私は、滅多なことでは車を使わず、歩くことにしている。私1人なら、車を保有することはないが、親が脚が悪いので小さな車(マツダ・デミオ)を1台持っている。

心を静めるもう1つは、マントラ(呪文)を唱えることだ。マントラというのは、想念をなるべく起こさない音の言葉が選ばれているのだ。民族や育ちにより、多少の違いはあるかもしれないが、実際はそんなに違わない。
インドでは、「オーム」が最も知られ、これが我が国の古神道では「阿吽(あうん)」となっている。「ナ・ダーム」という言葉が最も良好であったという研究結果もあるようだ。
私は、頭に血に昇ることの多いセールスマン時代、仏様や菩薩様のマントラを心の中で唱えていた。例えば、観世音菩薩なら「オン、アロリキャ、ソワカ」だし、阿弥陀如来なら、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だ。もちろん、「南無阿弥陀仏」でも良いのである。

また、聖書の詩篇23や91を読むことに絶大な効果があるのは、これらの詩が、心を静かにするからである。
心が完全に静かになれば、すなわち、無になったということだ。そうなれば、人に不可能はなく、全てが思い通りになる。
このブログで何度かご紹介したが、第2次世界大戦中、英国のある部隊が全員、詩篇91を暗記して定期的に唱え、5年間の戦闘で死者を1人も出さなかった話が、F.H.ロースンの本や、それを引用したジョセフ・マーフィーの本に書かれている。
また、下にご紹介した、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻には、著者のベアード.T.スポールディングがロンドンにF.H.ロースンを訪ね、彼が使う至高の言葉(マントラと言って良いと思う)が見せた奇跡について書かれている。私も、苦しい時にはよく使っている。この『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻は、単独で読んでも良い、秘法満載の貴重な書と思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

最悪のスランプを粉砕する

芸術家だろうが、スポーツ選手だろうが、技術者だろうが、科学者だろうが、セールスマンだろうが、懸命に励んでいてある時期が来ると、にっちもさっちもいかなくなる状態になる。それは、大抵は、ある程度うまくいっていて、自信がついたような頃に不意に訪れる。
ビル・ゲイツが、どんな文脈で言ったのかは憶えていないが、自分は何でもできると思っているコンピュータ・プログラマが、必ずそうなるということを言っていたが、彼自身がそうだったのだろうし、まだマイクロソフト社が小さかった頃に、若いプログラマ達のそんな様子を見たのだろう。
それは、神秘についても同じらしい。ラマナ・マハルシが、やはり、若い修行者が、心身や周囲の世界を支配し、神秘力をも獲得して自信を持った時に、修行の本筋から外れてしまうのだと言っていたようだ。
では、これらの、膠着状態に陥り、多くは自信を失い、身動きできない求道者は、どうやれば輝きを取り戻し、自由に活動できるようになるのかというと、真の目標に立ち返ることである。
芸術家であれば、真のエクスタシ(忘我)を求めていたはずだし、スポーツ選手なら肉体と精神の一致の神秘を求めていたはずだ。技術者であれば、大自然の法則を目に見える形にしたかったのだろうし、科学者であれば内なる英知の声を聞きたかったのだ。セールスマンは、自他の区別が消失する神秘を求めているのだ。
そして、人間は、いかなることをしていても、真の目標は1つで、どれも同じなのである。

本来は、信仰というものは、人間の真の目標を最も純粋に目指すものであったはずだが、宗教を作って宗派同士、果ては、同じ宗派内での利権争いばかりにうつつをぬかし、現在においては、人間のあらゆる活動の中で、最も道から遠いものになっているのである。
また、信仰の下僕として始まった芸術もそうであったのだが、芸術もまた権威主義や、日本では、流派といった閉鎖的な家門主義がはびこり、道どころではない醜いものに堕落している。
だが、幸い、信仰も芸術も、自然を師とすれば、1人で道を探求することができるのであり、真に志があれば、牢獄のような流派宗派に背を向け、顔を上げて高いところを目指すことができるのである。
それは、信仰や芸術だけではない。イツァク・ベントフという哲学者は、学歴は幼稚園中退であるが、自然を深く観察することで、卓越した医療エンジニアになったし、三鷹光器の中村義一さんは学歴は小学校中退であるが、やはり自然に学び、NASAの宇宙船に搭載されるカメラや大手メーカーを上回る医療光学機器を開発したという。
およそ、優れた発明というものは自然の模倣なのであり、あらゆる技術改革はそうやって生まれたのだ。コンピュータソフトウェアも例外ではなく、自然から外れた、人間の思考だけで生み出したものは決して長続きしていない。

我々は、何をするにしてももっと自然に接しないといけない。そして、最初に述べたような、にっちもさっちもいかなくなったら、大自然の中に身を置くことだ。すると、問題は嘘のように解決するのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

尊厳を取り戻すために

人にとって、尊厳ほど大切なものはないが、それは著しく誤解されている。
栄光やプライド(自尊心)は尊厳ではない。
なぜなら、「過去の栄光」とか、「プライドを捨てる」と言うが、尊厳に時は関係なく、永遠に尊いし、尊厳を捨てることは宇宙が消え去ることだからだ。

だが、世に偉人と讃えられる老人ですらこう言うのだ。
「物への執着は捨てた。だが、名誉欲はそうはいかない」
しかし、時が来れば、神は人から自尊心を容赦なく奪う。
例えば、どんなに賞賛を浴び、栄光と共にあった人でも、年を取ると必ず落ちぶれる。その時、自尊心が強いままだと惨めなものだ。

自尊心を持ったままだと、どんな人間でも惨めになる。それは、早く悟らせようとする天の配慮だ。アインシュタインが言う通り、「神に悪意はない。老獪なだけ」である。
どんなに財力があっても、最も痛い欠点を妻や子供に残酷に突かれる。自尊心にとりつかれていると、それは避けられない。実際、金持ちほど、私生活は惨めなものなのだ。

我々は、失った尊厳を取り戻さなければならない。
そのためには、自尊心や栄光を支えるものを捨てるしかない。立派な学歴、金メダル、地位、肩書き、不要な財産などだ。
また、若くて美しい間に、容姿に関する自尊心を捨てなければ、老いは普通の人の数百倍も惨めで、そして滑稽なものになる。
最初から美しくなければ幸いだ。まさに、貧しき者は幸いである。
『レ・ミゼラブル』で、ミリエル司教の妹は、若い時でさえ美しくなかったが、老人になってから気高い美しさを纏うようになった。彼女は、最初から自尊心など持たず、栄光に縁がなかった。心が曇った時期はあったろうが、老境に達し、尊厳を知ったのに違いない。

では、本当の尊厳とは何だろう?
我々の心は、宇宙の心とつながっていて、決して離れることはないということが尊厳なのである。
自分が無になるにつれ、個人の心は宇宙の心と溶け合う。これを、宇宙の心と一体になるとか、宇宙になるとか、いろいろに表現する人がいるが、言葉で言うなら、そういった言い方になるのだろう。
宇宙の心を神や仏の心、神仏そのものと思っても良い。
つまり、我々自身が宇宙、あるいは、神仏であるということが、真の尊厳なのである。
存在そのものが尊厳である。
だから、「私は在る」という言葉が、最も高貴なものであると、あらゆる場所で言われてきたのだ。

具体的には、まず、食欲を克服しなければならず、そのために、しっかり食を節することが必要だ。
なぜなら、食欲は魂を縛るからだ。解放された魂でなければ、尊厳と自尊心の区別はつかないのである。
だが、無理をしたり、極端に走ってもならない。断食により、かえって食べることへの渇望を持ってしまうという滑稽な誤りを犯してはならない。
また、「私は断食をする」とラッパを鳴らした上で始める者もいる。しかし、イエスは、顔に油を塗ってでも、断食していることを隠せと言ったのだ。でなければ、自尊心を強くしてしまうからだ。
ラマナ・マハルシが教えたように、「清らかな食事を適切な量」食べることが最上である。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼

最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード