ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

我々は皆、記憶喪失者である

あまりにショキングな出来事があると、人はそれに関する記憶を失ってしまうことがあるらしい。もし、そのことを憶えていたら、精神が深刻な障害を受けかねず、それを回避するために働く、脳に備わった自立機能のようで、それが本当なら、なんとも素晴らしい能力である。
小説では、筒井康隆さんの『悪夢の真相』(角川文庫版『時をかける少女』に同時収録)や、L.ロン.ハバートの『フィアー』などにそんな話があるが、実に面白かった。
子供が見るアニメではあまりに残酷なのでストーリーが変更されたのだと思うが、武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』では、セーラームーンこと月野うさぎは、恋人の地場衛(ちばまもる)が、目の前で肉体が崩壊して死ぬのを見たのに、彼女の意思は、それを完全に記憶から抹消してしまう。
『ウルトラセブン 失われた記憶』(1998)では、大爆発に巻き込まれ、記憶を失くしたセブンは、人間の姿で、肉体労働者としてある母娘の家で暮らしながら、夜空の星を見上げては懐かしさを感じていた(セブンはM78星雲から来た宇宙人である)。
真下耕一監督のアニメ作品『NOIR』や『エル・カザド』でも、それぞれ記憶を失った少女が登場するが、これらの美少女達が本当は何者なのかというところが作品に神秘的な魅力を与えているのである。

だが、我々は、最も大切なことに気付いていない。
それは、我々自身が、大いなる記憶喪失者であることだ。
我々は、自分が本当は誰なのかを忘れてしまっているのである。しかも、そのことが全く分からない。
人間というのは、自分を、周囲との関係性でしか理解できない。その最も基本的なものが、自分が生まれた家であり、両親である。そして、父親より母親との関係で自分を認識する。
父親の場合はさほどでないが、自分の本当の母親が分からないことは、人間にとって実に不安なもので、それで、『母をたずねて3千里』のようなお話が世界的なものになるのである。
しかし、母親との関係なんてものは、とりあえずの相対的なものにしか過ぎない。人間は、そのことが分からない。そんな仮のもので一応納得しているが、実は、心の奥では、自分が何者か分からない大きな不安を持っているのである。
人は、自分が誰なのか分からないという潜在的な不安に動かされ、この世で自分というものをしっかりと確立したくて、自分の揺るぎない確固たる居場所を求める。それで地位や富を得ようと狂奔したり、偉大な男の妻になることに憧れたり、多くの人に名を知られる業績を上げることを夢見るのである。
だが、いかに富を得、有名になり、賞賛されても、不安はいっこうに拭えない。それどころか、得れば得るほどに不安が大きくなり、絶望に陥っていくのだ。
驚くべきことに、世界でも指折りの成功者ほど、実際は惨めなのである。
世間での自分など、偽者とは言わないが、仮のものに過ぎない。そんなものを追求することに意味はない。

現在、深夜に放送されているアニメ『BLOOD-C』で、主人公の更衣小夜(きさらぎさや)が苦しげな表情で言う。
「私の名は更衣小夜。私立三荊学園高校の2年生。お友達はねねさん、ののさん、優花さん・・・。父様の更衣唯芳は浮島神社の神主で・・・」
自分のことを必死で語るが、そんなことは彼女にはどうでもいいことだった。ある大きなことが分からないからだ。
我々も同じなのだ。本当に肝心なことが何も分からない。
『BLOOD-C』で、小夜は、「自分が何者なのかをよく考えろ」と言われるが、我々も、本当はそうしなければならない。

20世紀の初め、ラマナ・マハルシは我々に、探求すべき最大の問題を提示した。
「私は誰か?」
それを常に自分に問うことを薦めた。
それが分からなければ何も分からない。逆に、それを知れば全てが分かる。
だが、マハルシの著作は分かり難い。彼は、実際は、ほとんど会話をしなかった。そして、話したことも、誰かが著述し、翻訳する中で齟齬が生じる。
マハルシを崇拝する者は我が国にも多いと思うが、そのことで悩む人もいるかもしれない。

スコットランド出身の神学者マード・マクドナルド・ベインの身体を借り、イエスはこう言った。

『自分は一体何なのか?』
この質問を十分に納得がいくまで自分自身に課するがよい。
~『心身の神癒-主、再び語り給う-』(霞ヶ関書房)より~

これは、答を作るのではない。思い出すのだ。
決して他人に尋ねてはならないし、他人の答えを聞こうと思ってもならない。

アンサーを求めないこと
つねにクエスチョンを
自らの意志を信頼して
投げかけること
~『リメンバリング』(徳間書店5次元文庫)より~
※著者は、本書は特殊な読者のために書いたのだから気楽に買うなと警告している

本当の自分が分かれば、全ての問題は解決する。
病気は消えるし、お金で困ることもなくなる。人間関係も解決する。
いや、問題は消えるのだ。いやいや、元々、問題なんて存在しなかったと分かるだけだ。









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生まれ変わりの異説

生まれ変わりをどのくらいの人が信じているものかは分からないが、それを前提として書かれた飯田史彦氏の『生きがいの創造』がベストセラーとなり、続巻も数多く出版され、好評であるらしいことから、それを信じている人も多いだろうし、確信の域に達している人もいるに違いない。
アメリカでは科学者による研究によって、客観的な証拠が得られたという話もあるようだ。
生まれ変わりに関してよく知られているのが、アメリカのエドガー・ケイシーが、催眠状態で話したもので、その時は、ケーシー自身は何を言ったか憶えていないのだが、彼が数多くの人の前世について話したものの中には、かなり明確な証拠が得られたものもあると言われる。面白いのは、ケーシーは熱心なキリスト教徒であるが、キリスト教では生まれ変わりは認められておらず、ケーシーはある時期までは、いかに信憑性のある結果が出ても、自分では生まれ変わりを否定していたという。
そんなケーシーも、疑いようにのない数多くの証拠により、ついには信じるようになったのだった。

ところが、霊に関する思想では高く評価されるような人達の間でも、生まれ変わりに関して、その内容にかなり矛盾するところがある場合がある。
そこで、ここで3人の著名な人達の、生まれ変わりに関する話の相違をお話しよう。
1人は、先ほど取り上げたエドガー・ケーシーだ。ケーシーが催眠状態で語った多くのことは、医学、科学、工学などの分野でも評価されており、有益な成果をもたらしているが、逆に、デタラメと思われるものが全くと言って良いくらいないということからも信憑性があると思われるのである。
2人目は、18世紀に活躍した万能の天才で、科学者、技術者であると共に政治家でもあったスウェーデンの、エマニュエアル・スウェーデンボルグだ。彼の実績はあまりに多岐に渡り、どれを説明してもl長い話になってしまう。ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーらが崇敬し、アメリカ最大の賢者と言われるラルフ・ウォルドー・エマーソンが、偉大な人類の5人の内の1人に選び、特に英知に関しては最上の賛美を与えている。スウェーデンボルグは、伝統的なキリスト教の教義に反する説を唱え、そのままでは死刑は免れなかったので、英国に亡命したが、死後140年経って、スウェーデン政府は、偉人として彼の遺体を引き取るために巡洋船を派遣し、壮大な国葬を執り行ったのだった。
3人目は、宇宙人とのコンテクティー(接触者)として知られるジョージ・アダムスキーだ。世間では、偉人というより非難の多い人物であるが、その活動範囲や、なんといっても著作に見られる彼の哲学の素晴らしさはとても簡単に否定できるものではない。私も、彼の全てが真実とまでは言わないが、人類にとって重要なことを掴んでいたのだと思う。

さて、意外と言って良いかは分からないが、スウェーデンボルグは生まれ変わりを否定している。魂は不滅ではあっても、生成の後、地上に生まれるのは一度きりで、死後は霊界に住むのである。
一方、ケイシーとアダムスキーは生まれ変わりを完全に肯定するが、重大な違いがある。それは、生まれ変わりのサイクルである。つまり、死んでから、どのくらいの期間で、地上に再び生まれるかだ。アダムスキーは死んで、すぐに転生するという。だが、ケイシーはその期間は一定でなく、死後、ある程度の期間は霊界で過ごし、すぐに転生する場合は少ないと言っているようである。中には、非常に少ない回数しか転生しておらず、人間の生活に慣れていないせいで、人付き合いなどで苦労し、人々から変わり者扱いされる者もいるという。

ただ、これらの話を、あまり表面的に受けとらない方が良い。なぜなら霊とか霊界のことは、我々の想像の範囲を超えたことがいくらでもあると思われるからだ。
生まれ変わりはないというスウェーデンボルグであるが、霊が、霊界とこの世に同時にいることはあるとしている。あるいは、霊界の霊が、この世の人間の中に半分入り込んで影響を与えることもあるという。それなら、既に死んでいる人しか知らないようなことを語ったとしても、その死んだ人の生まれ変わりであるのではなく、死んだ人の霊が霊界から、生きている人に影響を与えているのかもしれない。考えようによっては、これも一種の生まれ変わりかもしれない。
また、アダムスキーは、霊媒が、昔に死んでいる人の霊と接触することがあり、それならば、死んで即時に転生する彼の主張と合わないということに関して、こう説明する。それ、霊の記憶は、物質の分子の中に残るのであり、霊能力者は、そこに残された記憶を読んで、その本人の霊と接触したと思っているのだという。

私個人としては、この3人の言うことの間に矛盾は無いと感じるのだ。人の知識や理解力、思考なんて、たかが知れたものだ。真理であっても、我々に理解できないことなど、宇宙にはいくらでもある。道元禅師の書かれた『正法眼蔵』のように、心の奥では美しい真理だと感じても、理屈の心ではほとんど理解できないということもあるのだ。科学でも、高度になれば、やはり通常の思考では捉えられず、矛盾の無い範囲に分割した推論を組み合わせることで正しいだろうとはするが、間の推論を抜かすと矛盾するというものはいくらでもある。

『バガヴァッド・ギーター』では、生まれ変わりはあるが、高度に進化した魂は、この世に再び転生せず、素晴らしい世界で過ごすというが、それは、浄土系仏教の経典でも同様と思う。
イエスも、生まれ変わり自体は語っていないが、やはり良き人は天国に入ると教えている。
そして、スウェーデンボルグはもちろんだが、ケイシーやアダムスキーも、優れた霊は、地上とは異なる、より優れたところに転生すると言っていると思う。スウェーデンボルグの場合は、何段階もある高い天界として、そして、アダムスキーはより進化した惑星へ、ケイシーも、アダムスキーと同じようなことを認めていると思う。しかし、やはり、これらは、表現は異なっても、同じことであるのかもしれない。









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「いただきます」は神仏に対して言うものである

我が国では、食事の前に「いただきます」、食べ終わったら「ごちそうさま」と言う。
アメリカ等では、食事の前に、「神よ、今日の糧を与えて下さいまして感謝します」といったお祈りをする。
ところが、日本の「いただきます」「ごちそうさま」は、人によって、意味が違うという奇妙なものである。

日本の家庭では、子供が「いただきます」と言ったら、父親が「うん」と返事をする。父親がいない場合は、母親が「はい」と言う。そんな場合が多いだろう。
父親にすれば、「俺が稼いでお前らに食わしてやってるのだ」という思いがあるので、「いただきます」「ごちそうさま」は、当然、自分への挨拶だと思っているだろう。
母親にすれば、料理を作ったのは自分なのだから、自分に対する挨拶だという思いがある。
父親は、子供の「いただきます」は、自分に対して8、母親に対して2くらいで、母親は、父親とほぼ同等か、自分の方がやや上くらいに思っているかもしれない。
あるいは、「いただきます」は、主に父親に対して、一方、「ごちそうさま」は母親に対してという感覚がある場合も多いように思う。
いずれにしろ、父親、母親は、家庭内においては、自分達は、「いただきます」「ごちそうさま」は言わないことが多い。
一方、アメリカなどでは、父親、母親はお祈りをしないどころか、率先して、「神様、今日も食事を与えて下さいまして、ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げる。

日本の父親、母親とは、おそろしく傲慢なのではないだろうか?
アメリカ人は、日本人が「いただきます」「ごちそうさま」と言うところを見たら、それは神への挨拶と思うに違いない。
それを、父親が神の代わりに返事をするなど、まさに、「身の程を知れ」ということになりはしないか?
もし、日本の父親がそう指摘されたら、「馬鹿野郎、俺が稼いでるんだ。当然、俺への挨拶だ」と言うだろうが、アメリカ人にすれば、「君が働けるのは、神様のおかげだ」と言うのではないだろうか?

私は、キリスト教系の幼稚園に通ったが、別に両親にそんな信仰があった訳ではなく、一番手近な幼稚園だから入れられたのであり、入園資格にもクリスチャンであることなどは無かったはずだ。西洋人のハンサムな神父がいたし、イエスやマリアの話を聞いたり、賛美歌を歌うこともあった。しかし、先生にはおそらくは信仰はなかったと思う。それらしい雰囲気がまるで無かったからだ。だが、それでも、先生は一応、キリスト教のしきたり通り、昼食のお弁当の際、お祈りをすることを子供達に指導した。そして、私も、そのお祈りは、神様に対するものであることを了解していた。ただ、本格的なお祈りでもなかったのは、大半がクリスチャンではない家庭の子だという配慮があったからに違いなく、「神様、いただきます」といった程度のものだった。
ところが、家で夕食の時、「いただきます」と言うと、既に晩酌でとろんとした目の父親が「うん」と偉そうに返事をする。これは、強烈な違和感だった。私は、神様に対して挨拶しているのに、なぜか父親が返事をする。「ごちそうさま」と言ったら、母親が当然のように返事をする。その矛盾に苦しみ、いつからか、「いただきます」「ごちそうさま」を言わなくなった。

実をいうと、日本での「いただきます」「ごちそうさま」は仏教的、あるいは、神道的なもので、その意味は、やはり、食事を与えてくれた神仏に感謝するというものだ。その証拠に、「いただきます」「ごちそうさま」と言う時は合掌するのが当たり前だ。いかに父母に敬意を払うとしても、いくらなんでも、人間に対して合掌するはずがない。
だから、父親が「俺が食わしてやってる」、母親が、「私が作ってあげてる」と思うのは、やはりとんでもなく傲慢なのだと思う。
私は、「いただきます」「ごちそうさま」を言わなくなって長いが、少し前まで、飽食で身体を悪くしたのは、それが原因であるように思う。
私の父親は、割と早く病気で死んだ。立派な人であったと思うが、全体的に考え、食事の前に神仏に対して「いただきます」と言っていれば、もっと長生きしたと思う。母親は食べたいだけ食べてひどく肥満し、高血圧や脚の悪さで苦しんでいるが、私は彼女が「いただきます」と言うのを聞いたことがない。そうでなければ、こんな状態ではなかったと思う
私は、今は、1日1食で、肉、魚、卵などを食べずというより、毎日、パン、野菜、果物、ナッツしか食べない。しかし、そうなってこそ思うが、食物はやはり神仏の恵みであると思う。今後は、形式的な祈りではなく、それを心にとめようと思う。

ネット上で調べると、アメリカには「いただきます」といったことを言う習慣がなく、それを英語で言うとしたら「さあ、食べよう」を意味するような言葉で言えば良いといったようなものを見たことがあるが、それはとんでもない了見違いと思う。
現在もそれが厳格に守られているかどうかは分からないが、アメリカのまともな家庭では、食事の前にお祈りをするのであり、日本の「いただきます」「ごちそうさま」も、本来は神仏への祈りである。ただ、日本の場合は、神仏に対すると共に、穀物を育ててくれたお百姓さんや、魚を獲ってくれた漁師、そして、料理をしてくれた人に対する敬意やねぎらいが含まれているのも確かで、それはやはり美しいものであると思う。









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宇宙のロマンと地球人類の超進化

現代のスペースオペラ(宇宙活劇)は、スペクタクル(壮大)さの度合いが大き過ぎ、素朴に、他の惑星の様子や宇宙人について思索するには不向きなものになってしまったと思う。「スターウォーズ」を観て、「宇宙人は本当に存在するのだろうか?」と考えるのは、相当な的外れであろう。「スターウォーズ」を楽しむには、宇宙人が本当に存在するかどうかということは、別問題というよりは、どうでも良いことなのである。

だが、改めて考えてみると、地球以外の星に、地球をはるかに上回る高度な文明が存在することは素晴らしいロマンである。
真空の宇宙空間の闇を越え、UFO型の宇宙船(スペース・シップ)が地味に航行する。この「地味に」とは、宇宙人にとってのことである。しかし、我々にとってそれは、心躍る夢や冒険であり、うっとりするような憧れや神秘である。
それだけではない。
我々にとって、飛行機や鉄道が安全であること以上に、宇宙人のスペース・シップは安全である。真のテクノロジは、技術的な複雑さや難しさを感じさせない平和な感覚や安らぎを与えてくれるのである。そういった超高度のテクノロジは、現代の我々には想像も出来ないことであるが、それでも、不思議なことに、我々は心の奥で、確かにそれを知っていて、スペース・シップのことを思うと、ノスタルジ(郷愁)に似たものを感じるのである。
まことに、「懐かしさと予感は似ている」という神秘である。懐かしさ(過去)と予感(未来)は、共に現在なのである。

そうだ、我々は知っているのである。異星のこと、宇宙文明のこと、宇宙を航行する「感じ」を。
我々は根源において全てとつながっており、そして、宇宙からはいつも我々に呼びかけているのである。ただ、我々の受信能力に問題があり、宇宙意識の全てを感じる訳ではないのだけれど、いくらかは、あるいは、人によってはかなりのものを受け取っているのである。
我々の本質は、肉体ではなく、意識であり、そこには、時間や空間はない。10万光年離れた星といったところで、その間の空間は存在せず、すぐ隣にあるようなものだ。
スペース・シップは、時空という仮の世界に存在する肉体や自我を運ぶものに過ぎない。
スペース・シップは、その機体と共に、肉体や自我(自我は肉体よりやや精妙な身体である)を量子化し、目的地で再構築する。よって、物質的にはいかに離れていても、一瞬で到達する。ただ、スペース・シップと自我意識の調和の関係で、例えば、普通の人間が土星に行くには数時間ほどかかったりもする。
スペース・シップは、目に見える範囲での航行では、我々のテクノロジと似たような方法を使っているように見えるが、やはり、運動エネルギーを使っているのではなく、量子的なテクノロジを使っているのである。

難しいことはさておき、直径10メートルほどの小型のUFO型スペース・シップに1人で乗るとしよう。
あなたは、搭乗した瞬間に感じる静寂や安らぎに圧倒される。敢えて1人と書いたのは、別に多人数で乗っても構わないのであるが、1人でも寂しさや不安を感じないと述べたかったのである。スペース・シップ自体に意志があるということもあるし、元々、どこにも孤立というものが無いということが、スペース・シップの中では、さらに明確になるのだ。

実際、スペース・シップの中は、平安以外の何者でもない。ずっとそこにいたいような気持ちにもなる。だが、魂を充電させたなら、我々には新しい冒険が待っているのだ。
いかなる星でも、あなたは歓迎される。だが、そこでうまくやれるかどうかはあなた次第でもある。どんなことも、地球に比べ、最初のとっかかりの敷居は確かに低いのだ。しかし、地球でうまくやれない者は、やはり、他の星でもうまくやれない。だが、別に心配はいらない。やり方が分かれば、困難は我々を楽しませるだけだ。そして、それは地球でも同じことなのである。地球でうまくいかないから、他の星へ行くという了見では駄目だし、そんな必要はない。

別に不思議なことでもないが、地球自体が1つのスペース・シップである。
そして、地球は、スペース・シップの本来の意味で、ごく普通の方法で新しい場所に移動することになる。物質的には、数万光年を移動するので、現在の自我意識の人間を乗せて移動するには、強いエネルギーにより、強制的に全てを量子化しなければならない。このことを、一部ではアセンションと呼んでいるようである。
すると、地球で安らぎを感じることができない者は、量子化の際、実相に変異が生じ、物質世界に人として再生されない。それでも、動物、植物、あるいは、鉱物へと戻っていけば、それはそれで幸福に暮らせるのである。だが、やはり人として再生し、さらに高いところに行く方が良いのである。

地球で、あるいは、他の惑星でうまくやっていくために、そして、数万光年を地球ごと移動し、再び人として再生するために、我々は普遍意識に回帰しなければならない。
そのために、『バガヴァッド・ギーター』を読むと役に立つだろう。ギーターは理想的な意識に到達するため、至高者が古代の優れた人に語った宇宙の真理である。









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一生を左右する本との出逢い

オールコットの小説『若草物語(原題Little Women)』の中で、クリスマスに、4人の姉妹みんなに母親が聖書をプレゼントする話を印象深く覚えている。もちろん、この家にも聖書はあったと思うが、自分専用のものが持てたことを姉妹は喜び、毎日少しずつ読むことを誰かが(多分メグだろう)提案し、皆が同意したのだった。
父親は戦争のために出征中で、決して豊かではない家庭には、4冊の聖書は安くはなかったと思うが、母親がそのために節約をしていたのだろうと想像できる。末っ子のエイミーも12歳で、サンタクロースを信じる歳でもないということであるかもしれないが、長女のメグでも16歳。自分用の聖書を持つに理想的な年齢かもしれない。この母親の配慮は素晴らしいものと思う。

これはという本を子供に与えるという親は、本がいくらでも入手可能な今の日本でも少ないかもしれない。
我が国では、聖書というのはちょっと違和感を感じるかもしれない。しかし、私は高校1年生の時、おこづかいでフェデリコ・バルバロ訳の聖書を購入したが、実に良いもので、今でも愛読している。イタリア人の神父であるバルバロが日本に来て日本語を学び、自ら日本語に訳したものだ。イタリア人が訳したものとはとても思えない格調高い日本語になっている。新約聖書の原典はギリシャ語で書かれているが、バルバロは、多くがそうであるように、ラテン語に翻訳されたものから訳した。しかし、彼はギリシャ語版も研究していたようである。
他の聖書の翻訳で私が気に入っているのは塚本虎二さんのもので、聖職者でもなく、教会と関わりを持たない彼が、長い年月をかけて研究を重ね、とにかく分かりやすいことを主眼に戦時中に完成させたもので、現在もロングセラーを続けている。バルバロ訳も初心者に対する配慮があるが、塚本さんは自分の8歳の娘にも分かるような書き方の工夫をしてあり、本当に分かりやすい。

日本独自の信仰は神道であるが、神道には、独自の聖典、経典というものはない(神道は、本来は宗教ではない)。
また、我が国には、早くから仏教が導入されたとはいえ、どの家にも仏典があるとも思えない。

だが、『古事記』は、文学として扱われていると思うが、神道の聖典であるとも言えるかもしれない。
美智子皇后は、第26回IBBYニューデリー大会(1998年)における基調講演で、少女時代に読んだ古事記について話されていた。
皇后はご存知のように一般の出身の方で、戦時中だった子供の頃は、家が資産家であるとはいえ、疎開先に居たこともあり、あまり多くの本が手に入らなかった。その中で、父親からもらった古事記(美智子皇后は「古代の物語」と表現しておられた)の中に、忘れられない話があたっという。
皇后のお話は、下に原文のリンクを設置しておくのでご参照いただきたいが、それは、倭建御子(やまとたけるのみこ)の后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が、重要な使命を帯びていた倭建御子を生かすため、自分が犠牲になって海に入り、海神の怒りを鎮めたというものだ。
その時、弟橘比売命は、以前、倭建御子が自分を気遣ってくれた時のことを思い出して詠み、別れの歌とした。
おそらく、10歳くらいであった皇后は、愛と犠牲は同じものではないかと感じたという。

第26回IBBYニューデリー大会(1998年)基調講演<子供の本を通しての平和--子供時代の読書の思い出--美智子>

皇后の父親は素晴らしい本を彼女に与えたのである。
皇后は、その本の詳しいことは憶えておられないようであるが、古事記を子供向けの神話として書いた本は今でもいくつかあるので、そのようなものであったのだろう。

古事記そのものは、決して子供が読みやすいものではない。
しかし、児童文学者の鈴木三重吉さんが、古事記を、子供からお年寄りまで分かりやすく読めるように書いた『古事記物語』が、1920年(大正9年)に発表されている。分かり易くありながらも、その文章は実に格調高く、書かれてから90年も経つ現在もロングセラーを続ける名著である。
また、同じ『古事記物語』の題をつけた福永武彦さんのものも素晴らしく、薦める時には迷ってしまうのである。
鈴木三重吉さんのハードカバー版は、総ルビ付きであり、子供が小学校高学年以上であれば、与えると良いと思う。もちろん、大人が読むにも良いものである。
私は、この鈴木三重吉さんと福永武彦さんの『古事記物語』と、福永武彦さんの『現代語訳古事記』全て愛読している。
春日大社の宮司であられた葉室頼昭さん(医学博士。形成外科医)は常に古事記を読むよう薦めておられたが、それにより、日本人の魂の奥に潜む神秘な精神を呼び覚ましてくれるに違いない。
古事記は、旧約聖書に似ているところがある。お話そのものに似た部分もあるが、それよりも、表面的に読むなら、夢のような神話であるところがである。エマニュエル・スウェーデンボルグは、現代人には聖書の意味が分からなくなっていると述べていたが、それは、人々がものごとを理屈で考えるだけになり、霊的な知覚能力が退化したからである。しかし、無欲な澄んだ心で読めば、きっと分かるだろう。それは古事記も同じであると思う。
エドガー・ケイシーは、9歳の時に両親にねだって自分専用の聖書を買ってもらい、13歳までに13回通読すると、不思議な存在に出逢い、運命が変わった。その後も、毎朝聖書を読み、1年に1回通読することは生涯続けたようだ。

仏典も、一般の人が読みやすいように書かれたものがある。
友松圓諦さんの『法句経』は、平易で簡潔ながら、非常に拡張高い詩だ。私は、浄土真宗のお坊様に、『法句経』は、最も純粋なお釈迦様の教えであると教わった。尚、浄土真宗の本来の聖典は、浄土3部経と言われる『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』である。
江南文三さんの『日本語の法華経』は、話し言葉のような親しみやすい文体で書かれた誰でも読める法華経である。

ところで、『ヒマラヤ聖者の生活探求』を著したベアード.T.スポールディングは、「西洋人はやはり聖書を読むのが相応しい」としながら、やや控えめに、「本当はバガヴァッド・ギーターを読んだ方が良い」と述べていた。
その理由は、上にあげたスウェーデンボルグが言ったように、やはりその意味が分かり難いということがある。また、聖書には原典からの翻訳の際の誤訳もあるようだ。さらに、意図的な改ざんもあると言われる。
だが、バガヴァッド・ギーターなら、長々とした物語を読まされることもなく、優れた教師が生徒に明晰に理解させる目的で心を砕いたかのように、真理を直接に平易に述べている。
同じ意味で、古事記よりもバガヴァッド・ギーターを読んだ方が良いと言えるところもあると思う。
しかし、聖書は、西洋人に馴染みやすいと共に、イエスが示した手本を見てそれに習うことができるし、古事記は、やはり我々日本人には親しみやすいところがあり、また、聖書やギーターにはない特別なものがある。
まあ、これらをどう選び、どのように読むべきかは、内なる自分に尋ねてみるのが一番であるが、バガヴァッド・ギーターを読むと、聖書も古事記も、意味を感じ取りやすくなるかもしれないと思う。

















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プロフィール
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・初音ミクさんのファン
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◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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