ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

脱世間常識の年齢考

自分より若い人を羨ましいと思うだろうか?
70代の引退した人が30代の上り坂のビジネスマンに、40代で体力がなくなり、お腹も出てきた男性が23歳のすっきりした身体つきの若者に、あるいは、20代の十分若い女性がノーメークで美しい女子高生に、羨ましいと感じるものだろうか?
渡部昇一さんの1977年の著書「知的風景の中の女性」という古い本にあるが、大学のパーティーで、たまたまパートナーが見つからなかった男子大学生が 16歳の従妹を連れていったところ、女子大生がみんな惨めなほどオバさんに見えたという話がある。そして、あくまで当時のであるが、渡部さんは、無限の権力を持つ男性なら、本音としては10代半ばの女性を求めるだろうといったことを書いていたと思う。確かに、皇帝ナポレオンの恋人は15歳だったし、51歳のシーザーは15歳のクレオパトラに出逢って全能の力を発揮し、聖徳太子の側室(正妻以外の妻)はことごとに10代前半だったりである。60過ぎのピカソは、「僕、ピカソ」の一言で通用する口説き文句で16歳の美術学校の女生徒をナンパし、あげく、結婚している。
男の場合は、「時をかけるおじさん」サンジェルマン伯爵は、単なる伝説かもしれないが、好きな年齢から老化しなかったというが、その年齢を、風格と若々しさを併せ持つ40歳としたらしい。有名なヨーギ(ヨガ行者)のババジは数世紀に渡って生きたとされるが、外見はずっと25歳から35歳(現代的には35歳ということと思う)であったと言われる。

例えば、50歳と18歳の人がいるとする。一般的には、若さの違いは明らかである。
しかし、50年経てば、18歳の人は68歳だ。では、50歳だった人は100歳であるのだが、80歳で「若死」し、すぐに転生したので20歳であったりする。
もし、そういったことが本当のことなら、若いことは良いことだとしても、別に羨ましいことではない。
それを信じられないのは、なんと言っても前世の記憶がないからである。
ところが、本人もあまり言わないし、言う必要も感じていない場合が多いが、前世をはっきり憶えている人もいるかもしれない。
ただ、「300年前は武士で」とか、「5000年前は神官だった」とか言う人は、おそらく単なる妄想だろう。仮に本当だとしても、その間の別の生を忘れているか、押し殺しているのだろう。日陰者やろくでなしだった人生など忘れたいものかもしれない。
前世に執着しないなら、憶えていることが出来るだろう。
例えば、前世での自分の子供などの家族や親友に逢って、そうと認識できても、ただ、全ての人に対するのと同じ平等な愛情だけを感じるほどに進化したなら、前世を忘れる必要もない。
前世を記憶している人をことさらに取り上げる本などもあるが、子供は案外によく憶えているものであるし、前世の自分の姿を現実と変わらないくらいはっきりと見て、大人にその話をするので、子供は空想の友達を持っているとか言われる。もっとも、現在では、子供は大人にそんな話をしなくなった。即座に否定されるか、そうでないとしても、大人が真面目に聞かないからだ。精神医学や心理学では、そのようなケースをあたりさわりのない仮設で説明し、それが一般論になったりもしていると思う。

もし、前世のことを明晰に憶えていられるなら、死も全く恐ろしいものではなくなる。
政木和三さんは、80歳を過ぎていた時、「自分はとっくに死んでいるはずだが、神様が何度も延命させてくれた。この身でやることがあったし、楽しくはあったが、そろそろ新しい身体が欲しい」と、よく言われていた。
死が恐くないと言っても、自殺をすると必然的に厳しい来世になる可能性があるし、年をとったり病気になった身体をうまく扱うことは良い学びになり、心がけ次第で楽しくなることも多い。決して老化しない方法を見つけて楽しむことも出来る。斎藤一人さんは200歳まで生きると大真面目に言っておられるらしいが、別段、驚くことでもない。私は、人間は潜在的に数百年、若いままで生きられると思っているし、私は、生前の政木和三さんに「君は千年生きられる」と言われたものだ。
政木さんは70歳を過ぎて身長が伸び、50歳過ぎて始めたゴルフでは70歳を過ぎてもプロのパワーゴルファーより飛距離を出せた。ヘンリー・フォードが愛読したトラインの著書には80代なのに25歳の女性に劣らない若さを持つ女性の話がある(下記の2冊目に紹介する書籍の80ページ)。
年齢に関する世間の考え、信念など捨てることだ。自分が何歳だとか思うこともほとんど意味はない。ただ、日々学び向上することが大切なのである。







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自然で根本的な寒さ対策

「武士道」に書いてあったと思うが、新渡戸稲造は、あるきっかけで毎日、行水をすることと決め、堅い意志で励行(決めたことを実行すること)していたが、風邪をひいて高熱がある日も行って医者に怒られたという。
そのくらいの意志の強さも必要と思うが、最近は、この話を思い出すと、やや疑問がある。
行水で鍛えている者が風邪などひくだろうか?私は行水などしないが、風邪は全くひかない。ただ、少し前は、すぐに風邪をひいた。1日1食を始めてからは、最初の頃に一度ひいた覚えがあるが、後は風邪をひくことは想像もできないほどになった。新渡戸は、必要以上に食べていたのだと思う。

ところで、真冬に行水をやったことがあるならご存知かもしれないが(そんな人は少ないとは思うが)、確かに水を浴びる時は厳しいのだけれど、しばらくするとぽかぽかしてくるのである。
身体というより脳幹が生命の危機を感じ、発熱を起こすのである。その際に、燃料として真っ先に使用されるのが体脂肪であろうから、行水は良いダイエットになる。実際に、行水と少食で短期間に20キロも痩せた人を見たことがある。

スポーツの秋とかいう。
確かに、気候が良く、ONE-MATアスリート(畳1枚の広さで運動する者)である私も、調子が出てくる。まあ、季節が変わるごとにそう言うのであるが・・・
毎月10回ずつ回数を増やす腕立て伏せは、今月から160回になった。毎月、回数を増やした当初の2~3日は少しきつく感じるが、すぐに馴染んでくる。
腹筋運動は、朝と夜に150回ずつ。スクワットは夜だけ100回。他に、スワイソウという腕を前後に振るだけの運動を毎日千回行う。
これらは、1年365日、休むことがない。毎日やることが何より大事で、無理のない範囲でやらないといけない。
腕立て伏せを毎日やるのは間違いだという説もあるが、私はそうは思わない。自然の中で働く人では、毎日、長時間に渡って筋肉を激しく使っているが、恐ろしく強健である。もちろん、人体にとって不自然な動きが要求される運動を毎日やると身体も痛む。大方の競技スポーツの動きは、訓練も含め、自然でなく、長く高度にやるほど身体が痛み、プロスポーツ選手の大半が身体の故障を抱えている。故障には大食の影響もあると思う。そして、引退後は身体がボロボロという人も少なくない。
腕立て伏せは、誰が考えたのか知らないが、適度な負荷の素晴らしい運動で、私も、毎日やることで身体機能が著しく向上し、理想的な身体になってきた。マイケル・ジャクソンは毎日300回(連続ではないと思う)やっていたらしいが、不要な筋肉のない美しい身体をしていた。彼も1日1食のベジタリアンと聞く。 50歳になっても、パフォーマンスが衰えなかったのもうなづける。

ところで、私は、1日1食の菜食主義者となり、体脂肪がなくなってくると、寒さを強く感じるようになった。これには驚いたし、本当に参ってしまった。
流行の保温下着を着込み、使い捨てカイロを大量に買い、厚着をしていたが、やはり寒い。冬が近付くと憂鬱であった。
ところで、私は、天使の声を聞けるよう努力していたのだが、少し前に、「寒さに耐えて鍛えろ」というメッセージを受け、すぐに納得した。丁度その頃から急に寒くなったのだが、なるべく薄着をし、暖房器具を使わないように心掛けた。寒い寒いと言って自分を甘やかさずに、鍛えれば良いのである。言われてみれば、至極当然だ。元横綱の曙は、ハワイからやってきた当初、寒さに弱かったが、親方は裸で板の上に座らせるなどで彼を鍛え、おかげで彼は寒さに強くなったと感謝していた。
私は、1日1食で間食もしないとは言っても、極端な少食というわけではなく、ちゃんと食を楽しみ、180cmで65kgはあるし、アーモンドやクルミを常食しているので、発熱に必要なタンパク質は十分にある。早朝に薄着で出かけると、当初は寒いが、10分も歩くと快適に感じる。車なんかに決して乗ってはならないと改めて感じる。
暑さ寒さに耐えることで脳幹が鍛えられ、生命力が強くなり、結果、若返ることにもなる。金はかからず、身体にも良い究極の美容法でもあるのだ。

尚、上に書いた「天使の声を聞く」というのは、たとえで言ったのであり、別の言い方をするなら、直観とか、高次の意識との同調と言っても良い。欲望を捨て、心を澄み切らせた時に聞くことが出来る。常時、それに従うなら、あらゆる気苦労は消える。私は今はまだまだである。
エマニュエル・スウェーデンボルグは、英国に滞在していた頃、夕食を食べ過ぎた時、天使が現れ、「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」と警告されたようだ。彼の場合は、かなりリアルに天使や霊を見ていたらしい。





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話せば分かるか?

「話せば分かる」という我が国で有名な言葉は、五・一五事件(1932年)と言われる犬養毅首相の暗殺事件の際、犬養毅が自分に銃を突きつけた青年将校に言ったものであるらしい。
さらに、犬養は、撃たれて虫の息になりながらも、「今の若い者をもう一度呼んで来い。話して聞かせる」と言っていたとも言われる。
しかし、本当に話せば分かるのだろうか?

「話し合いで解決しようなんて優等生の考えそうなことね!」
「話し合いは大切よ!」
これは、アニメ「ふたりはプリキュア」(プリキュアシリーズの第1作)で、ヒロインの2人が険悪な状態にある時になされた会話だ。
この2人、なぎさとほのかは、性格がまるっきり違い、なかなか仲良くなれない中、あるきっかけでお互いを傷付けるような言葉を言ってしまってから、気まずくなり、お互い距離を置いていた。
2人共、相手が自分には合わないのではないかと悩む。
しかし、それも、ほのかが、なぎさを「なぎさ」と呼んだ一言で終わる。それまでは、お互い、「美墨さん」「雪城さん」と呼び合っていたのだ。なぎさも、ほのかを「ほのか」と呼び、2人は笑い合う。

しかし、考えてみればおかしな話だ。
2人は、相手が自分に合わないのではと悩んでいたということは、お互い、相手が好きだということだ。それを感じていたのに、何かが邪魔をしていたという訳だ。それは2人の心だ。お互い、好きだというフィーリングに従えば、何の困難もなかったというのに。
彼女たちが素直にフィーリングに従えなかった理由は、優等生で上品で美少女である雪城ほのかが、スポーツマンだが勉強嫌いで上品でもなく、ハンサムガールだが女らしくない美墨なぎさより上位にあるという、世間的な偏見ではなかったかと思う。
別にほのかはなぎさを見下していたわけではないが、自分の価値観を揺さぶる相手ではあり、無意識に抵抗を感じていたに違いない。それが、ほのかは彼女の祖母に、「この前、あの子(なぎさ)が来た時のお前は楽しそうだった」と言われて、やっと自分の本心に気付いたのだ。なぎさの方も、ほのかにひけ目を感じ、それが抵抗になっていたのだろう。
2人共、抵抗を感じる理由など本当は何もなかった。そんな余計なことを彼女たちに考えさせたのは、世間の信念や教義であったと思う。

「私は、フェイトちゃんとお話したいだけなんだけどな」
アニメ「魔法少女リリカルなのは」で、逢えば戦うことになるだけのフェイトに、なのははそう言い、フェイトは少しの戸惑いを見せる。
そして、ついになのはは、
「もし私が勝ったら、ただの甘ったれじゃないってことが分かったら、ちゃんとお話聞いてくれる?」
と言い、フェイトに本気の勝負を挑む。
良い話ではあるが、これも馬鹿なことなのだ。
容赦のない攻撃で傷を負わされながらも、フェイトのことが気にかかるのは、なのははフェイトが好きなのだ。そして、おそらく、フェイトの方も、なのはを一目見た時から彼女を好きだったのに違いない。
しかし、そんな自然なフィーリングに従えないことが、この世の不幸である。

我々は、様々なしがらみ(邪魔をするもの)を持って生きている。それは、人々の欲望が生み出した利害であるのだが、根本は世間的な価値観、信念、教義だ。
何の欲望も偏見もなく、自我が高位の自己の崇高な意志に従えば、一切の気苦労はなくなるはずなのだ。もし、我々よりはるかに進化した星があるなら、そこの住人はそんな心を持って生きることで、天国を実現しているのである。

我々には、話さなくても分かる直観や印象やフィーリングという優れた知覚能力を本来は持っている。しかし、世間の幻想や欲望にまみれていると、それらも歪む。
世間の信念や教義を超え、個人的欲望を離れることが我々の達成すべき義務であり、地球を天国にする鍵である。そして、それは現実的な力にすらなり、物質的な問題をも解決する。

ただ、次善ということもある。
なぎさとほのかは、お互い、苗字ではなく、「なぎさ」「ほのか」と呼び合うことで心が溶け合った。
なのはとフェイトも同じだった。
「私でよければ、友達になりたい。だから教えて!どうすれば友達になれるのか」
「簡単だよ。名前を呼べばいいんだ。あなたとか君とかじゃなくて。私、なのはだよ」
しかし、本当は名前も不要なのである。







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名前は本当に必要か?

「風歩」という、森山風歩さんの自伝がある。
風歩さんは、幼い時に筋ジストロフィーという、筋肉が収縮していく病気に罹り、小学生の頃には運動能力を大きく奪われていた。その中で両親に虐待され、学校では、優等生と言われる子供や教師までもが参加するいじめに遭ってきた。
信じられないことに、一目瞭然なほどの症状でありながら、大怪我をして病院に運ばれ、そこで医師が診断するまで、親も教師も、彼女がいくら身体の異常を訴えても、それを無視し認めなかった。そればかりか、動けない彼女を怠け者と非難し、親に水を汲んできてくれるよう頼むと、「甘えるな」と言って殴られた。
母親は、抵抗が不可能な風歩さんの頭を掴んで床に彼女の顔を何度も叩き付け、風歩さんはただ、舌を噛み切らないよう、歯を食いしばることしか出来なかった。それを父親が冷たい目で見ている。父親は名士で、上流家庭だった。
「風歩」の中で、風歩さんは、「1人殺してよいなら母親を、もう1人よければ父親」と書いている。
ところが、そんな両親が付けた風歩という名は好きだというから不思議だ。
風歩さんは、自分では容姿に自信がないと書いていたが、なんのなんの、29歳の今でもセーラー服が似合う美少女である。
森山風歩オフィシャルブログ

名前というのは不思議なものである。
「サイボーグ009」では、001(ゼロゼロワン)から009(ゼロゼロナイン)までの9人の仲間がいるのだが、そのナンバー名を付けたのは、彼らを無理矢理にサイボーグ(機械人間)に改造した悪の組織「ブラックゴースト」である。ところが、彼らはその名で呼び合うのである。
「まほろまてぃっく」という漫画・アニメでは、やはり強制的にサイボーグ化された14歳の少女は、名前はなく、378というコードネームを付けられていたが、組織を脱出した彼女に、善意で378を読み替えたミナワという名前が付けられる。私は、そんな忌まわしい名前で良いのかと疑問を感じたものだ。
「魔法少女リリカルなのは」では、ヒロインの1人フェイト・テスタロッサは、自分を虐待し続けた上に捨てた母親の姓テスタロッサと、実験用コードネームに過ぎなかったフェイト(運命の意)という名を使い続ける。

親が好きでない人間、さらには、憎んでいる人間でも、やむなくとか、改名が面倒という理由もあるだろうが、親の付けた名前を使い続ける場合が圧倒的に多いと思う。
名前というのは、付けた者とは独立した存在なのだろうか?
人は名前を付けるのが好きなようだ。どんな動植物、地域、道具、そして、星にまで名前を付ける。ナイフという1つの道具でも、種類によって全て異なる名前がある。
自分の持ち物、例えば、自動車やパソコンに自分で名前を付ける人もいる。

言うまでもなく、動物は名前を付けないし、付けることもできない。しかし、彼らはあらゆるものを必要に応じて識別する。
人間は名前があるから、ものごとを不必要に区別し、それが差別につながりという部分もあると思う。動物も、例えば猿では、群の中の順列を持っているが、実用的な目的のみの単純な識別だ。
人間は、ものごと、特に人を、極めて複雑に、そして、不必要な理由で分類したがるように思う。そして、その分類を可能にするのが名前だろう。
政木和三さんは、アパートの向かいの部屋に住んでいた、よく顔を合わせる人の名を、そこに住んでいた数年間の間、ついに憶えなかったという。そもそも、人の名前をあまり憶えないそうだ。
私も、近所の人や、職場の人などの名前をあまり憶えないのだが、あまり不都合はない(時として困るが)。そして、親しみを感じる人ほど、名前の必要を感じない。
空想と言われる場合が圧倒的かもしれないが、宇宙人とのコンタクティー(接触者)として世界的に知られるジョージ・アダムスキーによると、地球以外の進化した惑星では、人に名前はないのだという。人だけでなく、星にも無いし、おそらく、全てのものについて、一般呼称以上の名前は無いのだろう。精神的な能力が発達し、想念で識別が出来るので、名前が不要なのだ。そして、地位や階級といった差別がなく、人々は平等であるという。非常に興味深いと思う。
個人的には、私も人に名前は不要と思っているし、自分が名乗るのも幼い頃から違和感を持っていたものである。名前がなければ、「我こそは・・・」といった名誉欲も持たないだろう。





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宿命に負けることで人生に勝利する

インドの聖者ラマナ・マハルシは17歳で突然、家を出て、幼い頃からの憧れの地あったティルバンラマナイという場所にあるアルナチャラの丘に住む。
しばらくして、マハルシの居場所を探り当てた母親がやって来て、家に戻るように懇願したが、マハルシは受け入れなかった。しかし、母親は、偉大な聖者となっていた彼に帰依し、そこに留まった。
やがて、母親は重病にかかる。
マハルシは神に、母の病を治すべきだと祈ったが、すぐに、「葬儀には何が必要だろうか?」と考えた。母の死が自然の意志であることが分かったのだろう。

この話に、イエスが山に登って祈った時のことを思い出す。
捕えられて磔にされる直前のことである。
イエスは、自分の運命を知っていたが、一度神に、それを変えてくれないかと願ったのだ。しかし、自分の死が神の意志であることを確認すると、それを受け入れた。

本物の聖者というものは、意のままに心を澄み切らせることが出来るらしい。そうしたら、真の自己である、万物の創造者(神)の意識と1つになるので、その意志が分かるのだろう。
いや、我々だって、聖者ほどでないにせよ、「うすうす」とは分かるのだ。しかし、個人の心がそれに逆らい、受け入れないのである。
1930年のドイツ映画「嘆きの天使」で、真面目一筋で生きてきた老教師が、軽薄だが若く美しい踊り子のローラの魅力に溺れ、結婚する。そして悲惨を味わうことになる。ローラは結局は気紛れでわがままな、ものの理を解さない浅はかな女だった。
老教師も分かっていたはずだが、彼女の性的魅力に勝てなかったのだ。生涯独身の孤独に耐えるのが、この老教師の宿命だった。彼は宿命に勝ってしまい、ローラを得てしまった。

我々は、宿命に勝ってはならない。個人の心が万物の創造者の意志に勝つことを願ってはならない。宿命に負けた時が勝利への道を選んだ時なのだ。

1963年のアニメ「エイトマン」で、原作者の平井和正さん自ら脚本を書いた「決闘」というお話がある。
主人公のスーパーロボット、エイトマンを開発した谷博士には息子がいたが、息子は別の科学者によってロボット化され、エイトマンに決闘を挑んだ。
谷博士にとっては息子同士の戦いのようなもので、事情を知る警視庁の田中捜査課長はエイトマンに決闘を止める。しかし、エイトマンは、「これが宿命ってやつなんです」と言って、意には反するが決闘の地に向かう。
エイトマンは宿命に負けてみせた。エイトマンは自分が死ぬ気でいたが、谷博士の息子の方が死ぬことが運命であったことを、谷博士は元々気付いていたことを明かす。

心を澄み切らせた時、宿命が見える。それを、魔法の世界では、心を澄み切らせた時に呪文が浮かぶという言い方をしてきた。
これが未来予知の原理でもあるが、欲望があると心が濁るので、正しい予知が出来ない。つまり、超感覚的知覚でギャンブルに勝つなどは不可能である。
宿命とは、高位の自己の意思であるが、それは低い自己である個人の心にとっては楽しいことに思えないことが多い。そんな時、心は、高位の自己の意志である宿命に勝とうとする。だが、宿命に負けることで幸福になるのである。
神の啓示を受けたような文学などの創造作品は、実は全てそのことを示す。それが描ければ、あなたも文豪になれる可能性がある。

ニーチェは、いかなる運命も必然として愛する超人の姿を示したが、未熟な心のまま、神と一体化しようとしたのかもしれない。その心は、まだ神に従う必要があったが、神と争って心は破壊され、外面的には発狂した。
しかし、既に心神喪失しているニーチェを見て、ルドルフ・シュタイナーは、そこに溢れる知性に驚愕した。おそらく、ニーチェの心は失われて、もう存在しなかったが、神の意志が純粋に現れていたのだと思う。
だが、人生を楽しむためには、我々は神の下僕としての心は保持すべきなのだろう。





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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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