ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

罪を犯したらどうすればいいか

まきさんからの質問にお答えしたい。

Q.犯してしまった罪はどうしたら赦されますか?

答は以下の通り。

赦される運命であれば赦される。
赦されない運命であれば、どうやっても赦されない。

罪を犯すのはなぜだろう?
罪を犯す運命であったからだ。
誰も、自分の思うままに、善いことも悪いこともできない。
運命であれば、罪を犯すことは避けられない。
では、なぜ、神はその者に、罪を犯す運命を与えたのであろう?
それは、決して分からない。
それを知ろうとする者は、デルフォイのアポロン神殿の入り口に書かれた警告を知らねばならない。
「身の程をわきまえろ」
神ならぬ人間が、神の意図を知ろうとすることは、思い上がった身の程知らずなのである。

『バガヴァッド・ギーター』で、親しい友や、愛する親族と戦って殺すことは出来ないと言って戦いを拒否するアルジュナ王子に対し、主クリシュナは、「彼らは神によって既に殺されている。自然の本性のまま戦え」と言う。
全ては神のシナリオであり、アルジュナは劇を演じる役者に過ぎない。
役者は、シナリオ通りに演じる以外には、決して何もできない。

あなたは罪を犯すかもしれない。
そして、裁かれるかもしれないし、そうでないかもしれない。
それを自分で決めることはできない。

ソクラテスが、自分には罪はないと、堂々と弁明したが、自分を死罪とした判決は受け容れた。
彼は、自分の主張が認められくても、法や国家を、これっぽっちも否定しなかった。
なぜなら、彼は、すっかり老人になったその日まで、その国に住んで、その庇護の元に生き、法から利益も得ていたからだ。
自分の都合の悪いことに対してだけ、法や国家に文句を言うのはおかしいと言う訳だ。
それが、彼の論理である。立派なものである。
だが、彼が国家の中で法に守られて生きたのも、法の裁きを受け容れたのも、全て、ただ運命であったのだ。仮に、彼が見苦しくも、国家や法に意義を唱えても、それもまた運命とみなすしかないのだ。

そして、罪を犯したあなたは、人々に見下され、自分でも悔恨の念を持って苦しむかもしれない。
それが神の決めたシナリオであれば、全て無条件に受け入れるしかない。
そのような者を、神々も地に伏して崇めると、親鸞は言ったのである。

考えてみれば、我々は皆、数え切れない罪を重ねている。
その中には、どんな形であったかはともかくとして、裁かれたものもあるだろうし、そうでなかったものもあるはずだ。
そして、それは自分で決めたのではないことが、はっきり分かるはずである。

時には、他人から裁かれたか、そうでないかに関わらず、罪を償いたいと思うかもしれない。
そして、それも思うように出来ないことを知るだろう。
それで、自分が苦しむことで償おうとする。
それは、悪人を演じた役者が罪を償おうとするようなもので、滑稽なことだ。
W.B.イェイツは、『ラピス・ラズリ』という詩の中で、「主役に値する役者は、自分が泣いたりしない」と述べた。同じように、主役を演ずるに足る役者は、劇中で犯した罪を自分で償ったりしない。
それよりも真理を知ることだ。

ラマナ・マハルシはこう言っている。
「たとえ、あなたが罪人であっても、『私は罪人だ』と思って苦悩してはならない」
なぜだろう?
それは、真理は、釈迦が言った、「行為はあるが、行為者は存在しない」ということだからである。

『荒野の七人』という映画で、その七人の中の一人のガンマンが、こう言ったことを覚えている。見たのは、子供の時だった。
「裸でサボテンの中に飛び込んだやつがいた。それで、なぜそんなことをしたのかと聞いたんだ」
「なんて答えたんだ?」
「その時は、それでいいと思ったんだそうだ」
別におかしな話ではない。皆、そうなのである。
我々は、自分が何をしているのかも分からない。
なぜなら、我々は、操り人形のように、ただ動かされているだけのものに過ぎないからだ。
ならば、全てを、ただあるがままに受け入れ、思慮分別を離れることだ。
それが神の意志に全てを任せることだ。そうすれば、あなたが傷つけられることは決してないだろう。
『バガヴァッド・ギーター』や『荘子』をよく学び、理解していただきたい。









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カツアゲの原理を逆に応用すればいじめっ子も手が出せない

「カツアゲ」とはおかしな言葉だと思う。なぜ、「カツサゲ」でないのだろう?
脅している相手を上げてどうするのだ?
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、ハルヒ(高1女子)は、キョン(高1男子)に言うことを聞かせるため、自分よりずっと背が高いキョンのネクタイを掴んで上に引っ張り上げ、
「協力しなさい!」
と命じる。
キョンは、「カツアゲされている気分だぜ」と思う。

カツアゲの時は、普通、襟首を掴んで上に引っ張り上げる。
なぜこんなことをするのか、考えたことがあるだろうか?
こうされると、やはり不安な気分になるのだ。つまり、上に引っ張られているのだから、「落ち着かない」のだ。なかなか論理的ではないか?
だが、おかしなことに、よく見たら、襟首を掴んでいる方も、まるで、見えない手に襟首を引っ張り上げられているかのごとく、アゴが上がっているのである。
なんとも間抜けな姿である。私は思わず笑ってしまう。

私が高校生の時、学校に非常に腹の据わった男子生徒がいた。彼は、大勢の不良にカツアゲされた時、襟首は掴まれているのだが、アゴを引き、胸を落としていた。
やがて、カツアゲしている方が動揺してきた。そして、不良共は、根を上げてしまい、捨てセリフを残して消えた。
その腹の据わった男子の家はお寺で、彼も修行をしていた。
本当の修行をしている者は、胸を出さない。肩をいからせ、胸とアゴを上げている不良が敵わないのは当たり前なのである。

ところが、日本の教育では、「胸を張り、腹を引け」である。これは脅しに弱い、落ち着かない人間を作る目的の教育である。
学校には決して従ってはならない。

日航社長や日銀副総裁だった柳田誠二郎氏が、心を病んでいた学生時代、岡田虎二郎の静坐の道場に行き、虎二郎の前に座った。
すると、虎二郎は、誠二郎の襟首を掴んだのだが、なんと、引っ張り下げた。カツアゲの反対である。
30分後、目を開けると、誠二郎の前には別世界があった。天国のような世界である。
カツアゲにも、一定の論理があることが分かる。では、その反対をやれば良いのだ。
アニメなどで、可愛い女の子が、自分より大きな男性(お兄さんのような人)に頭を撫でられて喜ぶ場面がよくある。
実際、そうしてもらうと落ち着くのだが、それは、好きな人に触れられる喜びと共に、頭を押さえることで、上がり過ぎた胸を下げるからなのだ。
誰だったか忘れたが、ある少女のアイドルが、寝る時は横向きになって、両手を股の間に挟んで寝ると言っていたのを覚えている。そうすると落ち着くからなのだが、これも、その姿勢をとれば、胸が腹に引き寄せられるからだ。

心というものは胸にあるように思える。
ラマナ・マハルシすら、ハート(この場合は、魂の座という意味)は胸にあり、そこから心が発生すると言った。
一方、魂は腹にある。
胸を張って胸を上に引っ張り上げると、心が魂から離れて、不安定になり、不安になるのだ。
反対に、胸と腹が近付くと、心が魂(神の分魂)に近付くのであり、神と一体化する。そうすれば、心が落ち着いて当たり前なのである。
心は神の中に溶け、そうなれば、何も恐れる必要はない。
合気道の達人、植芝盛平は、それが完全に出来ていたのだろう。
彼は神であり、宇宙であった。そして、全ては宇宙の中、神の中である。
だから、敵が植芝と争おうとした時、自分がその一部であるものと争うのであるから、最初から負けているのである。
だから、植芝は無敵である。猛獣すら、彼に挑むことは決してなかった。
ラマナ・マハルシも、虎が歩き回っている中で平然と瞑想し、どんな猛獣も彼を傷付けることはなかったという。

肩の力を抜き、背筋を伸ばし、自然に胸が腹に近付くような姿勢で立ち、座れば、自然に心が落ち着き、無限の力も出る。何もかもうまくいく。
ふんぞり返って座れば、腹と胸は完全に分断され、魂を見失ってしまう。電車の中では、そんな人だらけであることが分かる。
普段から、腹を意識することだ。
胸でハアハアとせわしく息をすれば、落ち着きをなくし、エネルギーを失う。
腹でゆったり呼吸すれば神とつながる。眠っている赤ん坊は腹で呼吸している。だから無敵である。
史上最強のプロレスラー、ルー・テーズが、彼の必殺技バックドロップを、「ヘソで投げる」と言っていたのが印象深い。
もちろん、物理的にヘソで投げるわけではないが、ヘソを中心に動くことが極意なのだろう。
ヘソは無敵であると言った偉大な霊覚者がいた。万能のヘソが開けば、何をやってもうまくいくし、事故に遭わず、病気にもならない。剥げ頭に毛も生えてくるという。
ヘソか丹田か、太陽神経叢(胃の裏側)か仙骨か尾骶骨かと人によって色々に言うが、いずれにしろ、胸の中の心を腹にある魂に近付けることである。









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腹が据われば運も良くなる

運と言うとき、その多くが、金運か女運(男運)と言うのではないかと思う。
あまり、健康運とか安全運などと言わないと思う。
ギャンブル運と言うことはあるが、ギャンブルとは、あくまで遊びであり、実利を求めるものではない。いかなるギャンブルの名人であれ、自分がいくら稼ぐかの予想は付かないし、トータルで言えば、収支はある程度のマイナスになるのである。

ところで、文豪と云われる作家の作品というものは、現実以上のリアリティがある。なぜなら、彼らは例外なく、優れた直感の持ち主であり、直感は真理を直接に知る唯一の方法だからだ。科学なんてのは、ただ、直感の正しさを裏付ける程度のものに過ぎない。
ソクラテスは、いかなる職業であれ、優れた仕事をする者は、間違いなく、ダイモーンの援助を受けていると言ったが、ダイモーンとは、内なる英知を使える声のことで、それが即ち直感なのだ。
この素晴らしい直感により、女運や金運について考えてみよう。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の中に、とてもモテる男が登場する。
彼は、酔っ払いながら、「俺って、どうしてこうも女運がいいのだろう」と言う。
実際、彼はどんな女にもモテるのだが、女にモテる以外には、何一つ取り得の無い男でもあった。
しかし、私には、彼がモテることに対するリアリティを感じるのだ。
さすが、ゴーリキーであると思う。
それはどんなところかと言うと、この小説のタイトルにもある26人の男達とは、社会の最下層にいる惨めな男達だった。あまりにも身なりが貧しく、公園にも入れてもらえないほどで、人生に何の希望もない、いったい、生きていることに何か意味があるのか分からないような男達なのだ。
しかし、その、狙った女は必ず落とす色男は、そんな男達にも、愛想よく親しげに接するのである。それも、全く普通にであった。彼自身は、社会的にはそこそこの立場で、若く、軍人上がりで逞しかった。彼のような男は、普通は、そんな男達を見下し、虫けらのように扱うに違いない。
それで、その男達も、彼のことは、女たらしの軽薄な男だと思いつつ、好意を感じていたのだった。

はじめに、ギャンブルは遊びだと述べたが、特殊な状況で偶然とは思えない運を発揮する者がいる。
ドストエフスキーの『賭博者』で、初めてギャンブル(ルーレット)をやった老婆は、最初から最後まで0に賭け、大勝ちする。彼女は、誰が止めても、0に賭けることを決して止めなかった。
この話は、ギャンブルに通じた人達もよく取り上げるのである。やはり、何か感じるのであろう。
そもそも、ドストエフスキー自身、どうにもならない賭博好きである。
また、彼は、銃殺で処刑される寸前に恩赦となり、運というものに対して、特別の思いもあるのだろう。

明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、岡田式静坐法という、人間形成のための行を教えていたが、指導を受けていたある男が、金に窮していることを訴えた。
すると、虎二郎は、「金?腹に力が付けば、金はいくらでも出来ます」と答えた。
私は、虎二郎のこの言葉が印象的だった。
『二十六人の男と一人の少女』の登場する、軍人上がりの(といっても大した軍人でもなかったが)色男は、普段は軽薄な役立たずなのだが、女を口説く時だけは、なぜか腹が据わるのだ。
この色男は、26人の男達に、ターニャという名の16歳の美少女には、お前でも歯が立たないだろうと言われ、プライドを傷付けられて取り乱したが、それでも、女に向かうとなぜか腹が据わるのだろう。もちろん、ターニャも見事陥落させた。
『賭博者』の老婆も、誰の言うことも聞かず、0に賭け続けた時は、やはり腹が据わっていたのだ。
だが、その時は大勝ちしたが、この老婆が次にまたルーレットをやり、同じように0に賭け続けた時、彼女は前の時のように腹が据わっていなかった。
それで、惨敗し、大金を失ったのである。

さて、なぜ腹が据わっていると運が良いのだろう?
そもそも、腹が据わるとはどういう意味だろう?
日本の学校では、いつの頃からは分からないが、おそらく、西洋の流儀に倣い、「胸を張って腹を引く」という姿勢を取るよう、子供を指導した。
それから、日本人は、魂と心が分離し、腹が据わらなくなったのだ。
これは、多くの賢い人達が指摘していることであるが、当然の結果なのである。
胸を張って腹を引くと、胸にある自我は魂のある腹から離れ、自我を中心に置くようになる。
それとは逆に、日本人の本来の姿勢である、肩の力を抜き、自然に背筋を伸ばした姿で立ち、あるいは座ると、胸が腹に近付き、心は魂に溶けるのである。
赤ん坊を見ると分かるが、腹で呼吸している。
だから、赤ん坊はエネルギーに満ちている。
エネルギーの根源たる腹に完全に一致しいているのだ。
学校の誤った教育に騙されず、下腹に重心を置き、肩から力を抜いて、背筋を伸ばすことだ。椅子の背もたれは使ってはならない。
電車の中で、ふんぞり返って座っているのは、最近では男性ばかりではなく、女性もそうなってしまっている。
大切な腹を捨ててしまったような者に、いかなる運もなく、力は漏れ続けるだけであろう。









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他人の目を気にせず自由に気楽に生きるには

サラリーマン五年目さんからのコメントが良かったので、お答えしたい。
他の方々にも有益な、良いコメントや質問をお願いしたい。

【コメント】他人の目を評価を気にしなくなると人生は楽に生きられますよね?自分はかなり気にしてじまう性格でこの性格を変えたいです。Kさんはどう考えますか?他人にきを使わない性格を身につけたいです。

まず、なぜ他人の目が気になるかというと、その他人と同じ価値観を持っているからだ。
その他人とは、おそらく、世間の普通の人のことであろうから、つまり、自分も世間の価値観を持っているということだ。
世間的価値観を持っているから、世間の人の目が気になるのである。

中には、「いや、俺は世間的な価値観は持っていない。自分独自の価値観で生きている」と言う人もいるだろう。
しかし、それでも、他人の目が気になるなら、やはり、かなり世間の価値観に毒されているのである。

真理を言うなら、他人というものは存在しないのだが、世間的価値観を持つ普通の人である限り、他人は現実として存在する。
そこで、まずは、世間の価値観を疑うことから始めなければならない。
確かに、世間で価値あるとされているものは、ほぼ全て無価値ではあるのだけれど、なんでもかでも否定すればいいってものでもない。
しかし、まずは、なんでもかでも、鵜呑みにするよりは疑うのだ。
理性を正しく導くことが必要であるが、それには、今でもデカルトの『方法序説』が役に立つ。
この、12歳の子供でも理解できるように書いたという、短い「理性を導く方法」は、あまりに軽視されており、本来、誰でも一度は読んでおくべきものだ。
デカルトは、「単に確からしいと思えるものは全て虚偽とみなす」というほど、徹底して疑ったのだ。

だが、最も大切なものは直観である。
デカルトだって、最後には直観によって、真理を悟ったのである。
それは、聖者の悟りとは言えなかったかもしれないが、それでも、世間の人の認識や価値観をはるかに超えたものだ。
デカルトは、自分が通った学校を賞賛し、教師達に感謝を捧げていた。おそらく、良い教育が行われていたのだろう。
だから、デカルトは、級友達の中に、自分よりはるかに優れた能力を持つ者達がいくらでもいたことを認める謙虚さを持てたのだ。
しかし、おそらく、我が国の学校には、何も価値はないのだが、それは、自らの直感の光で確認しなければならない。

理性を正しくするためには、可能な限り、不要なものを求めず、欲望を持たず、静かな心にならなければならない。
理性とは、直感力のある状態と異なるものではない。
直感を持つと、自ずと、世間の教義や信念とは、逸脱と迷妄、迷信であることが分かってくる。
マスコミでは、オリンピックで日本人がメダルを取ると、大絶賛し、メダリストをヒーロー扱いする。
オリンピックメダリストに何か価値があるだろうか?
何もない。
「彼らの努力を評価しないのか?」
と言われるなら、我欲のために努力することは、別に非難する気はないが、全く評価に値しないと言うしかない。
彼らは、金のため、世間の名誉と賞賛のため、ちやほやされる欲望のために努力をしたに過ぎない。
日本に元気や勇気を与えるためだとかいったことを、マスコミや、選手のスポンサーの大企業や、あるいは選手自身が言う。だが、競技で勝つことで、本当の活力を与えることは出来ないし、そもそも、元気や勇気は、与えるものでも、与えられるものでもない。
元気や勇気は、ある状態が自然なのであり、与えられないといけないなら、そもそも異常なのだ。メダリストを賞賛するような価値観を持っているから、元気も勇気も無いのだということに気付かなければならない。
もちろん、スポーツから良い影響を得ることは出来る。それは否定しない。
それはどのようなものかと言うと、勝者が敗者に敬意を示し、より謙虚な態度を取る姿だ。
しかし、オリンピックでも、敗者の前で無神経にガッツポーズを取って狂喜乱舞する醜い姿ばかりだ。そんな何の美徳も持たない選手達の姿は、子供達に見せてはならないものであると言って間違いない。

世間では、良い学校を出ていること、高収益の大きな企業の社員や公務員であること、収入が多いことが価値があることであるが、それらは全て、ただ運命でそうなったのであり、悪いことではないとしても、何の価値もないことである。
こういった、世間の価値観、世間の教義や信念とは全く異なる、正しい価値観を持てば、やがては、他人の目など、全く気にならなくなるだろう。
直感を得るには、真理を認識しなければならないが、そのためには、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナ神の教えが最上であろう。
ガンジーが生涯愛読し、あのエマーソンすら、この書から学び、一切の聖典を重んじなかったラーマクリシュナが、これだけは真の神の言葉と言った短い聖典である。
世間や、その代表格の学校が『バガヴァッド・ギーター』を読めということはない。学校とは、正しいことを教えないところだからだ。
そして、日本人であれば、古事記を読むことの価値は計り知れないだろう。
何と言っていいのか分からないので、とりあえずこう言うが、古事記に馴染み、そこに書かれた言霊に馴染むなら、神々はいつでも我々の味方である。
無理にそう思う必要はないが、自ずから分かるだろうと思う。古事記の表向きの意味にこだわってはならない。ただ、心静かに淡々と読むことである。特に、神々の名前に意識を向けるのだ。
本当の真理を知れば、もはや、他人というものは存在しない。気にするような他人の目など、初めから無かったことが分かるのである。
世界の中には、無数の個別化した自分が存在するだけである。









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面白きこともなき世をどう生きるか

江戸時代の長州藩士であった高杉晋作の辞世の句(死に臨んで残す言葉)は

おもしろきこともなき世におもしろく

であったことはよく知られている。
ただ、一字違いの、

おもしろきこともなき世をおもしろく

であったのではないかとも言われているが、本当のことは分からない。
彼が書いたものが残っている訳ではないからだ。
そして、この句の後に、野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けたものが知られているようである。
この2つを合わせた、

おもしろきこともなき世におもしろく、すみなすものは心なりけり

であるが、一般には、「世界は、そのままでは面白いものではないが、それを面白くするのは、各人の気持ち次第だ」と解釈されているのではないかと思う。
もしかしたら、高杉もそんな意味で言ったのかもしれない。

だが、その場合、ちょっと困ったことがあるのだ。
この言葉から、多くの人々が、「では、この世が面白くなるような気持ちになろう、あるいは、面白い気持ちになれるよう努めよう」と思うからだ。
しかし、誰も、自分の思うままに、面白い気持ちになどなれない。いや、どんな気持ちにだってなれないのだ。
あなたは、自分の思うままに、楽しい気分、愉快な気分、憂鬱な気分、悲しい気分になど、決してなれない。

「雨が降れば憂鬱」と感じることが、愚かであるように言われることがあるかもしれない。
しかし、決してそんなことはないのだ。
誰も、雨が降って、憂鬱になるかならないかを自分で選ぶことは出来ないのだ。
憂鬱になるなら、なれば良いのである。
どんな偉人にだって、雨が降れば憂鬱だと思う人はいるのだ。
大切なことは、「雨が降って憂鬱になってしまう私は駄目な人だ」と思わないことだ。

だから、面白いこともない世の中で、自分の心を面白くできないからといって、自分は弱い人間だと自己嫌悪する必要はない。それは、あなたの欠陥ではない。
そして、世の中の印象を自分で決めようなんて思うと、必ず惨めな気分になる。それは決して叶わず、自分の無力を思い知るからだ。
まるで、イケメンの彼を、佐々木希と奪い合って、自分の愚かさを思い知るようなものだ。

では、面白くない心をどうすれば良いのだろう?
出来るだけ、何も考えないことだ。
一切の想念を、出来る限り起こさないことだ。
「そんな・・・頭を使わないと馬鹿にならないか?」
と思ってはならない。
瞬間的な想いは、自動的に起こる。それは、止めようとしても止まらない。
生きている人間が、頭を使わないなんてことはない。
ただ、その思考を、まるで他人のもののように、出来るだけ無関心でいることだ。

ラマナ・マハルシに、ある男が訴えた。
「隣の家の娘が美しく、もうたまらない。私は妻子があるが、この欲望を止められない。とんでもない間違いを犯しそうだ。どうすればいいでしょうか?」
マハルシは、
「そう思っているのは誰かね?」
と尋ねると、男は、
「私です」
と答えた。すると、マハルシは、
「私とは誰かを見出しなさい」
と言った。
しかし、多分、その男は、そう簡単に「私」を見出せないだろう。
それで、マハルシは、
「間違いが起こったとしても、それが運命だったと思い、苦しむな」
と、慈悲に満ちた態度で言った。
マハルシは言う。
「全ては、神の至高の力が動かす。汽車に乗ってまで、あなたの小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要があろうか?荷物を降ろして安心しなさい」
この世が面白かろうが、面白くなかろうが、それを、どうこうしようなどと思わなくなってこそ安らかでいられるのだ。つまり、全て大自然に任せることだ。

初音ミクと巡音ルカのデュエット曲『ワールズエンド・ダンスホール』(作詞・作曲:wowaka)の中に、

全然良いこともないし、ねえ その手を引いてみようか?

とフレーズがある。
まあ、全然良いこともないのは、お互い様だが、この手を引けるものなら引いてみるがいい。私がどう反応するか、自分でも分からないし、それで何が起こるかも分からない。
古事記で、タケミナカタノカミがタケミカヅチの手を取った時、タケミカヅチの手は氷や刀に変化し、タケミナカタノカミは恐れた。
私の手は何に変わるであろうか?
起こることは、どうあっても必ず起こる。
起こらないことは、どれほど熱望しようが、絶対に起こらない。
なるようにしかならないが、なるようにはなる。
ならば、気楽に、何が起こるかを傍観することだ。幼稚園の演劇を見るように。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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