まきさんからの質問にお答えしたい。
Q.犯してしまった罪はどうしたら赦されますか?
答は以下の通り。
赦される運命であれば赦される。
赦されない運命であれば、どうやっても赦されない。
罪を犯すのはなぜだろう?
罪を犯す運命であったからだ。
誰も、自分の思うままに、善いことも悪いこともできない。
運命であれば、罪を犯すことは避けられない。
では、なぜ、神はその者に、罪を犯す運命を与えたのであろう?
それは、決して分からない。
それを知ろうとする者は、デルフォイのアポロン神殿の入り口に書かれた警告を知らねばならない。
「身の程をわきまえろ」
神ならぬ人間が、神の意図を知ろうとすることは、思い上がった身の程知らずなのである。
『バガヴァッド・ギーター』で、親しい友や、愛する親族と戦って殺すことは出来ないと言って戦いを拒否するアルジュナ王子に対し、主クリシュナは、「彼らは神によって既に殺されている。自然の本性のまま戦え」と言う。
全ては神のシナリオであり、アルジュナは劇を演じる役者に過ぎない。
役者は、シナリオ通りに演じる以外には、決して何もできない。
あなたは罪を犯すかもしれない。
そして、裁かれるかもしれないし、そうでないかもしれない。
それを自分で決めることはできない。
ソクラテスが、自分には罪はないと、堂々と弁明したが、自分を死罪とした判決は受け容れた。
彼は、自分の主張が認められくても、法や国家を、これっぽっちも否定しなかった。
なぜなら、彼は、すっかり老人になったその日まで、その国に住んで、その庇護の元に生き、法から利益も得ていたからだ。
自分の都合の悪いことに対してだけ、法や国家に文句を言うのはおかしいと言う訳だ。
それが、彼の論理である。立派なものである。
だが、彼が国家の中で法に守られて生きたのも、法の裁きを受け容れたのも、全て、ただ運命であったのだ。仮に、彼が見苦しくも、国家や法に意義を唱えても、それもまた運命とみなすしかないのだ。
そして、罪を犯したあなたは、人々に見下され、自分でも悔恨の念を持って苦しむかもしれない。
それが神の決めたシナリオであれば、全て無条件に受け入れるしかない。
そのような者を、神々も地に伏して崇めると、親鸞は言ったのである。
考えてみれば、我々は皆、数え切れない罪を重ねている。
その中には、どんな形であったかはともかくとして、裁かれたものもあるだろうし、そうでなかったものもあるはずだ。
そして、それは自分で決めたのではないことが、はっきり分かるはずである。
時には、他人から裁かれたか、そうでないかに関わらず、罪を償いたいと思うかもしれない。
そして、それも思うように出来ないことを知るだろう。
それで、自分が苦しむことで償おうとする。
それは、悪人を演じた役者が罪を償おうとするようなもので、滑稽なことだ。
W.B.イェイツは、『ラピス・ラズリ』という詩の中で、「主役に値する役者は、自分が泣いたりしない」と述べた。同じように、主役を演ずるに足る役者は、劇中で犯した罪を自分で償ったりしない。
それよりも真理を知ることだ。
ラマナ・マハルシはこう言っている。
「たとえ、あなたが罪人であっても、『私は罪人だ』と思って苦悩してはならない」
なぜだろう?
それは、真理は、釈迦が言った、「行為はあるが、行為者は存在しない」ということだからである。
『荒野の七人』という映画で、その七人の中の一人のガンマンが、こう言ったことを覚えている。見たのは、子供の時だった。
「裸でサボテンの中に飛び込んだやつがいた。それで、なぜそんなことをしたのかと聞いたんだ」
「なんて答えたんだ?」
「その時は、それでいいと思ったんだそうだ」
別におかしな話ではない。皆、そうなのである。
我々は、自分が何をしているのかも分からない。
なぜなら、我々は、操り人形のように、ただ動かされているだけのものに過ぎないからだ。
ならば、全てを、ただあるがままに受け入れ、思慮分別を離れることだ。
それが神の意志に全てを任せることだ。そうすれば、あなたが傷つけられることは決してないだろう。
『バガヴァッド・ギーター』や『荘子』をよく学び、理解していただきたい。
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Q.犯してしまった罪はどうしたら赦されますか?
答は以下の通り。
赦される運命であれば赦される。
赦されない運命であれば、どうやっても赦されない。
罪を犯すのはなぜだろう?
罪を犯す運命であったからだ。
誰も、自分の思うままに、善いことも悪いこともできない。
運命であれば、罪を犯すことは避けられない。
では、なぜ、神はその者に、罪を犯す運命を与えたのであろう?
それは、決して分からない。
それを知ろうとする者は、デルフォイのアポロン神殿の入り口に書かれた警告を知らねばならない。
「身の程をわきまえろ」
神ならぬ人間が、神の意図を知ろうとすることは、思い上がった身の程知らずなのである。
『バガヴァッド・ギーター』で、親しい友や、愛する親族と戦って殺すことは出来ないと言って戦いを拒否するアルジュナ王子に対し、主クリシュナは、「彼らは神によって既に殺されている。自然の本性のまま戦え」と言う。
全ては神のシナリオであり、アルジュナは劇を演じる役者に過ぎない。
役者は、シナリオ通りに演じる以外には、決して何もできない。
あなたは罪を犯すかもしれない。
そして、裁かれるかもしれないし、そうでないかもしれない。
それを自分で決めることはできない。
ソクラテスが、自分には罪はないと、堂々と弁明したが、自分を死罪とした判決は受け容れた。
彼は、自分の主張が認められくても、法や国家を、これっぽっちも否定しなかった。
なぜなら、彼は、すっかり老人になったその日まで、その国に住んで、その庇護の元に生き、法から利益も得ていたからだ。
自分の都合の悪いことに対してだけ、法や国家に文句を言うのはおかしいと言う訳だ。
それが、彼の論理である。立派なものである。
だが、彼が国家の中で法に守られて生きたのも、法の裁きを受け容れたのも、全て、ただ運命であったのだ。仮に、彼が見苦しくも、国家や法に意義を唱えても、それもまた運命とみなすしかないのだ。
そして、罪を犯したあなたは、人々に見下され、自分でも悔恨の念を持って苦しむかもしれない。
それが神の決めたシナリオであれば、全て無条件に受け入れるしかない。
そのような者を、神々も地に伏して崇めると、親鸞は言ったのである。
考えてみれば、我々は皆、数え切れない罪を重ねている。
その中には、どんな形であったかはともかくとして、裁かれたものもあるだろうし、そうでなかったものもあるはずだ。
そして、それは自分で決めたのではないことが、はっきり分かるはずである。
時には、他人から裁かれたか、そうでないかに関わらず、罪を償いたいと思うかもしれない。
そして、それも思うように出来ないことを知るだろう。
それで、自分が苦しむことで償おうとする。
それは、悪人を演じた役者が罪を償おうとするようなもので、滑稽なことだ。
W.B.イェイツは、『ラピス・ラズリ』という詩の中で、「主役に値する役者は、自分が泣いたりしない」と述べた。同じように、主役を演ずるに足る役者は、劇中で犯した罪を自分で償ったりしない。
それよりも真理を知ることだ。
ラマナ・マハルシはこう言っている。
「たとえ、あなたが罪人であっても、『私は罪人だ』と思って苦悩してはならない」
なぜだろう?
それは、真理は、釈迦が言った、「行為はあるが、行為者は存在しない」ということだからである。
『荒野の七人』という映画で、その七人の中の一人のガンマンが、こう言ったことを覚えている。見たのは、子供の時だった。
「裸でサボテンの中に飛び込んだやつがいた。それで、なぜそんなことをしたのかと聞いたんだ」
「なんて答えたんだ?」
「その時は、それでいいと思ったんだそうだ」
別におかしな話ではない。皆、そうなのである。
我々は、自分が何をしているのかも分からない。
なぜなら、我々は、操り人形のように、ただ動かされているだけのものに過ぎないからだ。
ならば、全てを、ただあるがままに受け入れ、思慮分別を離れることだ。
それが神の意志に全てを任せることだ。そうすれば、あなたが傷つけられることは決してないだろう。
『バガヴァッド・ギーター』や『荘子』をよく学び、理解していただきたい。
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